goo blog サービス終了のお知らせ 

聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問22-3「私は信じます」Ⅰコリント一五章1-2節

2016-07-10 17:53:46 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/07/10 ハイデルベルグ信仰問答22-3「私は信じます」Ⅰコリント一五章1-2節

 

 世界には沢山の教会があります。クリスチャンは二〇億人いると言われています。鳴門の教会にも、今、六つの国の人たちが一緒に礼拝をしています。言葉ややり方はとても違っているでしょうが、みんな同じ信仰を持っています。キリスト教の基本的な信仰は一つです。そして、その世界中のキリスト者たちと一緒に私たちが告白している信仰について、今日から学んで行きましょう。

問22 それでは、キリスト者が信じるべきこととはなんですか。

答 福音においてわたしたちに約束されていることすべてです。わたしたちの公同的な、確固たるキリスト教信仰箇条がそれを要約して教えています。

問23 それはどのようなものですか。

 それは「使徒信条」なのです。

使徒信条「我(われ)は天地(てんち)の造(つく)り主(ぬし)、全能(ぜんのう)の父(ちち)なる神(かみ)を信(しん)ず。我(われ)はその独(ひと)り子(ご)、我(われ)らの主(しゅ)、イエス・キリストを信(しん)ず。主(しゅ)は聖霊(せいれい)によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦(くる)しみを受(う)け、十字架(じゅうじか)につけられ、死(し)にて葬(ほうむ)られ、陰府(よみ)にくだり、三日目(みっかめ)に死(し)人(にん)のうちよりよみがえり、天(てん)に昇(のぼ)り、全能(ぜんのう)の父(ちち)なる神(かみ)の右(みぎ)に坐(ざ)したまえり、かしこより来(きた)りて、生(い)ける者(もの)と死(し)ねる者(もの)とを審(さば)きたまわん。我(われ)は聖霊(せいれい)を信(しん)ず、聖(せい)なる公同(こうどう)の教会(きょうかい)、聖徒(せいと)の交(まじ)わり、罪(つみ)の赦(ゆる)し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信(しん)ず。      アーメン。」

 朝の礼拝では、この「使徒信条」を毎回最後にみんなで言っていますね。それはただ呪文のように唱えているのではありませんよ。これこそ、私たちの信じ、告白している内容なのです。意味も分からないまま、ただ唱えるのではないように、これがどういう事なのか、知っていくのは大切な事です。これから、ハイデルベルグ信仰問答では、この使徒信条を問24から問58まで解説しながら、神が私たちに下さった福音がどんなことなのかを説き明かしていきます。一つずつ、見ていきましょう。前回お話ししたように、それは、ただの知識だけではなく、私たちに、天の神への「心からの信頼」を与えてくれるような素晴らしい約束です。分かれば分かるほど、私たちの心は、神様への信頼と、慰めや喜び、希望、勇気を持てるようになるのです。

 使徒信条は、聖書にそのまま書いてあるわけではありません。今読みました

Ⅰコリント十五1兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。

 3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 4また、葬られたこと、また、聖書の示す通りに、三日目によみがえられたこと、

 5また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

とありました。初代教会でもこのように簡潔に「福音」をまとめた告白を持っていたわけです。その後、何百年かかけて、教会が色々な問題や課題に取り組む中で、まとめ上げていったのが、この「使徒信条」です。昔は「使徒」たち十二人が、一言ずつ持ち寄って出来た信仰告白だから、「使徒信条」というのだと考えられていたそうです。でもそうではないことはハッキリしています。それでも、この内容は、使徒たちが聖書で告白している内容と一致していますし、簡潔に教会の信仰を言い表していますから、これは「使徒信条」と呼ばれたまま、世界中で用いられているのだそうです。他にも、教会の最初の数百年で定まった「信条」にはいくつかあるのですけれど、この「使徒信条」が一番短いので、使いやすいのでしょう。鳴門の教会で、「使徒信条」を告白する事は、一千年以上教会が告白してきた信仰に繋がっていくことでもあるのです。

 この「使徒信条」では「我は信ず」と言います。「私たち」ではなくて、「私は信じます」と言います。一人一人が、自分の事として、信じます、とハッキリ言うのです。しかもこれは、ただ

「天地の造り主、全能の父なる神がおられることを信じます」

「そのひとり子、我らの主イエス・キリストがおられることを信じます」

というだけではありません。本当に信仰とは「心からの信頼」です。この「信じます」には、信じてお任せします、もっと言えば、「飛び込んでいきます」というぐらいの意味があるのです。天地の造り主、全能の父なる神がおられると信じるだけでなく、その方の中に飛び込んで、自分をお任せします。主イエス・キリストを信じて、自分を全部お任せしてお従いします。そういう「信じます」なのです。それぐらい、聖書の福音は、私たちにとって信頼するに足るもの、素晴らしく確かなものなのです。

