聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問34「私たちのご主人」ヘブル2章14-15節

2016-10-09 17:54:04 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/10/09 ハイデルベルグ信仰問答34「私たちのご主人」ヘブル2章14-15節 

 イエス・キリストは私たちの主、という時、どんなイメージがありますか。「主人」「あるじ」などとも言いますから、「世界を作られた神」とあまり違いは意識しないかもしれません。ハイデルベルグ信仰問答ではこの言葉をとても大事にしています。

問34 あなたはなぜこの方を「我らの主」と呼ぶのですか。

答 この方が、金や銀ではなく御自身の尊い血によってわたしたちを罪と悪魔のすべての力から救い、わたしたちを身と魂もろとも贖って御自分のものとしてくださったからです。

 「ご自分のものとしてくださった」。だから、イエスを「我らの主」とお呼びするのは、本当に文字通り、私たちの身も魂もイエスのものだから、なのです。私たちは自分のものではありません。私たちの身も魂も、イエスのもの。それが、このハイデルベルグ信仰問答の問一でした。それが、私たちの信仰の出発点なのです。イエスは、私たちの主、私たちのご主人で、私たちはイエスのしもべ、イエスのものなのです。

 しかし、「ご主人様」とひれ伏して、何かを命じられたら、どんなに嫌なことでも、言われたとおりにしなければならない。そういう関係を考えて、ぞっとする人もいるでしょう。けれども主イエスとの関係はそういう関係ではないのですね。

 …金や銀ではなく御自身の尊い血によってわたしたちを罪と悪魔のすべての力から救い、わたしたちを身と魂もろとも贖って御自分のものとしてくださった…

 イエスが私たちをご自身のものとしてくださったのは、イエスご自身の尊い血によって、つまり十字架にいのちを捧げて下さった犠牲によってでした。力尽くとか、権威を笠に着て、ではなく、ご自分を与えて、辱めや極限の苦しみ、そして死をも厭われないことを通して、イエスは私たちの主となってくださったのです。イエスは、偉そうにして、服従を要求して、しもべをこき使うような人間の主とは真反対の主です。

ヘブル二14そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、

15一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。…

 私たちを解放するために、私たちを同じように血と肉を持つ人間になり、最後の死までも引き受けて、私たちを悪魔や死や罪の力から解放してくださったのです。イエスはそういう「主」であられます。勿論、イエスは主であって、私たちは「主」ではありません。イエスには私たちに対する権威があります。私たちは主のしもべで、主に従い、主に仕える者です。しかし、主はご自身を与えてくださった主です。だから私たちも、嫌々ながらでなく、心から主にお従いし、喜んでイエスの御心に従っていけるのです。それだけではありません。イエスが私たちの主であられるのは、私たちに命令を与えて、私たちがそれに従う、というだけの関係ではありません。私たちはもうイエス・キリストのもの。キリストが、私たちを、ご自分のものとして責任を持ってくださる、ということです。私たちを守り、大切にし、最後までご自身にかけて導いてくださるのです。

ローマ十四7私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。

もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

 この「主」にはもう一つの意味があります。私たちが使っている「新改訳聖書」では、旧約聖書に

「主」

という言葉が他の字よりも太く印刷されていることがあります。これは神様のお名前を現していた言葉です。世界で「神々」と呼ばれるものが沢山ある中、他の偶像や宗教の神と混同しないよう、聖書の神は、ご自分の名前を明らかにされて、区別なさったのです。世界を作られ、人間を特別に創造された、生ける真実な神だけのお名前を、特別に名乗って下さったのです。たぶん「ヤハウェ」か「エホバ」と呼んだらしいのですけど、イスラエルの民は、神様の名前だから恐れ多い名前だ。あまりに恐れ多くて、軽々しく口にしたらいけない、と「主」と呼び変えて読み上げていたのです。でも、この言葉の元々の意味には

「わたしはなろうとするものになる」

という意味があるらしいのです。「なろうとするものになる」。神様には制限がないし、本当に自由で、全能のお方だということですね。そして、その神が何に「なろうと」されたのでしょうか。

「私たちの主」

になろうとされたのです。他のどんな主にでもなれたのに、私たちの主になろうとされました。そして、そのためには、ご自身の尊い血を流さなければならないのに、そのことも進んでしてくださったのです。そうまでして、私たちの主になってくださったことへの限りない感謝と信頼を持ちたいと思います。

 大いなる神が私たちの主となってくださいました。そして主は私たちにも言われます。

マルコ十43…あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

44あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

 本当の主が、いのちを与えることで、仕え抜くことで私たちの主であられるように、私たちの人間関係でも、仕える人、自分を差し出す人が本当にリーダーシップを発揮し、人を生かすのです。脅したり、偉そうにしたり、自分のために人を大事に出来ないなら、決してその関係は長続きしません。尊敬されるリーダーになることも出来ませんし、人を生かす関係も作れません。私たちの主がどのような主であるかを思い起こしていましょう。それは、今、私たちの仕事やチーム、家庭、教会で、どのような関係を目指していくのか、どうすることが主のしもべのあり方なのかも教えてくれるのです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

