聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問33「神の御子と神の子ども」ヨハネ1章9-14節

2016-10-02 16:15:33 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/10/02 ハイデルベルグ信仰問答33「神の御子と神の子ども」ヨハネ1章9-14節 

 教会では「神の子ども」という言い方をします。私たちは神の子どもです。神様は天のお父さんです。でも、よく考えると「神の子ども」ってどういう意味なのでしょうか。私たちも大きくなると神になるってことでしょうか? 違いますね。どういう事でしょうか。それから、イエスも「神の子」と呼ばれますね。でもイエスだけは「神の御子」と言います。礼拝の「使徒信条」では「我はそのひとり子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と言います。イエスが神の子というのと、私たちが神の子ども、と言うのとでは、違いがあるのでしょうか? 同じなのでしょうか?

問33 私たちも神の子であるのに、なぜこの方は神の「独り子」と呼ばれるのですか。

答 なぜなら、キリストだけが永遠の、本来の神の御子だからです。わたしたちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです。

 ここではハッキリと違いを教えてくれますね。キリストだけが永遠の、本来の神の御子。私たちはそうではありません。私たちは、神のひとり子キリストのおかげで、恵みによって神の子とされているのです。キリストは永遠から神の子。だからひとり子。私たちは神の子にしていただいたのです。言い換えれば、神の子キリストがそうしてくれなければ、私たちは神の子どもになるなんて、到底無理な話しだったのです。

 でもね、ガッカリしないでください。ガッカリさせたくてこんな話をしたのではないのです。むしろ、私たちが神の子どもであって、神を父と呼ばせて戴けることがどれほど素晴らしいか。その素晴らしさに気づかせてくれるのが、今日の問33なのです。

 確かに私たちはキリストと違って、神ではありません。被造物の世界の生き物、本当にちっぽけな人間です。そういう私たちが、「自分たちも神の子どもだ。神の子イエスと同じになりた~い。同じにしてくれないなんて訴えてやる~」と抗議したら、どうでしょう。ばかばかしいというか身の程知らずというか、呆れて物も言えませんね。

 けれども、その人間を神の子どもにしようと神が考えて下さったとしたらすごいことではありませんか。しかも、そのために、神の永遠の御子イエス・キリストが、私たちと同じになることにされたとしたら、途轍もないことに違いありません。

ヨハネ一12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 イエスはこの世に来られました。そのイエスを受け入れ、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権を与えてくださったのです。そのイエスを受け入れ、イエスの名を信じる事自体も、血筋や生まれがいいからとか、そうなりたいという願いや意思によってではなく、神によって与えられた信仰です。「神の子どもになりたい」なんて思い上がりもいい所であった人間が、神の子どもとされる光栄に与ったのです。そういうドラマの方が素晴らしいと思うのですね。しかも、他の聖書箇所にはこうもあります。

エペソ一5神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 予め、とはいつでしょうか。その前の4節にはこう書かれています。

エペソ一4すなわちは、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 世界の創造に先立って、神はもう私たちを、イエス・キリストによって神の子にしようと、愛をもって予め定めておられた、というのです。そういう入念で、準備万端のご計画によって、神は私たちを神の子どもとしてくださって、今私たちは、神を親しく「私たちの天のお父様」とお呼びする関係に入れられているのですね。

 これでもまだ僻(ひが)み、自分の方が格下で損をしているように思う人もいるでしょうか。そういう人には、イエスが神の御子であるとはどういう事か、覚えてほしいのです。

ヨハネ一14…私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 「恵みとまことに満ちておられた」それが神の御子です。偉そうにして、みんなから崇められている、私たちの勝手なイメージとは正反対です。その反対に、御子であるイエスは神の愛を現しておられました。ご自分を惜しまず与えるほど恵み深く、誠実でまっすぐでした。十字架の苦しみの死に自分を与えることも厭われませんでした。今も、私たち一人一人の事を見て、愛し、罪を裁くのではなく、それを執り成していてくださいます。世界にいるすべての人の、悩みや我が儘や醜い思いも全部知って、面倒臭がったり怒ったり切り捨てたりせず、忍耐深く私たちを導いておられるのです。徹底的に恵みに満ち、徹底的に真実であられる。そして、私たちを愛して、十字架の犠牲も惜しまれなかったのです。「神の御子」とはそういう方でした。

