聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問35「私たちと同じように」ガラテヤ4章4-5節

2016-10-16 14:32:26 | シリーズ礼拝

2016/10/16 ハイデルベルグ信仰問答35「私たちと同じように」ガラテヤ4章4-5節

 

 もう10月も後半になりました。あっという間に11月になり、クリスマスになっていくでしょう。教会でもクリスマスの準備を話していますし、街でも11月になればクリスマスの雰囲気が強まることでしょう。今日はちょうど、クリスマス(イエス・キリストのことに触れる、ハイデルベルグ信仰問答の問35を読みましょう。

問35 「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」とはどういう意味ですか。

答 永遠の神の御子、すなわちまことの永遠の神であり、またあり続けるお方が、聖霊のお働きによって、処女マリヤの肉と血からまことの人間性を身にまとわれた、ということです。それは、ご自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしては、あらゆる点で兄弟たちと等しくなるためでした。

 ここでは「使徒信条」の

「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」

の一文を取り上げて、その意味を問い直しています。しかし、クリスマスには、何となく「キリスト教のお祭り、イエス・キリストの生誕を祝う日」と言うお祝いムードで済ませているだけで、この意味について深く考えたりはしないでしょう。「キリストのお誕生なんだからおめでたそうだ。それに肖って、私たちも幸せに、ロマンチックに過ごせたら十分。何か奇蹟が起きるといいなぁ」という事だと思います。

 ですから、キリストの誕生は、キリストご自身の側からすると、決して「おめでたく」もなく、「ロマンチック」でもなかったと気づいておくことはとても大事なことです。教会では、イエス・キリストではなくとも、どんな赤ちゃんの誕生も祝って、喜ぶものです。そのような赤ちゃんの誕生の喜びと、イエス・キリストがお生まれになったクリスマスのお祝いとは、全く違います。ただ規模が大きいということでなく、人間の誕生と、神の御子キリストが、人間となって下さったのは、全く違うことだからです。

 C・S・ルイスという作家はこういう表現をしています。

「すべてをご存じの永遠の存在者、全宇宙を創造された神が一人の人間となられたばかりではありません。それに先だって赤ん坊となり、さらにそれに先だって女性の体のうちの胎児となられたのです。/それがどういうことか、理解しようと思うなら、あなた自身がなめくじに、あるいは蟹になったらうれしいかどうか、考えてみて下さい。」[1] 

 ナメクジや蟹になりたい人はいませんね? 人間と蟹やナメクジよりも、宇宙よりも大きな神が人間になるほうが、もっと距離が離れているはずです。もっと言えば、神にとっては、人間になるのもウィルスや大腸菌になるのも、大きな違いはないのでしょう。キリストは

「永遠の神の御子、すなわちまことの永遠の神であり、またあり続けるお方」

ですが、人間になることを選ばれたとはそのような大決断でした。

 それは、キリストが神であることを止めた、ということではありません。神が、マリヤの胎に宿った時、神ではなくなったのではないのですね。これもまた不思議な事です。神は神であることを止めることは出来ません。人間の考えるお話しでは、天使が人間になりたがって、天使であることや永遠の命を捨てる話がさもロマンチックに描かれることがあります。しかし、そういう空想話とは違います。キリストは、神の御子であるまま、人間となってくださったのです。それは、私たちの理解を超えています。それがここでは、

「聖霊のお働きによって」

と言われています。聖書で、キリストがマリヤの胎に宿る時に、

「聖霊によって」

と言われているからです。聖霊なる神様のお働きによって、イエスはマリヤの胎に宿られました。そして、正真正銘の人間となられたのです。

 そのマリヤに御使いが現れて、

「聖霊によって男の子を宿して、キリストを生みます」

と告げる場面を「受胎告知」と言いますが、この場面を題材にした絵は沢山描かれています。

 とても印象的な場面です。ユダヤの少女の体に、世界の主なる神の御子が胎児として宿る。それは、大いなるドラマです。天と地がここでかつてなかったほど触れあったのです。そのキリストの受胎の瞬間は、描く事が出来ません。それはだれの目にも見えません。天使でさえ、それを告げただけで、キリストを宿したのは、御使いではなく、見えない聖霊のお働きでした。また、この女性マリヤが特別だったのでもありません。マリヤを持ち上げて、キリストが宿るに相応しい女性だったのだ、特別なお方だったのだ、と持ち上げてしまっては、結局キリストの受胎の意味が私たちから遠くなってしまいます。