 こんな譬えを考えてみました。皆さんは、どちらに乗りたいですか。

 一つは空飛ぶ絨毯です。空を飛んで、どこにでも行く事が出来ます。行きたい所に連れて行ってくれるのです。ただし、乗っているあなたが、この空飛ぶ絨毯を信じていることが必要です。疑い始めると、空を飛ぶ力が段々なくなっていくのです。だから、信じることが必要です。もう一つは大きな船です。この船は決して沈むことなく、必ず目的地に到着します。私たちが行き先を変えることは出来ません。また、嵐に遭えば、かなり揺れます。でも決して難破することはありません。大丈夫かなと思ったり、まだかなぁと待ち遠しくなったりする時もあるでしょうけれど、安心して任せていればいいのです。さて、どちらの乗り物の方が「信頼」できると思いますか。信頼しないと落ちてしまう空飛ぶ絨毯でしょうか。頑丈に出来ている大きな船でしょうか。

 私たちが「信じます」というのは、神が信頼できる方であり、福音が信頼するに足る確かな約束だからです。それを私たちがどれほど信じているか、で成功したり失敗したりするような事ではありません。だからこそ、私たちは

「我は信ず」

と言うのです。そしてこれほど信頼できるものは、この神の福音以外にありません。自分や人は当てになりません。でも、この私たちを天の父なる神と御子イエスと聖霊とが確かな約束をもって導いていてくださいます。人生は、揺れたり波にもまれたり嵐に襲われたり、色々なことがありますけれど、私たちはこの確かな信条の船に乗って旅を続けているのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申命記二九章(10-18節)「未来を託す神」

2016-07-10 17:50:52 | 申命記

2016/07/10 申命記二九章(10-18節)「未来を託す神」

 先週は世界宣教週間でしたが、今日は日本の選挙です。日本の政治を選ぶ大事な決断です。そして今日の申命記二九章は実にタイムリーな箇所だと、数週間前から思ってきました。

1.主が私たちの神となられたから

 そうです。申命記では、諄いほどに繰り返して、神の言葉を守り、神だけを神として生きる事を述べてきました。その契約が、五章から二八章までの内容でした[1]。特に、前回の二八章では、契約を破った場合の呪いが長々と語られていました。契約を破った場合の呪いを詳しく記すのは、聖書の書かれた時代背景では当然のことで、申命記もそのやり方に則って書かれています。けれどもこの二九章ではもう一度原点に立ち戻って、語り直すのです[2]。2-8節で、もう一度、エジプトから今日までの四十年の間に、主がどのように力強く民を導き、養い、ここに至らせて下さったかを振り返るのです[3]。まるで「二八章ではのろいのことを長く述べたけれども、しかし『呪いが嫌だから主に従う』のではないのだ。『神の怒りが恐ろしいから契約を守る』、そういう動機ではないのだ。主が、私たちの神となって下さった。私たちを御自身の民として、本当に恵み豊かに導き、支えて下さった[4]。そして、この神こそ、唯一の本当の神であられるから、お従いするのだ」と確認するようです。決して「怒らせると怖いから」ではないのです。神の御業、恵み、養い、私たちをご自分の民としてくださった幸いに基づくのです。10-11節で言われるように、かしらから庶民、女子ども、在留異国人や奴隷たちに至るまで、すべての人々を等しく、御自身の宝としてくださった神です。また、この契約は、

15きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。

と言われるような、この先にも続いていく、歴史的な繋がりも持っています。本当に広く、豊かな、大きな契約を戴いているのです。だからこそ、そのような神に対する人間の応答が大事なのです。神の恵みと真実を受け止め、神の民として生きる。それをあえて踏みにじる無礼を選ぶなら、どんな呪いも甘んじるのが人間として当然だと、もう一度確認されるのです。

2.神は、私たちに未来を託される

18…あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。

 面白い表現ですが、聖書でしばしば使われる言い方です[5]。心の中に出て来る、毒のような、苦(にが)く拗(ねじ)けた、歪んだ思い。神に対してさえ高ぶって、自分も人も毒すだけの心。それは、

19こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある」と心の中で自分を祝福するものがあるなら、

20主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう。

という無責任で、思い上がった態度に現れますし、それに対する徹底的な裁きがずっと書かれています[6]。24節以下にはそういう荒れ果てた地を見た外国人の会話が書かれています。外国人の目から見ても、「本当によくしてくださった自分たちの神を捨てるなんて、彼らは全く愚かだ」という語調です。「彼らの神は厳しくて血も涙もないなぁ」とではないのです。

 聖書の神は、人間に応答をお求めになります。人間の応答次第で、将来が変わると言われるのです。言い換えれば、神は人間の選択に未来を託されるのです。神に

「私の人生はどんな人生になるのか。この先、何が起き、どんな事が降りかかるのか。神なら分かるでしょう、教えてください」

と聞けたとしても、神は

「あなたが、わたしにどう応えるかで、あなたの将来は変わるのだ」

とお応えになるのです。その時その時、私たちがどんな選択をするかで、人生は大きく変わるのです。歴史は決まったレールの上を辿って真っ直ぐ進むのではなく、人間の決断で大きく左右されるものです。神の御支配を人間が勝手に決めつけて「自分がどう生きようと神が決めておられる通りにしかならないのだから、好きなようにしよう」と言うのは間違いです。そうやって自分の責任を放棄し、神のせいにするなら、その態度そのものの責任を問われるのです。選挙も、投票に行きもせず、「なるようにしかならない」なんて考えたら間違いです。「自分の一票ぐらい、あってもなくても変わらない」。みんながそう思ったら、恐ろしい結果を引き寄せます。一票は何十万分の一でも、確かに私たちはその何十万分の一かの、自分の分の責任はあるのです。神は人間の応答を大事にされます。未来を変えることは出来なくても、未来に参加する自分の責任を果たしたかどうかは、一人一人が問われます。私たちが恵みに応えて自分の与えられた分を大切に受け止め、一票を投じ、御言葉に従い、礼拝を守り、祈りや献金を献げ、人を愛し、正しく憐れみある業をする。それが、歴史を紡ぐ神の方法です。

