聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問27「偶然ではない」使徒17章24-28節

2016-07-31 14:37:16 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/07/31 ハイデルベルグ信仰問答27「偶然ではない」使徒17章24-28節

 ご飯の片付けをしてお皿を洗っていて、うっかり落として割れてしまったら、皆さんは何と言いますか。日本人はすぐに謝るのが礼儀だと考えますけれども、国によってはすぐに謝るのは良くないという文化もあり、あれこれと言い訳をする人もいるようです。日本人はまず思いつかない発想ですけれども「この皿は割れる運命にあったのだ。私に責任はない」と堂々という人もいるそうです。そういう考え方は、神様を信じる私たちにとって、正しい理解なのでしょうか? キリスト者として、すべてを神が支配しておられると信じています。でも、お皿が割れたり、何かが起きたりした時に、全部を「神がこうするように定めておられたのだ」と考えても良いのでしょうか? そうではありませんね。私たちは、運命とか神の定めに縛られているとは信じません。そこにもまた、キリスト者の信仰の特徴があるのだなぁと思うのです。

問27 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。

答 全能かつ現実の、神の御力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康や病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。

 前回は、神の創造についてお話ししました。創造と組み合わせて大事なのが、この「摂理」です。神は世界を創造されただけでなく、今もその世界のすべてを

「保ちまた支配しておられる」

のです。本当に全て、何一つ漏らすことなく、世界の一切が、神の御手によって保たれ、支配されている。そう信じます。ですから、木の葉の一枚一枚、草の一本一本から、雨が降るのも日照りになるのも、豊作の年も不作の年も、すべてのことが神のご計画の中にあるのです。けれども、大事なのは、それをなさったのが、愛の神である、ということです。神の

「父親らしい御手によって私たちにもたらされる」

ということです。この事を見失うと何か全てが神の決められた通りで、予め決められたレールの上を走っているだけのようになります。神が決められた脚本の通りに演じているかのようです。それならば、何をしていても白々しい気になります。

「どうせ神が決めたようにしかならないんだから」

と、いつも諦めていることになります。

 そういう諦めやひねくれた思いでみんなが生きることなど神は願っておられません。神は私たちの父です。私たちが

「神の子ども」

として、神に似た者、愛によって生き、心を尽くし、思いを尽くし、全力で、頭をフル回転させて、一生懸命生きる者となる事を願っておられます。なぜなら、神は私たちを愛しておられるからです。私たちに心や体力や脳味噌を下さった神は、それを精一杯生かすよう求めておられます。そのための創造であり摂理なのです。

「神様がしてくださるんだから」

と勉強もしないなら、せっかくの脳味噌を無駄にすることです。

「神が決めたようにしかならないさ」

と、運動もせず、不健康に生きて、病気になることなど、神の御心では決してありません。神の摂理とは、私たちが神を信頼して、神の愛の中で成長し、生き生きと動き、失敗や挫折や問題にもめげず、なにくそと歯を食いしばって立ち向かっていくようにさせることです。

 でも、私たちの回りには、どうしようもないこともたくさんあります。天気が日照りになり、作物が不作になることもあれば、病気になることもありますし、貧乏になることだって避けられない場合があります。そういう時に、

「こうなったのにも、天の父なる神の摂理があるのだ」

と思える事は、慰めだと思うのですね。勿論、苦しい時、どうしてこんなことを神が許されたのか、と分からずに悩むことはあります。でも、逆に「神は私たちの苦しみとは何の関係もないのだ。災いを止めることは出来ないし、神の与り知らない所で、私たちは苦しみに会うのだ」と思う方が、絶望するしかなくなりますね。摂理なんかなくて、神は放っておかれて、私たちの苦しみは偶然起きたのだ、というのなら、なんと寒々しい人生でしょうか。そうではない。偶然ではない。天のお父様は、摂理の神です。そう信じられる事が私たちを絶望から救ってくれます。