「処女マリヤの肉と血からまことの人間性を身にまとわれた、ということです。」

というのは、

「ご自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしては、あらゆる点で兄弟たちと等しくなるためでした」

ということであって、そこでマリヤが普通よりも特別な女性だったのだ、という方向に流れてしまうと、キリストが本当に私たちと等しくなられたことが見えなくなってしまいます。キリストは、本当に私たちと同じ、本当の人間になってくださいました。その始まりの胎児となり、十月十日、母の胎に宿って、出産の苦しみも経て、人間としての歩みをスタートしてくださいました。神であるキリストが、この計り知れない謙りをなさいました。それは、何のためでしょうか。それは、私たちのため、だったのですね。

ガラテヤ四4しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

 神は、御子キリストをこの世に遣わされ、マリヤから生まれさせました。それは私たちが虫けら以下になるよりも深い謙りでしたが、けれども決してイエスはこれを、嫌々なさったのではありません。神には、嫌々、不本意ながら何かをするということは出来ません。私たちを愛された神は、私たちと同じようになることを躊躇(ためら)われませんでした。それも、誕生だけでなく、人として歩まれ、最後は十字架に至る苦難の生涯へと踏み出される事さえ、私たちへの愛のゆえに、喜んでなさったのです。キリストは私たちの人間としての歩みを尊んでおられます。私たちの生活、人間である事、喜びも悲しみも楽しみも難しさも、イエスは全部、分かって下さいます。だから私たちは、クリスマスに、イエスへの感謝を捧げるのです。私たちのためにイエスがお生まれになった、計り知れない知らせに感謝して、イエスを讃美し、励まされ、心から喜び、お祝いをするのです。



[1] C・S・ルイス『影の国に別れを告げて』(新教出版社、中村妙子訳)、474頁。

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礼拝④「心を一新する礼拝」ローマ11章33節-12章2節

2016-10-16 14:26:54 | シリーズ礼拝

2016/10/16 礼拝④「心を一新する礼拝」ローマ11章33節-12章2節

1.それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です(1節)

 この説教シリーズの最初にも同じローマ書11章33節から12章2節を開きました。その時には、教会の礼拝は「私たちが礼拝」するに先立って、神ご自身の栄光、御子イエス・キリストの犠牲、聖霊なる神の派遣、という礼拝があることをお話ししました。人間が神を礼拝するに先立って、神が礼拝をされており、その礼拝に私たちが招かれて、今ここにあるのです。

 ではその礼拝をパウロはどのように表現しているでしょうか。

ローマ十二1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 私たちの体を供え物として捧げる。それこそが、私たちの礼拝。こう言うのですね。勿論、ホントに自分が火に飛び込むとか、命を捧げるということではありません。当たり前のことのようですが、仏教でも「即身仏」とか神道でも「人柱」とか、現代でも「自爆テロ」という、本当に命を捧げてしまうような儀式が持て囃(はや)される考え方は人間にあるのです。聖書はそのような意味での文字通りの自己犠牲を否定します。神は、そういう生贄(いけにえ)を喜ぶような、生き血を求める神ではないのです。むしろ神は、ご自身が御子イエスにおいて、私たちの身代わりに生贄をささげてくださり、もはや私たちがそうならなくても良いようにしてくださいました。私たちが、今ここにあるこのままで、

「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」

として生きるようにとしてくださったのです。自分の俗世の生活を捨てて、人生を棒に振って犠牲にすることを尊いとするような宗教から、今ある生活そのものを礼拝とする事こそが、神の御心である、という生き方がイエス・キリストによって与えられるのです。