 その方のようになるとは、偉くなる事ではありませんし、そうなれないからと僻んだり、ふて腐れたりすることではありません。むしろそれは、低くなること、謙ること、上ではなく下へと成長することです。そして、イエスは、私たちをそのような意味で、確かにご自分に似た者にしてくださるのです。でもそれは、決して私たちがいつか神になるという事ではないのです。

 モルモン教という異端は、人は死んだらキリストのようになる、と教えます。宗教や思想では、人間は誰でも死んだら神と一体化すると教えるものがあります。キリストは神ではなく、特別な人間であって、私たちと変わらない、としたいのが人間です。それは一見平等で正しいように思えて、実は、唯一無二の神の御子キリストが、私たち小さな人間に過ぎないものを、神の子どもにしてくださった、という壮大なドラマを見失ってしまうことでしかありません。そして、私たちが神の子どもである、という意味も曖昧にしてしまう勿体ない事です。神の永遠の御子キリストが、私たちを神の子どもにしてくださった、という胸躍るような知らせを、忘れないで下さい。

ローマ八17もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 

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問32「キリストさんと呼ばれる果報者」

2016-10-02 16:02:06 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/09/11 ハイデルベルグ信仰問答32「キリストさんと呼ばれる果報者」

Ⅰヨハネ2章27-29節

 「キリストさん」。こんな言われ方をした人はいないでしょうか。私が教会の案内を持ってどこかに行くと「なんだ、キリストか」と言われることがよくあるのです。以前工場でアルバイトをしていた時、名前を呼ばれる代わりに、

 「おい、キリスト!」

と呼びつけられることもありました。そのたびに、心の中では「いや、僕はイエス様じゃありませんから」と思ったものでした。イエス様に失礼で、申し訳ないと思ったのです。でも、今日のハイデルベルグ信仰問答ではそうは言いません。前回の問31では、イエスが「キリスト」即ち「油注がれた者」と呼ばれるのはどうしてか、という事を学びましたが、それに続いて、問32ではこう言うのです。

問32 しかし、なぜあなたが「キリスト者」と呼ばれるのですか。

答 なぜなら、わたしは信仰によってキリストの一部となり、その油注ぎにあずかっているからです。それは、わたしもまた、この方の御名を告白し、生きた感謝の献げ物として自らをこの方に献げ、この世においては自由な良心をもって罪や悪魔と戦い、ついにはこの方と共に全被造物を永遠に支配するためです。

 キリスト者。これは英語では「クリスチャン」と言います。クリスチャンの意味を、ちゃんと伝えるなら、「キリストの人・キリスト党員・キリスト派」という日本語にした方がいいはずです。幸か不幸か「クリスチャン」が日本語になって定着してしまいました。ですから、今日は改めて考えて見て欲しいのです。「クリスチャン」(キリストの人)と呼ばれることの重さ、素晴らしさ、特権を噛みしめてみたいと思うのです。

 イエス・キリストは、最高の預言者、唯一の大祭司、永遠の王であられます。神によって聖霊の油注ぎで任職された、特別なメシヤ(キリスト)です。そして、そのキリストは私たちと一つとなってくださいます。メシヤのお働きとして、私たちを御自身に結びつけてくださいます。それが、私が

「キリストの一部となり」

と言われていることです。そうすると、私たちも「その油注ぎにあずかっている」ということにもなるのです。そうして、私たちはキリストに結ばれた者として、キリストに似た者になるのです。そして、キリストが、預言者、大祭司、王の務めを果たして下さっているように、私たちも、