礼拝③「神のみを神とする」ルカ15章1-24節

2016-10-09 17:51:10 | シリーズ礼拝

2016/10/09 礼拝③「神のみを神とする」ルカ15章1-24節

 「神のみを神とする」。当たり前です。しかし聖書はその最初から、人間が神を神として崇めなくなり、自分や神ならぬものを神のように崇め始めた事実を描きます。そして、そこから神のみを神とするあり方に戻していただくことこそ、救いであり、神のご計画だと語るのです。

1.神は唯一

 これは聖書の最も基本となる信条です。神はただおひとりであって、その神が世界をお造りになり、永遠にこれを正しく、治めておられるのです。世界は、この神の作品であって、神の栄光を現しています。私たちは、この神を礼拝し、この神のみを神とする礼拝を捧げるためにここにいるのです。これこそが、聖書が繰り返す基本的な教えの第一のものです。

出エジプト二〇2、3わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(十戒第一戒)

マルコ十二29―30イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

マタイ六9…『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

 こうした第一の出発点があるから、教会の信条も神を神とすることを重んじるのです。

「人の第一の目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。」[1]

 神を大いなる方とする。まず神を崇め、心から喜ぶ。これが私たちの信仰なのですね。

 先月、四国地区の牧師会で、善通寺を見学させて戴きました。立派なお寺や五重塔や広い敷地の参拝客を見ながら、高僧の案内で説明や体験をする機会にあずかりました。とても勉強になりました。印象に残った事の一つは、

「どの宗教も目的は人間の幸せと世界の平和だから、そのためには神を増やしたり、儀式を考案したり、教えを変えたり、縁起物を売っても何の問題もない」

という考え方でした。神についてはよく分からないが、人間の幸せのために、とあれこれやり方を考えて努力するのは当然のことです。そういう努力や工夫には学ぶべき面もあると思いました。でもやはり私たちにとって、神はいるのかいないのかもよく分からないお方ではないのです。神は確かにおられて、世界を存在させ、聖書にあるとおり、イスラエルの民を通して御心を語りかけ、遂にはご自身が人間となってこの世においでになり、惜しみなくご自分を与えてくださった、この上なくリアルなお方です。生々しく十字架に死なれ、三日目に現実に復活なさったお方です。その方への信頼から、私たちの幸せも確信できるのです。

2.二つの間違い

 聖書の前半、特に旧約聖書では、周囲の民族の宗教に影響されることがないよう、偶像や異教の儀式との関わりが警戒されます。私たちはこの点も忘れてはなりません。善通寺や他の宗教に十分尊敬を払い、平和を図りながらも、それ以上に聖書にご自身を啓示されている唯一の神への尊厳を決して譲ってはならない。参拝や占いや呪(まじな)いや加持祈祷などはしないのです。

 しかし、こういう旧約の反省を踏まえた新約時代、イスラエルの民族は厳格な一神教の宗教にはなりました。神だけを礼拝し、頑ななほどに自分たちの礼拝を神である主のみに捧げ、聖い生活を送ろうとしたのです。その代表格が、今日のルカ15章2節に出てくる「パリサイ人、律法学者たち」という人々でした。意外なことに、イエスはその彼らの宗教理解に最も厳しく挑戦なさいます。そして、彼らこそイエスを十字架につける主犯格となったのです[2]

 ルカ15章は「失われた」ものを探す三つのたとえを語ります。特に11節以下は有名な「放蕩息子のたとえ」で[3]、父にとって失われていた二つの生き方が示されます。

 第一は、弟息子がやらかした通り、神の下さる幸せ、祝福を疑って、そこ以外に幸せや満足、生き甲斐を見出そうとする道です。お金で買えるものやお金そのもの、放蕩すること、自由気ままな生活、興奮させてくれるもの、人からちやほやされ、瞬間でも幸福な気分にしてくれるものを慕うのです。それを掴むため、今までの人生を犠牲にし、嘘や裏切りもためらいません。言わば、自由で楽しく、好きなように生きる生き方を「神」として崇める生き方です。

 第二は、兄息子と彼に象徴されたパリサイ人、律法学者、当時の宗教家たち、そして、私たち自身も陥りやすい過ちです。それは、自分が真面目に生き、神の御心にかなう生き方をすることによって神を喜ばせ、他の人よりも神から認められ、価値があると思われようとする生き方です。彼らは神を喜ばせるために、自分を厳しく律し、自由を諦め、我慢をしました。でもそうすることで自分を誉め、人からも神からも誉められることを内心で要求していたのです。だから、イエスが自分たちよりも不道徳で、不謹慎な生き方をしている人々を受け入れられるのを見た時に、つぶやき、憤慨して、苦々しい思いで一杯になってしまったのです。