「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として」

というのは、決して、私たちが自分の力や努力で、神に受け入れられるよう、聖い生き方をする、という事ではありません。11章までパウロが展開して来たとおり、キリストの福音は、まず神の側の一方的な憐れみ、恵み、キリストの死と復活による救いの御業があり、それを聖霊が私たちに届けてくださる、という底知れず深いご計画に基づきます。その福音に照らしてみるなら、私たちは自分の丸ごとが

「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」

だと知るのです。

2.心の一新

 そうです。イエス・キリストは、私たちのためにご自身を捧げてくださることによって、私たちを

「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」

としてくださいました。私は18歳で神学校に入る時、このローマ書12章1節から、自分の生涯を神に捧げるよう言われていると思いました。段々と聖書を読みながら分かったのは、この言葉は牧師になる人や、神が特別に選ばれた人だけに与えられる言葉ではなく、すべてのキリスト者に既に与えられている言葉である、という真理でした。11章までを読んできたすべての人が、同じように12章以降も、自分たちへの招きとして聴くのです。神の愛に与ったけれども、自分を捧げなくて良い信者などは一人もいません。いいえ、神の愛は、私たちを、神に受け入れられる聖い、生きた供え物とし、自分を捧げながら生かす愛です。福音による救いは、私たちが神に受け入れられた、聖なる者として、生きるようにする救いです。

「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝」

なのです。

 この礼拝とは「生贄を捧げる儀式」を特に指す礼拝の言葉です[1]。旧約時代で言えば、レビ記に書かれているような規則に従って、大祭司が捧げる儀式、つまり礼拝儀式そのものです。それは聖なる神にささげるに相応しく、傷一つあってはならず、大変厳かで慎重を要する、恐れ多い礼拝でした。ところがパウロはここで私たちに、自分のからだを捧げなさいと言い切るのです。あなたがたは

「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」

なのだ。だから、自分の体、生活そのものを神に捧げなさい。それこそが

「霊的な礼拝」

レビ記や神殿のあの生贄儀式が本当に言いたかった礼拝なのだ、と言うのです。[2]

 2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい[変えていただきなさい]。

 この

「心の一新」

とは、気持を入れ替えるとか心機一転という意味ではありません。考え方、思考、マインドが一新されることです。気持を新たにしよう、決意を新たにやり直そうとするのだけれど、土台にある考えでは、神は小さく、自分の努力や裁量が大きいように誤解していることがあります。その土台の考えが一新されるのです。御言葉を学んで、神の偉大さや力強い恵みに目が開かれる。神に受け入れられ、聖い供え物の自分だと考えるようになる。神の御心を求め、何が良い事で神に受け入れられるかを基準とする考え方へと一新されることです。

3.完全な生き方

 具体的には、それはどのような生き方なのでしょうか。神に受け入れられる聖い生きた供え物としての生活は、あるいは神の御心を知り、良い事、神に受け入れられる

「完全な生き方」

とはどんな生き方なのでしょうか。パウロは3節以下でそれを教えています[3]。拾い読みしてみましょうか。

思うべき限度を越えて思い上がらず、互いに尊重し合い、生かし合うこと[4]

愛には偽りがあってはならず、悪を憎み、善に親しむこと[5]

互いに人を自分よりもまさっていると思うこと[6]

迫害する者を祝福し、その人と喜びも涙もともにすること[7]

互いに一つ心になること[8]

復讐を神に委ねること[9]

 そんな言葉が綴られていきます[10]。それはバラバラの道徳ではありません。私たちの人間関係や社会の回復です。あわれみを戴いた者、神に受け入れられた者として、私たちも何とか共に生きていく。それこそが神の御心で、神が求められる

「心の一新」

した生き方です。ブリュッゲマンは、旧約時代の礼拝についてこう言います。[11]

「その礼拝の本質は、その信仰共同体とその成員である一人ひとりの生を神の御前にあって、定期的に、整然と、公に、規則正しく立て直すことにあるとおおまかには言えるであろう」

 この世と調子を合わせないとは、世間から身を引いておっかなびっくり生きることではありません。完全であることも、完璧主義、潔癖主義になるのとは違います。むしろ完全ではない世界で、自分も完全ではないし人も完全ではなく、互いを必要としていて、復讐したくなるような問題もある事実を認め、なお文句や批判や復讐ではなく、橋を架け、希望を語りながら、ともに生きようとする。それが神の御心の「完全さ」なのです。そういう御心を知らされ、神に受け入れられた者として自分を差し出すという、新しい生き方を与えられたのです。

 礼拝は私たちの心(マインド)を新しくします。その後の

「自分を変えなさい(メタモルフォーゼ)」

は、芋虫が蝶になる変化で使われる言葉です。

 礼拝は、私たちを新しくしてくださる神との出会いです。そして新しくされる「メタモルフォーゼ」の希望をもって出て行くのです。

 礼拝とは、今の世俗の生活を劣った人生として捨てて、牧師や特別な信心深い生き方をすることではありません。今のその人生の小さな努め、小さな自分の生を、神から遣わされた、尊い場として、神にささげつつ生きることです。信仰とは、毎日の生活に、神の特別な奇蹟や、楽や、失敗のない完璧さを期待することではありません。でもその自分の不完全さを恥じたり隠したりせず、その私たちを受け入れ、現場での悩みや格闘にも働いてくださる神を仰ぎます。神は私たちを受け入れ、私たちを通して、神の憐れみを示されます。だから私たちは、自分の分を果たし、不完全な人に敬意を払い、肯定的な言葉を届けます。喜びや涙を一緒にし、仕返しではなく祝福を与えます。そういう日常の小さな積み重ねが神への礼拝です。不完全でも、それを神が喜ばれる、という礼拝観なのです。神との関係だけでなく、私たちのすべての生活を見る目を一新されて、今日もこの礼拝から私たちは、それぞれの生活へと派遣されていくのです。

「主よ。今日もここから私たちはそれぞれの場に派遣されます。あなたの栄光を、あなたの恵みを、よいご計画に励ましてください。あなたの恵みと愛が、私たちの生活の中に生きて働く事を信じて、平安と希望のうちにお遣わしください。私たちの思いを一新し、あなたの憐れみを現してください。私たちのすべての営みを通して、あなたの御名が崇められますように。」



[1] ギリシャ語「ラトゥレイア」。

[2] ここでパウロは、教会での礼拝と、それ以外の場所での生活を切り離さずに考えています。教会の聖日礼拝を整えることだけを考えるのではなく、キリスト者全員が自分を神にささげて生きる事にこそ、聖日礼拝の聖日礼拝たるゆえんがあると考えています。もし、礼拝と普段を切り離してしまうなら、いくら礼拝を立派にし、上手に讃美歌を歌い、沢山献金したとしても、その礼拝は虚しいものです。なぜなら、神が受け入れて下さるのは、私たちの全生活というささげ物だからです。日曜日や教会に来ている時は礼拝者の顔をして、普段はその仮面を外し、世間や周囲の価値観で生きる-そういう使い分けを止めて、全生活を神の光の下に観るのです。

[3] 更に、パウロがその先もずっと書き連ねていき、13章から16章まで続けている事にも具体化を見ます。また、他の手紙や聖書全体で展開していく事も、この「神のみこころ」に生きることを教えています。

[4] 3節「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。4一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、5大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。6私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。

[5] 9節「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。」

[6] 10節「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

[7] 14節「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。15喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」ここでのつながりでは、迫害する者とこそ、喜びも涙もともにせよ、というつながりであることに注意しましょう。

[8] 16節「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」

[9] 17節「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。18あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。19愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」20もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。21悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

[10] そして、その続きの13章では「上に立つ権威」との関係について、14章では「信仰の弱い人を受け入れる」ことについて、と展開していきます。

[11] 『古代イスラエルの礼拝』(教文館、2008年)9頁。『ミニストリー』20号(キリスト新聞社)65頁より。

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