「この方の御名を告白し」

て預言者的な務めを果たし、

「生きた感謝の献げ物として自らをこの方に献げ」

ることによって祭司のような存在となり、

「この世においては自由な良心をもって罪や悪魔と戦い、ついにはこの方と共に全被造物を永遠に支配する」

王となる。私たちも、預言者、祭司、王として生きる。それが、私たちが「クリスチャン(キリスト者)」と呼ばれ、キリストに結ばれて一つとされた目的なのです。

 勿論、イエスこそが、最高の預言者、唯一の大祭司、永遠の王です。私たちは、そのイエス・キリストに結ばれることによって、そのイエスに似た者へと変えられていくのであって、私たちがイエスに取って代わる預言者になるとか、半分半分にするとか、そういうことではありません。力とか権力とか、特別な地位に上っていく、というようなゆがんだイメージは持たないで下さい。むしろ、私たちが喜んで神の言葉を伝え、自分を感謝の献げ物として捧げるようになる。もっと身軽になり、もっと自分を差し出し、愛にあふれるようになっていくことです。

 キリスト御自身が、偉そうにした方ではありませんでした。私たちのために、人となり、貧しく、弱くなり、十字架の死にさえ惜しまず御自分を差し出してくださったお方です。私たちはそのキリストに似た者とされるのです。また、別の言い方をすれば、私たちの造り主である神は、私たちを本来の私たちに取り戻したいのです。無理な目標を押しつけるのではなくて、私たちを造られた神は私たちのことを、私たち以上に、一番ご存じです。その神が、キリストの贖いによって回復しようとしているのは、私たちにとって一番自然で、私たちらしい生き方です。私たちが勉強をしたり知識を身につけるのは、預言者的な務めを果たすためですし、人間関係で成長するのは、祭司的な務めを果たすためですし、あらゆる関わりが、王としての務めにつながります。

 神は私たちが嘘やごまかしで生きたり、いじめたり張り合うだけだったり、無責任な生き方をするために私たちを造られたのではありません。そういう独り善がりな生き方から、キリストは救い出してくださいます。そして、私たちがキリストに結ばれることによって、私たちの生き方が新しく、シッカリとした、本当の意味で尊い生き方、リーダーシップを発揮できる生き方へと導いてくださるのです。

Ⅰヨハネ二27あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、-その教えは真理であって偽りではありません-また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

 ここにハッキリと

「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちに留まっています」

とありますね。注ぎの油がある、とは私たちもキリストと同じように油注がれた「キリスト者」だということです。そして、私たちがキリストに留まる、と言われています。私はもう聖霊の油を注がれたのだから、自分一人で大丈夫、誰からも何も言われずに一人で預言者、祭司、王になります、なんて言う人はこの御言葉から離れてしまっています。ハイデルベルグ信仰問答でも

「わたしが信仰によってキリストの一部となり」

とありました。キリストの一部、元の言葉では

「キリストのからだの枝となり」

という言葉です。教会の一員となる、と言うことです。自分一人ではなく、教会に結ばれて、一緒に預言者、大祭司、王の務めを果たしていくのです。自分が頑張るのではないのです。教会の中で、励まし合い、支え合い、キリストを見上げることも助けられながら、キリストの体のお働きの一環を喜んで担うのです。

 「クリスチャン」と呼ばれたり、名乗ったりすることを恥じないで欲しいのです。東日本大震災の被災地で、教会も協力しながら支援活動をしました。イエス様の話や教会の名前など出さず、黙々と活動をしているうちに、地域の方々が「キリストさん、ありがとう」と言って来て、そこで新しく教会が始まったそうです。地元の人もまさかホントにイエス・キリストと勘違いしてはいません。分かっているのです。でも、キリストさん、という言い方が一番しっくり来たのです。そんな風に呼んでもらえるなんて、なんて光栄でしょう。幸せでしょう。主は私たちを通して、御自身の業をなさるのです。

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礼拝② 「主の食卓を囲む礼拝」Ⅰコリント十一章18-33節

2016-10-02 15:50:15 | シリーズ礼拝

2016/10/02 礼拝②「主の食卓を囲む礼拝」Ⅰコリント十一章18-33節

 今日は「礼拝」シリーズの二回目です。前回、間違えてしまって、映しているアウトラインに「ドラマ、ダンス」とあったのにお話ししませんでした。礼拝は、三位一体の神が聖書で語られている救いのドラマに私たちが迎え入れられることです。三位一体の神が踊っているダンスの輪に私たちも迎え入れられるのが礼拝なのです。そういう礼拝理解から始めたのです。