 或いは、摂理とは神の父親らしい御手によることです。災いが起きた時にすぐ、

「これは神のなさったことだ」

と言う時に、

「神の罰や呪いだ」

という意味でいう、とても怖い人たちがいます。

「自分たちの罪のせいだ。」

「誰かが問題を神が怒っておられるのだ」

と犯人捜しをする人がいます。でもそれも「摂理」とは違う、歪んだ信仰です。私たちの問題に応じて、罰や災いが下るような、そんないい加減なことを神はなさいません。もっと大きく、もっと深く、そして限りなく恵みに満ちた私たちに対するご計画から、神は世界を保ち、治めておられるのです。

 勿論、私が歩きスマホをしていて交通事故に遭ったり、人を怪我させたりしたら、それを神の摂理で片付けてはなりませんね。自分が悪いのです。そして、神の摂理を信じるなら、そこで自分がちゃんと自分の非を認めて、謝り、責任を果たすべきです。いい加減だった思い上がりを認めて、謙虚になり、自分の生き方を変えるべきです。そして、そのように悔い改めて、神に従って行こうとする生き方を、天の父は必ず支えてくださいます。罪人が悔い改め、もう一度やり直そうとする歩みを、必ず祝福し、助けて下さいます。それこそが、神の摂理なのです。それは、私たちの責任を投げ出す口実ではなく、私たちの最善を励ましてくれ、なおかつそれを自慢したり思い上がったりしないように守ってくれる、確かな信仰なのです。

 何より、神は創造や摂理を、全能の力で苦もなく成し遂げられたのではありません。イエス・キリストを思い出してください。神の御子が私たちに御自身を与え、十字架にかかり、あの苦しみを通ってくださったのです。神のご計画とは、私たちの理解を超えた、神ご自身の努力と犠牲と悩み、苦しみの上に与えられているものです。私たちがその摂理に与ることは、決して怠惰や無責任とは相容れません。そうした所から引きずり出して、私たちを生き生きと生きる神の子どもたちをするための「摂理」なのです。

ローマ八28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々[つまり、神の子どもとして成長していくご計画に入れて戴いた私たち]のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

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使徒の働き(二八章23-31節)「扉は開かれている」

2016-07-31 14:28:19 | 使徒の働き

2016/07/31 使徒の働き(二八章23-31節)「扉は開かれている」

1.「使徒の働き」 教会という珍道中

 今日は、新約聖書の五番目の書、「使徒の働き」(使徒言行録)のことをご紹介しましょう。これを書いたのは、三つ目の福音書「ルカの福音書」と同じルカです。ルカは福音書で、イエスのご生涯をクリスマスから十字架と復活、そして昇天まで書きました。その続きが「使徒の働き」です。イエスのご生涯の続きとなる、教会の最初期の三〇年ほどを、第二巻として書きまとめたのが「使徒の働き」です。福音書と「使徒の働き」は「歴史書」だとも言えます。

 勿論「歴史書」といっても、ただ歴史を年代順に追うわけではありません。ルカは、イエスのご生涯と教会の歩みとを続けて書きながら、読者である教会にメッセージを語っています。皆さんも、ともかく「使徒の働き」を最初から最後まで読んで戴きたい。その物語を楽しみ、味わって、読んでくださるのが一番です。どんな感想を皆さんもたれるでしょうか。

 私は「使徒の働き」を読む度に、教会の歩みは一筋縄ではないなぁ、珍道中だなぁと感じます。結果的に教会は拡大し、成長していきます。エルサレムから始まって、サマリヤやアンテオケへ広がり、パウロは小アジアとギリシャに伝道旅行をし、最後はローマです。驚くべき拡大です。しかし、決してそれは順調な旅路ではありませんでした[1]。迫害があります。使徒ヤコブは殺され、ペテロもパウロも殺されかけます。船旅をすると嵐で船は木っ端微塵になりました。その旅は、迫害や躊躇いで行きつ戻りつし、最後は強制的に辿り着いたものでした。