3.神を心から神とする回復

 これを私たちの礼拝や信仰に当てはめてみましょう。私たちが礼拝に出席をして、賛美を歌い、主の聖晩餐に与っているとしても、そこで私たちが心底願っているのが、自分がお金持ちになったり夢を叶えたり、心地よく暮らすことであるとするなら、実は私たちは神を神として礼拝しているのではなく、自分の願う「幸せ」を神として愛し、慕い求めているに過ぎないのではないでしょうか。同時に、私たちが礼拝に来たり奉仕や献金をしたり、真面目で敬虔なクリスチャンに近づくことで神を喜ばせようとするならば、それもまた、神を神とするのではなく、自分の自尊心や優越感を追い求めるために神を利用しようとするに過ぎません。兄息子もまた、自分の願う「幸せ」「成功」「評価」を神以上に愛し、慕い求め、崇めていたのです[4]

 イエスが語ったたとえでは、弟息子も無一文になって惨めに死にかけ、兄息子も怒りや妬み、恨みがましさで醜い本性を晒し、どちらも破綻します。自由であれプライドであれ、神ならぬものに幸せを信じて追いかける人生は必ず裏切られ、行き詰まります。なぜならそれらは神ではないからです。世界を造られた本物の神は、今、私たちを生かし、真実であられます。私たちが失敗や間違いをしてもそれを上回る恵みで導き、育てて下さいます。その代役は、他の何者にも決して勤まりません。そう気づいて、神を神とするなら、その人生は礼拝となるのです。

 礼拝についての説教ですから、個々の項目の意味とか順番の意味、服装や献金の作法もいずれは触れます。けれどもそういう作法の前に、イエスが示されたのは、神を礼拝する目的の回復でした。これを見失ったまま、どんなに「正しい」礼拝をしても、結局、求めているのは自分の願う幸せだとか、きちんとしていない人を裁き、不満を燻らせるような、鼻持ちならないプライドであるならどうでしょう。イエスはそのどちらも違うと言われます。神の家は、私たちの父となってくださった唯一の神がおられる家です。この神だけを神として愛し、慕うよう、神ならぬものを神とする間違いに気づく必要があるのです。でもイエスが語られる物語は、その気づきさえ含んでいます。父は息子たちの気づくのを待ちます。ガミガミ、ネチネチ、お説教をしたり、間違いを恥じ入らせる父ではないのです。放蕩息子のためにも走り寄り、ふて腐れた息子のためにももう一度家を出て来て、静かに語り続けるのです。散財をも許され、惜しみなく大宴会をして喜びを表し、

「私のものは全部おまえのものだ」

と言って憚らないのです。

 これこそイエスの福音です。イエスご自身が、私たちのために走り寄ってこられ、ご自分のいのちさえも惜しまずに、人の歩みが神の家に居る喜びに満ちるよう、じっくりと導かれる。その大きな神の物語の中で、いま私たちはここに戻ってきて、礼拝を捧げているのです。私たちの最大の夢より、大事な人より、イエス・キリストは遙かに素晴らしい神です。

「主なる神、あなたは宇宙よりも大きく、誰よりも私たちに近いお方です。ますますあなた様の偉大さを知り、私たち自身を捧げて御名を崇めさせてください。ますますあなたの憐れみと愛の豊かさを知り、恐れもプライドも砕いてください。更にそれが私たちの生き甲斐や人を見る見方も深く造り変えて、ともにあなたを喜び褒め称える毎日に、少しでも近づけてください」



[1] ウェストミンスター小教理問答1。

[2] 偶像崇拝を禁じるだけでは不十分である。追い出された悪霊が、七つの悪霊を引き連れて帰ってきたように、さらに悪くなりかねない。巧妙に、根深く、より頑なになる。だから、偶像崇拝をしない以上に、真の神を全身全霊で崇め、神の麗しさを知り、献身することが最善である。

[3] 近代以降、ここからは「家を出て放蕩し、落ちぶれ果てて帰ってきた息子を受け入れる愛の父」がクローズアップされ、そこから回心を促す、教会外への招きとして語られるきらいがあります。しかし、これは本来、パリサイ人と律法学者、すなわち、兄息子的な傾向のある宗教人に対して語っているのであり、教会の中にもすでにルカの時代にその傾向が始まっていたことを示すものです。良書として、ティム・ケラー『放蕩する神』、ヘンリ・ナウエン『放蕩息子の帰郷』をお勧めします。

[4] 言わば、真面目で忠実な自己犠牲の生活は、その自分の「偶像」を得るための手段に過ぎませんでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする