2018/4/1 ルカの福音書24章13~35節「本当に主はよみがえった」イースター礼拝
主イエス・キリストがよみがえられた。そのお祝いがイースター(復活節)です。これはキリスト教会の信仰の中心であり、キリスト教の福音の核心です。毎週日曜日がイエスの復活のお祝いなのですが、イースターは特にその事を味わい、覚え、召天者記念と重ねる礼拝です。
1.近づかれるイエス
聖書に書かれてある伝道の様子を見ていきますと、使徒パウロやペテロが
「イエスと復活を宣べ伝えた」
という言葉が何度も出て来ます[1]。またコリント人への手紙第一にはハッキリと
「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(1コリント十五3-5)
と書かれています。キリスト教は、ただ神の愛とか「十字架を信じれば救われる」以上に、キリストが私たちのために十字架に死に、よみがえられた復活が土台です。キリストの復活なしのキリスト教なんて、何の意味も無いのです。キリストが私たちのために十字架の苦しみまで味わって死なれて、その三日目に本当によみがえられた、これがキリスト教の福音です。
今日のルカの二四章でも、復活の午後にあったエピソードを語りながら、その復活のエッセンスが綴られています。しかしそれが、高尚な事実とかキリスト教の奥義というものではなく、もっと温かい、生き生きとした出会いだったと、ユーモアさえ込めた語り口で伝えてくれます。キリストがよみがえられたことは、信じがたい奇蹟ですし、恐れ多い神の勝利でもあり、語り尽くせない意味があります。けれども小難しく近寄りがたいことではなく、実に、キリストが私たちに近づいて、私たちとともにおられる、という、身近で頼もしい告白です。私たちの暗く塞いだ思いを、心燃やされて、喜んで駆け出させずにはおれないようにしてくれることです。
復活は決してセンセーショナルに、派手に知らされたのではありません。むしろ、この二四章は墓が空っぽで、弟子たちが戸惑うところから始まっています。そして、その中から一抜けたとばかりに離れていく二人の所に、イエスがそっと近づいて、一緒に歩いてくださって、話しかけ、丁寧に御言葉を教えて、気づかせてくださるのです。信仰の篤い、疑いや迷いのない者ではなく、この二人にイエスは近づいて、引き戻してくださった。この話そのものが、私たちにとって自分を重ねることが出来る、恵みに満ちたものなのです。
2.聖書全体に苦しみと栄光が
この二人は最初イエスが分かりませんでした。
「二人の目はさえぎられていて」(16節)
というのはイエスだと分からない、というだけでなく、弟子たちの考えが神の深いお考えとは全然違う方を向いている状態のことです。神から離れた人間の考えは、神がその目からさえぎるものを取り除けてくださらない限り分かりません。ですから19節から24節で弟子たちはイエスがなさったことをかなり正確に伝えているのですが、復活の知らせ以前に、十字架の死も不可解だと言っています。それに対してイエスは25節から
「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。26キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
と仰います。イエスの言い方は強く感じますが、イエスによれば、預言者、つまり聖書全体が、キリストは必ず苦しみを受けて、それからその栄光に入るというメッセージを語っているのです。神は苦しみや十字架とは無縁の方ではなく、人間のために苦しみ、御自身に痛みを引き受ける事を通して、私たちを救ってくださるお方です。苦しみをすっ飛ばして、栄光を輝かせる、という苦労知らずの栄光ではなく、これ以上無い苦しみや屈辱、裏切りや孤独さえ味わい知ってくださって、そこから命を初めてくださることこそが、神の栄光なのです。イエスは、こんな事を道々教えるよりも、さっさとご自分がイエスだと正体を明かされた方が、手っ取り早い説得になったと思うのですが、最後まで正体を明かさず、丁寧にさえぎられた目を開いてくださるのです。
しかし、目的の村まで来てもイエスの話は終わりません。まだ先まで行きそうです。イエスは彼らの鈍感さに、どこまでも付き合われるつもりだったのでしょうか。しかし彼らが
「一緒にお泊まりください」
と強く勧めてイエスは宿に入られます。ここには二人の弟子が、暗い顔つきで仲間から去ろうとしていた二人が、何か強い願いを持つようになった。イエスに「あんたは知らないのか」と言った二人が、イエスの話をもっと聴きたいと、強く願って引き止めるように変わったことが窺えます。私たちが神を信じる、というのも、神がなさることに委ねて、ただ従順に、無責任になるのではなくて、強い願いを持つ、時に食い下がってでも行動を起こすようになることです。そういう変化が、この二人の中にも起きています。
そして、イエスはそこで食卓に着くと、パンを取って神をほめたたえ[2]、裂いて彼らに渡されました。すると、二人の目が開かれて、イエスだと分かったのです。ここでは明らかに、今日も私たちがこの後します「主の聖晩餐」「聖餐式」に通じる言葉が使われています。イエスがパンを取って、祝福し、裂いて、彼らに渡された。それは、イエス御自身が十字架でその体が裂かれる死を経験なさったこと、そして私たちがその死に与って、命を戴くことの証しです。
3.心燃やされる
弟子や私たちはそれがよく分からないとしても、これをなさるイエスは十分に理解しておられたはずです。イエスがパンを取って裂かれる時、御自身の十字架の苦しみ、痛み、恐ろしい体験を思い出されたでしょう。それは
「祝福」
や
「神をほめる」
気分とは真逆のようです。しかしイエスはパンを取って裂かれて、弟子たちに与えながら、そこにこそ神の御業を託されたのです。神は苦しみを避けるより、御自身を与えることで私たちに命を下さる。神の栄光は、神が御自身を惜しみなく私たちに与えて、私たちのためにご自分を分けて与えてくださることも厭わない方であることにあります。私たちのために、御自身が痛みを負うてくださって、それによって私たちを救われる。私たちのために御自身を差し出して、私たちが命を得る。ここでイエスは、どんな思いでパンを裂き、弟子たちに与えられたのか。それは決して苛立ちでも押し売りでもなくて、祝福、神への賛美だった、ということに深く思いを巡らされます。
そして、このパンを受け取った時、弟子たちの目が開かれました。イエスだと分かりました。するとイエスの姿は見えなくなってしまいます。なんとまぁ、です。しかし二人は言います。
32…「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
イエスに出会う前、暗い顔だった二人はイエスが聖書を説き明かしてくださっている間に、心燃やされるようになっていました。もう日も暮れていたでしょうに、直ちに立ち上がって、夜道をエルサレムに引き返したら、そこにいた弟子たちもイエスの復活を知って喜んでいる姿がありました。イエスが二人に近づいてくださったことで、彼らはこの仲間に引き戻されて、自分たちの体験も分かち合うことが出来たのです。ルカの福音書が最後に示すのは、弟子たちが神をほめ称える姿です。その神は、どこか遠くで全世界を支配することに忙しい神ではありません。私たちのためにこの世界に来られて、命を与えてよみがえったイエスです。イエスの十字架と復活は、神が私たちの中に来られて、私たちに近づいて、命へと導いてくださる、という証しなのです。今からその主を覚える聖餐式をします。主が御自身を裂かれて、そうして私たちに命を下さった事を、どなたもご一緒に覚えて、その愛に心燃やされたいと願います。
「私たちを愛したもう命の主よ。あなたは十字架と復活によって栄光を現されました。惜しまない御愛が、私たちの心を生き返らせることを明らかになさいました。今からの聖餐によって、そしていつもともにおられて、この恵みを教え続けてください。そして苦しみや悲しみに砕かれるこの歩みでも、私たちが心から自分を差しだし、命を活かす御業に携わらせてください」