 教会の中も、盤石ではありませんでした。麗(うるわ)しい交わりが生まれたかと思えば、見栄を張って嘘の献金の申告をする夫婦が現れ、貧しい人への配給の問題で文句が出て来ます。ユダヤ人ばかりだった教会は、異邦人への宣教など考えつきもしません。そういう所に、エチオピア人やローマ軍の百人隊長が信仰を持って、教会はついて行くのがやっとです。そして意外も意外なことに、教会を迫害しているサウロにキリストが現れます。キリスト者を苦しめ、殺しさえした責任者が、イエスに出会って洗礼を受けます。そればかりか、彼は伝道者となり、使徒の働き後半の中心的存在となるのです。そして、彼の旅も常に予測のつかない展開でした。勝利主義なんかではなく、福音の広がりに躊躇い、異邦人との出会いに戸惑い、余計なことをいって分裂仕掛ける。教会の歩みは珍道中です。ドタバタと人間的な面を見せながら、しかし、不思議な事に主に導かれ、宣教に携わり、エルサレムからローマにまで来てしまった物語です。

2.中途半端な終わり方

 今日読んで戴いたのは「使徒の働き」の最後の部分です。どうでしょうか。ローマまで囚人として連れて来られたパウロが、イエスの教えられた「神の国」の福音をユダヤ人に語ったけれど、信じる人と信じない人で意見が分かれて、パウロはイザヤの聖書を引きながら、

28ですから、承知しておいてください。神の救いは、異邦人に送られました。彼らは耳を傾けるでしょう。」

30こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、

31大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。

 これで終わりです。

「少しも妨げられることなく」

と言っていますが、一応囚人だったのですね。ある程度の自由はあったとはいえ、思うままにならないことも多かった筈です。そして、パウロはこの後どうなったんでしょう。どれほどの人が信じたんでしょう。そういう疑問は宙ぶらりんです。話のまとめを失敗したようで、呆気なさ過ぎる幕切れにも思えます。ですから、「ルカは何かの事情でこの不本意な結びにせざるを得なかった」と説明する人もいるのです。

 けれどもルカはあえてこう結んだのだと思います。パウロの生涯とかオチを付ける話を書きたかったのではないのです。教会の歩みはまだ終わりにはなっていません。今も続いている。皆さんも自分の証しを話す時、オチを付ける必要はないのですね。「神様がこうして下さって感謝です。」と結べる時もありますが、多くの場合はまだ生活は進行中で、まだ悩みは残っていたり、気持ちが整理しきれなかったり、この先違う展開があるかもしれません。人生はまだ途中です。「使徒の働き」はハッピーエンドで閉じるより、まだ教会が続いていることを感じさせる、開かれた、オープンな文章でルカの筆は置かれました。それが教会だからです。

使徒の働き一1テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、…

 イエスが行い始め、教え始められたことは、十字架や昇天で終わったのではなく、今も教会を通して行い続け、教え続けておられる。イエスは生きておられ、教会が迫害されたり衝突や間違いをしたりしても、それでもそこに働いておられる。使徒の働きを読んでいくと、主がこうなさった、という記述が多くあります[2]。だから最後も、教会を通して主はなお働いておられる、と結ぶのです。だから、私たちも「来る人たちをみな迎え入れて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え」続けていくのです。

3.働き続けておられるキリスト[3]

 使徒の働きが語る教会の歴史は、真っ直ぐではありません。エルサレムからローマまで宣教が前進した、と単純に片付けることは出来ません。人種や国境を越えて広がる事自体、ペテロも最初の信徒たちも抵抗したのです。教会がビジョンを大きく掲げて、その願い通り成長したというよりも、教会自体が神の御支配の大きさに驚き、自分たちの無知や罪に戸惑いながら、新しい出会いや新しい展開に絶えず驚きながら歩んで行ったのでした。福音を宣教する教会そのものが福音に驚かされ、福音によって変えられながら、世界を広げられていったのです[4]。誰も異邦人と家族になるなんて考えていませんでした。誰も、サウロが回心し、喜んでイエスを証しするなんて、想像も期待もしていませんでした。エルサレムからローマへ旅をしながら、教会そのものが変えられ、成長していくのです。それが主の教会の歩みなのです。

