2016/07/10 ハイデルベルグ信仰問答22-3「私は信じます」Ⅰコリント一五章1-2節
世界には沢山の教会があります。クリスチャンは二〇億人いると言われています。鳴門の教会にも、今、六つの国の人たちが一緒に礼拝をしています。言葉ややり方はとても違っているでしょうが、みんな同じ信仰を持っています。キリスト教の基本的な信仰は一つです。そして、その世界中のキリスト者たちと一緒に私たちが告白している信仰について、今日から学んで行きましょう。
問22 それでは、キリスト者が信じるべきこととはなんですか。
答 福音においてわたしたちに約束されていることすべてです。わたしたちの公同的な、確固たるキリスト教信仰箇条がそれを要約して教えています。
問23 それはどのようなものですか。
それは「使徒信条」なのです。
使徒信条「我(われ)は天地(てんち)の造(つく)り主(ぬし)、全能(ぜんのう)の父(ちち)なる神(かみ)を信(しん)ず。我(われ)はその独(ひと)り子(ご)、我(われ)らの主(しゅ)、イエス・キリストを信(しん)ず。主(しゅ)は聖霊(せいれい)によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦(くる)しみを受(う)け、十字架(じゅうじか)につけられ、死(し)にて葬(ほうむ)られ、陰府(よみ)にくだり、三日目(みっかめ)に死(し)人(にん)のうちよりよみがえり、天(てん)に昇(のぼ)り、全能(ぜんのう)の父(ちち)なる神(かみ)の右(みぎ)に坐(ざ)したまえり、かしこより来(きた)りて、生(い)ける者(もの)と死(し)ねる者(もの)とを審(さば)きたまわん。我(われ)は聖霊(せいれい)を信(しん)ず、聖(せい)なる公同(こうどう)の教会(きょうかい)、聖徒(せいと)の交(まじ)わり、罪(つみ)の赦(ゆる)し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信(しん)ず。 アーメン。」
朝の礼拝では、この「使徒信条」を毎回最後にみんなで言っていますね。それはただ呪文のように唱えているのではありませんよ。これこそ、私たちの信じ、告白している内容なのです。意味も分からないまま、ただ唱えるのではないように、これがどういう事なのか、知っていくのは大切な事です。これから、ハイデルベルグ信仰問答では、この使徒信条を問24から問58まで解説しながら、神が私たちに下さった福音がどんなことなのかを説き明かしていきます。一つずつ、見ていきましょう。前回お話ししたように、それは、ただの知識だけではなく、私たちに、天の神への「心からの信頼」を与えてくれるような素晴らしい約束です。分かれば分かるほど、私たちの心は、神様への信頼と、慰めや喜び、希望、勇気を持てるようになるのです。
使徒信条は、聖書にそのまま書いてあるわけではありません。今読みました
Ⅰコリント十五1兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4また、葬られたこと、また、聖書の示す通りに、三日目によみがえられたこと、
5また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
とありました。初代教会でもこのように簡潔に「福音」をまとめた告白を持っていたわけです。その後、何百年かかけて、教会が色々な問題や課題に取り組む中で、まとめ上げていったのが、この「使徒信条」です。昔は「使徒」たち十二人が、一言ずつ持ち寄って出来た信仰告白だから、「使徒信条」というのだと考えられていたそうです。でもそうではないことはハッキリしています。それでも、この内容は、使徒たちが聖書で告白している内容と一致していますし、簡潔に教会の信仰を言い表していますから、これは「使徒信条」と呼ばれたまま、世界中で用いられているのだそうです。他にも、教会の最初の数百年で定まった「信条」にはいくつかあるのですけれど、この「使徒信条」が一番短いので、使いやすいのでしょう。鳴門の教会で、「使徒信条」を告白する事は、一千年以上教会が告白してきた信仰に繋がっていくことでもあるのです。
この「使徒信条」では「我は信ず」と言います。「私たち」ではなくて、「私は信じます」と言います。一人一人が、自分の事として、信じます、とハッキリ言うのです。しかもこれは、ただ
「天地の造り主、全能の父なる神がおられることを信じます」
「そのひとり子、我らの主イエス・キリストがおられることを信じます」
というだけではありません。本当に信仰とは「心からの信頼」です。この「信じます」には、信じてお任せします、もっと言えば、「飛び込んでいきます」というぐらいの意味があるのです。天地の造り主、全能の父なる神がおられると信じるだけでなく、その方の中に飛び込んで、自分をお任せします。主イエス・キリストを信じて、自分を全部お任せしてお従いします。そういう「信じます」なのです。それぐらい、聖書の福音は、私たちにとって信頼するに足るもの、素晴らしく確かなものなのです。
こんな譬えを考えてみました。皆さんは、どちらに乗りたいですか。
一つは空飛ぶ絨毯です。空を飛んで、どこにでも行く事が出来ます。行きたい所に連れて行ってくれるのです。ただし、乗っているあなたが、この空飛ぶ絨毯を信じていることが必要です。疑い始めると、空を飛ぶ力が段々なくなっていくのです。だから、信じることが必要です。もう一つは大きな船です。この船は決して沈むことなく、必ず目的地に到着します。私たちが行き先を変えることは出来ません。また、嵐に遭えば、かなり揺れます。でも決して難破することはありません。大丈夫かなと思ったり、まだかなぁと待ち遠しくなったりする時もあるでしょうけれど、安心して任せていればいいのです。さて、どちらの乗り物の方が「信頼」できると思いますか。信頼しないと落ちてしまう空飛ぶ絨毯でしょうか。頑丈に出来ている大きな船でしょうか。
私たちが「信じます」というのは、神が信頼できる方であり、福音が信頼するに足る確かな約束だからです。それを私たちがどれほど信じているか、で成功したり失敗したりするような事ではありません。だからこそ、私たちは
「我は信ず」
と言うのです。そしてこれほど信頼できるものは、この神の福音以外にありません。自分や人は当てになりません。でも、この私たちを天の父なる神と御子イエスと聖霊とが確かな約束をもって導いていてくださいます。人生は、揺れたり波にもまれたり嵐に襲われたり、色々なことがありますけれど、私たちはこの確かな信条の船に乗って旅を続けているのです。