3.隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、…(29節)

29…しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。

 私たちには分からないこと、隠されていることも、神、主はすべてを支配しておられます[7]。しかし私たちは全てを隠されているわけではありません。神が、私たちに現して、託してくださった私たちの分もあるのです。それによって、私たちは

「このみおしえのすべてのことばを行う」

のです。自分の責任を棚に上げて、「神様にしか分からない」「全部神様が決めている」と逃げてはならないのです。勿論、聖書の教えに全ての事が記されている訳ではありません。何が御心か、「正解」を選ぶ、という意味ではなくて、自分で考え、祈り、悩んで、しかし主への信頼をもって選択するのです。主を神として選ぶなら、右か左か、進むか退くか、どっちが良くてもう一つは悪いということではありません。結果が裏目に出たり、反対にあったり、失敗になったとしても、「あの時の選択は御心ではなかった」という事でさえないのです。私たちの神は、そんな心の狭いお方ではありません。「正解」を選ぶよりも、神の愛への感謝や、人への共感、自分に与えられた責任への誠実さこそ、神の願われるご計画なのです。

 不思議なことです。これだけの力ある神が、人間の応答を求められるのです。ロボットのようにいっそ強制的に従うような存在を造ることも出来たでしょうに、神は、人間が心から応答することを求められます。私たちの選択を尊重され、神が造られた世界の歴史の行く末を、私たち人間に託されるのです。勿論、神には神のご計画があり、それを人間が挫いたり変更したり出来る訳ではありません。しかし、神のご計画そのものが、私たちが心から神を信頼し、神の御心を喜んで生きることなのです[8]。天地の神が「私たちの神」として信頼し、私たちを愛し、尊い責任を託されたことに感謝して、自分のなすべき分を果たしていくのです[9]

 イエス・キリストは、私たちを神の民としてくださいました。それは、ただ罪も赦すとか、神が最善をしてくださると言い訳して責任逃れをする、怠惰な宗教ではありません。神の恵みに気づかされ、神に感謝をもって応える信仰です。心の

「毒草や苦よもぎ」

皮肉や狡さや、信仰的なふりをした無責任を退けて、自分を捧げ、神の恵みに応えていく主体的な信仰です。社会的立場や国籍、年齢、様々な私たちが、ともに主の前に生かされていくのです。私たちに出来ることは僅かです。たった一票、焼け石に水、舌足らずの祈り、あってもなくても変わらないようでも、しかし神は私たちの毎日に未来を動かすほどの価値を与えられたのです。私たちの精一杯の応答を喜ばれます。それを用いて、未来を祝福されると信じて励まされるのです。

「私たちの神である主よ。あなたは私たちを治め、愛し、養い、あなたを愛することをお求めになります。どうか、与えられた価値を蔑み『自分一人ぐらい』などと思わぬよう、託された責任を軽んじないよう、お守りください。一人一人の今の生活でなすべきことを果たせるよう助けてください。小さな微笑み、愛の一言、ささやかな祈り、精一杯の決断を祝してください」



[1] 1節は、二八章の結び。「これ」は五章から二八章までの内容を振り返る言葉。

[2] 2節は、モーセの三度目の言及(一1、五1)。

[3] 2-8節、ナラティブのスタイルで契約にいたるプロセスを確認(命題的にでなく)するのは、古代近東の契約定式に即した叙述形式です。

[4] 6節の「私たちの神であられる」とは支配だけではなく、養い、憐れみ、責任、愛情を含む、人格的な関係です。神が私たちの神となり、私たちが神の民となる、という定式は、聖書の契約関係を表している重要な概念です。

[5] 「毒草や苦よもぎ」三二32、ホセア十4、アモス六12。

[6] 「23-その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである」は、申命記の中でも最も荒れ果てた滅びの状態です(McConvile)。

[7] 私たちが神に何かを隠すことも出来ません。

[8] それは、本当に私たち人間の理解を超えた神秘です。頭で理解しようと思っても無理です。分かりきることは出来ませんが、その測り知れないご計画と力をお持ちの神が「私たちの神」となってくださいました。

[9] そして、この「私たちの神」は、憐れみ深く、赦しに富んでおられます。「わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライム[イスラエル]を滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるから。わたしは怒りを持っては来ない。」(ホセア十一9)。神は、怒りをもって滅ぼす神ではなく、ご自分の民を何とかして正しく歩まそうとなさる、あわれみの神であります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする