2016/07/24 ハイデルベルグ信仰問答26「神が父となるために」ローマ8書15-17節
アメリカにナイアガラの滝という大きな滝がありますね。
小鳴門大橋よりも長い、670mもの幅がある世界最大の滝の一つです。ここに明治時代、木村清松という日本人の牧師が訪れたそうです。
彼を見たアメリカ人が言いました。「おい日本人、お前の国にはこんなデッカイ滝はないだろう?」すると木村清松はこう答えたそうです。「なにを言うか。これは私のお父さんのものだ」。話しかけた人はびっくり。「お前はインディアンの子孫なのか?」木村牧師は答えました。「私の父は天地を創造された全能なる神である。私はクリスチャンとなってからその子供とさせていただいた。ゆえにこの滝も、わが父、天のお父様のものである!」この言葉に感心したこの男は言いました。「ぜひ来週の日曜日、私たちの教会に来て話しをしてくれ」。こうして、木村牧師を迎える教会は、こんな見出しの看板を掲げました。
「ナイアガラの滝の所有者の息子、わが教会にきたる!」
木村はアメリカの各地で、こう呼ばれてお話しをしたそうです。
さて、木村さんは「私の父は天地を創造された全能なる神である」と言いました。どこかで聞いた言葉ですね。そうです、使徒信条の最初の、
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」
です。夕拝ではハイデルベルグ信仰問答をお話ししています。ハイデルベルグ信仰問答は、問23から「使徒信条」を信仰の要約として取り上げています。今日は、その最初の「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」です。
問26 「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と唱える時、あなたは何を信じているのですか。
答 天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらをその永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる、ということです。わたしはこの方により頼んでいるので、この方が身と魂に必要なもの一切をわたしに備えてくださること、また、たとえこの悲しみの谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、わたしは疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです。
木村牧師だけではなく、私たちキリスト者はみな、
「天地の造り主、全能の父なる神を信ず」
と告白します。言い換えると、私の父は天地を創造された全能なる神ですと、ナイアガラの滝も太陽も銀河系も、全ての持ち主は、私の父です、と言うことです。なんと大胆で、すばらしい告白でしょうか。
使徒信条を告白する時、神が天地の造り主で、全能であると考えて、御子イエスの父なる神というぐらいに、さっと読み流していることも多いのではないでしょうか。勿論、それも一つ一つ、大切です。神は、天地の造り主です。世界を作られたのは神です。神は全能です。世界を作り、治めておられる程に全能です。でも、聖書に書かれているように、世界が六日間で作られたと決めつけることはありません。科学者でもクリスチャンの方は沢山います。聖書は聖書として信じつつ、科学でハッキリ分かることは、それもまた受け入れていったらいいのです。神が世界を作られたのであって、神なくして世界が存在したとか、世界の中に神と呼ばれるものは色々あるとは私たちは信じません。天地の造り主、全能の神はただお一人です。殺されても、他の神々に頭を下げたり、礼拝や祈りを捧げたりはしない。これはキリスト者の大事な基本です。
しかし、それだけではないのです。その大いなる神が、私たちの父となってくださった、というのがキリスト教会の告白なのです。イエス・キリストが下さったのは、この確かな絆です。神に背き、神など知らずに生きてきた者が、神の御子キリストが私たちの身代わりに死んでくださったことによって、神の子どもという関係を頂いた。そう信じるのです。天地の造り主が全能である、というだけでなく、その方が私の神、私の父である。ナイアガラの滝の所有者の息子、というだけでも大胆不敵ですけれど、天地の造り主、全能の父なる神、とは、なんと限りなく偉大で、限りない近さでしょう!
…わたしはこの方により頼んでいるので、この方が身と魂に必要なもの一切をわたしに備えてくださること、また、たとえこの悲しみの谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、わたしは疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです。
そうです。この告白は、私たちの毎日の体と魂の必要なものが備えられている、という安心、感謝になります。心配や文句ばっかりいう生き方はもうしないのです。そして、たとえ悲しみの谷間とか、災いが下されるとかいうような事が起きても、神は私たちのためにそれを益としてくださる、というのですね。
人は、実際頭の中にどんな神を思い描きがちでしょうか。白い髭のお爺さんとか、何でも出来るけど、耳が遠くて、なかなか人間のことは構っていない神ではないでしょうか? 色々なことは出来る力はあるけれど、世界を作ったわけでも、その一つ一つを支えているわけでもない神ではないでしょうか? お父さんになってほしくもないし、悲しみや災いがあった時には、神がいるなんて信じられなくなるような、そんな程度の神ではありませんか。私たちはこんな神は信じません。
天地をよく知らず、ぞんざいに扱う神は信じません。年を取って、杖を突き、人間に呆れたり、諦めたりしている神は信じません。なんでも出来るけれども、私たちを遠くから見ているだけのような神は信じません。私たちは、天地の造り主、全能にして、私たちの父なる神を信じるのです。イエス・キリストが来られたのは、私たちを神の子どもとするためでした。神は天地を造られただけでなく、この広大な世界で取るに足りないような小さな人間の父となろうとされるお方です。そのために、神がひとり子イエスをこの世にお遣わしになり、犠牲を払うことをも厭われませんでした。
ですから、
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」
る私たちは、この世界が神の作品であり、ナイアガラの滝も悲しみも災いも、神の御手の中で受け止めるのです。そして、この神だけを拝み、礼拝を献げるのです。