1.主の食卓を中心に

 では、そのような礼拝の中心にあるのは何でしょうか。賛美も祈りも、聖書朗読も献金も、どれもが大切ですが、一番分かりやすい礼拝の象徴は、主の聖晩餐なのです。今日もこの後、ここで聖餐式に与ります。まだ洗礼を受けていない方にとっては、洗礼を受けるとどうなるか、最も分かりやすいのは、主の晩餐で一緒にパンを食べ、杯を飲むことが出来るようになることではないでしょうか。ですから、主の聖晩餐を膨らませていったのが礼拝である、そう考えたら良いのです。聖餐式がない週も、礼拝の中心には私たちを招かれる主がおられます。いつも会堂には主の食卓が見えて、この事を覚えさせてくれたらいいと思います。

 勿論、「聖餐だけでもいい」という訳ではありません。聖餐だけでは意味が分かりません。実際、教会の歴史では早くから聖餐に迷信が入り込みました。パンと葡萄酒がキリストの肉と血ならば、そこに神秘的な力があるに違いないとか、それによって奇蹟が起こるという考えも入ったのです。主の血をこぼしたらとんでもないから、と葡萄酒は信徒に飲ませないで、司祭が代表してみんなの分を飲むのが一般化していました。宗教改革はそういう逸脱に対して福音を強調したのです。聖書の福音を語り、聖餐が主の恵みの食卓である意味を回復したのです。聖書を説き明かし、福音を信徒が理解して陪餐することを大事にしたのです。

 しかし、その反動で、説教が偏重されて、聖餐が疎かにされた面がプロテスタントにはあります。今でも礼拝は「説教を聞きに行く」という誤解は多いです。説教(むしろ、講義)を聴き、ためになるお話や雑学や道徳を聞いては「今日の礼拝は良かった(面白くなかった)」と帰る、それは説教でも礼拝でもないのです。聖書を説き明かしながら、神の福音を伝え、一人一人をキリストに結びつけ、神の子どもとして育てるのが説教です。説教で養われるなら、聖餐において示される福音がもっとわかり、キリストの体の有り難みを噛みしめながら味わうようになります。神の国で食卓に着くことをいよいよ待ち望むよう養われます。ですから、福音の説教が見える形で示される主の聖晩餐こそ、礼拝とは何であるかを最もよく示しています[1]

2.「これはあなたがたのための、わたしのからだ」

 今日のⅠコリント11章でパウロはコリントの教会の分裂を戒めています。20節に、

あなたがたはいっしょに集まっていても、それは主の晩餐を食べるためではありません。

とありますが、逆に言えば、主の晩餐を食べることが、教会が一緒に集まることの目的(少なくとも、その一つ)だということです。そして、集まってもバラバラに食事をして、自分の腹を満たすことしか考えていない状態を非難しています。そしてその時に、そういうあり方が、聖餐における主の御心を弁えないことだ、という論拠で諭そうとするのですね。

23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、

24感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

25夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

 聖餐は、主が私たちのために死んで、私たちにいのちを与えてくださった記念です。パンは、主が十字架で裂かれたからだを、杯は主が十字架で流された血を現し、それを主が私たちに差し出してくださったことを覚えます。その主の死に基づく新しい契約に私たちは確かに与っていることを確認します。主の死によって、私たちがすべての罪を赦していただいて、神の民とされたこと。その福音を、パンを食べ杯を飲むことで確証させていただくのです。

27したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば…

というのも、その主の御体を弁えるという相応しさです。自分で清くなれとか、相応しくないからダメだ、じゃないのですね。むしろ、自分には相応しさなんてこれっぽっちもないけれど、ただ主が一方的な恵みによって私のためにもその体を捧げて、死んでくださった。そう「わきまえ」て、悔い改めと感謝をもって、すばらしい恵みの食卓に着かせていただくのです。