 「初代教会は純粋で理想的な教会だった。神の臨在と力に溢れていた」

と考える人もいます。

 「使徒の時代の教会に戻ろう」

というスローガンもよく聞きます。よく「使徒の働き」を読めば、最初から穴だらけだった教会が見えます。もし私たちが一世紀の教会に行けば、天国かとウットリするより、日本人でもキリスト者なんだと分かってもらうのに苦労するでしょう。民族の壁を越えて心から受け入れてもらうのにどれほど骨を折るかしれません。今も、昔も、教会は人間の集まりである以上、限界があり、旅人です。道を間違え、新しい環境に適応するのに苦労します。珍道中と呼ぶにはあまりにも辛い出来事だって起きます。それでも、主が私たちとともにいて旅を導かれ、常に扉を開いてくださること。そして、この道の終わりには、主が正しい裁きをなさり、王となられる栄光の御国があることを信じ、証ししていくのです。

 使徒の働きは私たちのための、慰めと気づきに溢れた物語です。キリストは教会をこの世におかれて、その不完全な私たちが変えられていく歩みを通して、福音を証しなさるのです。今も、皆さんの体験する一つ一つが、与えられた新しい出会いや、目から鱗が落ちる体験、或いは思ってもいないチャレンジであって、無駄ではないのです。一筋縄ではいかない人生に、神は思いも掛けない扉を開いて、私たちを導いてくださり、私たちを通してこの世界に挑戦しておられるのだと信じるのです。「使徒の働き」を読み、これを「私たちの物語」としましょう。

「教会のかしらなる主よ。「使徒の働き」を通して、今も続いている教会の歩みに、光と慰めを与えてくださり、感謝をします。あなたが始めて下さった御業に与らせてください。あなたは私たちの思いもかけない所に、扉を開いておられ、私たちを新しくし、更に深く、広くされます。恥をさらしながらともに歩む私たちの旅路ですが、どんな人生であろうとも、旅のゴールであるあなたの御国と、ともに歩んでくださるあなた様とを証しするものとしてください」



[1] ウィリモンは、ルカの神学を「楽観主義」「勝利主義的教会論」と評する人を紹介していますが、それは間違っていることも言明しています。今回は、ウィリモン『使徒言行録 現代聖書注解』を大いに参考にしました。

[2] Acts 29(使徒二九章)という宣教運動があります。「使徒の働き」は二八章で終わっていますが、私たちはその続きの「二九章」を書く歩みをしているのだ、というユニークなネーミングです。

[3] 「使徒の働き」(口語訳では「使徒行伝」)は、「使徒」たちよりも「聖霊」が働いておられる「聖霊行伝」である、と言われることもあります。しかしよく読めば、聖霊の記述よりも、主の記述が多いのです。イエスが始められたこと(一1)が、今も続いているし、パウロのローマ滞在でも、その死でも終わらず、今に至るまでイエスは教会を御自身の証しとされるという理解です。それは、聖霊の働きを通してではあるのですが、聖霊が独自に働いておられたかのような誤解をしてはなりません。そういう意味でも「聖霊行伝」というようなネーミングは慎んだ方が賢明です。

[4] そして、その教会の存在そのものが、当時の社会には脅威となりました。和解や希望、赦しと全世界的な福音は、民族主義・為政者たちにはそれだけで脅威となったのです。キリスト教は、その本質からして「対抗文化的」な存在でした。それ自体が政治運動ではないのですが、社会に挑戦するものでもあったのです。ユダヤ人との軋轢(十三45など)、異教徒(十九26)、権力者(十七7)。エルサレムでもエペソでも大騒動。「世界中を騒がせる」(十七6)と言われる存在でした。現代も、キリスト教は日本にあって、それ自体の「閉じた社会」であることを止め、日本の文化・伝統を一新するほどの、自由で大胆な存在であることを求められています。

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