3.ともに主の食卓に 「聖餐共同体」

 聖餐が礼拝のイメージを現しているという時に、もう一つだけお話ししておきたいのは、ここに集められるのは自分だけではなく、私たちがともに集められている、ということです。今日のⅠコリントでも「一緒に集まる時」のことが取り上げられていました。我先にと自分さえ満腹になれば良い、という態度は主の御体を弁えていない、とパウロは本気で叱っていたのですね。同じⅠコリントの前の十章では、パウロはこう言っています。

十17パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

 一つのパンをともに戴く。そこには私たちはみんなキリストに招かれて、一つの食卓に着き、一つの体として互いに結びあわされたことが示されています。自分が神を礼拝する、キリストの恵みに与って罪を赦され、神の子どもとされて良かった。そういう垂直の関係だけが礼拝ではないのです。キリストの招きは、私たちを互いに神の家族として結びつけてくださる招きでもあるのです。礼拝において、神が求められるのはご自身への賛美や献身だけではありません。神は私たちを互いに出会わせ、結び合わせられます。それも、私たちにとって好ましい「いい人」とではありません。一人一人個性があり、違いがあり、癖がある生身の人間をお互いに、兄弟姉妹として出会わせられるのですね。家族や友人も、住む世界が違うような人も、更には「敵」と見なされる人とも、ともに主を礼拝します。そのようにして私たちを集め、一つキリストの体であるパンに与らせることが、神の素晴らしさなのです。その神の大きな愛に、私たちは自分だけでなく、他者を見る目も新しく変えられて、ともに神に栄光を帰するのです。

 私たちは潔癖好きな時代に生きていますからパンは綺麗に切り分け、杯も一人ずつ小分けにしています。本来は一つのパンを裂き、一つの杯を回し飲みしました。形も様々、量も様々。でも、それが本来の一つの食卓に着く意味だったのです。人と生きることは簡単ではありません。色々な人と、だけでなく、夫婦や親子でもです。忍耐と寛容や知恵、赦しが必要です。それを差し出すのは何でしょうか。それこそ聖餐で戴く主の十字架の愛です。互いに裁いたり批判したり、無理に合わせようともお互いせず、受け入れるよう、聖餐で招かれるのです。

 教会を「聖餐共同体」と呼ぶことがあります。教会とは、聖餐によって結ばれている共同体だ、というのです。キリストに結ばれた一つの家族、一つのパン。問題や難しさもあります。大小様々な罪や過ちが入ってきます。関係を壊す出来事には慎重に当たる必要があります。人との関係の難しさに疲れ果てている人もいます。そういう限界や問題も含めて、ここに主がおられる。主が、私たちのこの礼拝の真ん中におられる恵みを覚えつつ、主を礼拝するのです。

「天の父。今日も「ここに来て座りなさい」[2]と私たちを恵みの食卓に招いてくださいました。罪の赦しを、そしてここでの出会いを通しての恵みを感謝します。どうぞ、プライドや偽りを、人への傲慢な思いを取り去り、あなたの赦しを、赦し以上の喜びと和解に与らせてください。ともに礼拝する幸いを、今からの聖晩餐で、また、礼拝の生活を通して、味わわせてください」



[1] オットー『改革派教会の礼拝』では、第7章「主の晩餐」において、旧約、新約、初代教会からの歴史、宗教改革と現代までの歴史を概観しながら、聖餐について詳述されています。特に、「聖餐についての説明を尽くすよりも、聖餐そのものが神秘であり、礼拝の中心であり、見える神との交わりである。一つであること、理解できる言語で執行すること、犠牲ではなく恵みとして行われること、信者全員が参加すること、が宗教改革における強調」(216頁)と言った記述は今回の参考になりました。ただし、今回は、「主の晩餐」そのものについて、というよりも、礼拝について考える序論的な考察において、聖餐を入口に考える、というアプローチですので、内容も絞っています。

[2]  中村佐知さんのブログ「ミルトスの木かげより」の2016年9月11日「Come, sit at the table 」に次のような詩が紹介されていました。Come, sit at the table. 「三位一体の神が、私を主の食卓に招いてくださる。/来て、座りなさい、と。/来て、わたしが与えるものを味わいなさい、と。そして、/わたしがだれであるかを知りなさい、と」http://rhythmsofgrace.blog.jp/archives/10568035.html

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