聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問120「天のお父ちゃん」Ⅰ列王3章16~28節

2018-04-29 17:04:06 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/29 ハ信仰問答120「天のお父ちゃん」Ⅰ列王3章16~28節 

 今日から「主の祈り」についてゆっくりと見ていきます。暗唱しているほどの「主の祈り」ですが、それでもただ習慣的に、意味を考えることなく唱えて終わっていないでしょうか。勿体ない事です! ゆっくり味わいながら、イエスが下さった素晴らしい贈り物として祈りましょう。そのためにも今日からの学びに期待したいと思います。

問120 なぜキリストはわたしたちに、神に対して「われらの父よ」と呼びかけるようにお命じになったのですか。

答 この方は、わたしたちの祈りのまさに冒頭において、わたしたちの祈りの土台となるべき、神に対する子どものような畏れと信頼とをわたしたちに思い起こさせようとなさったからです。言い換えれば、神がキリストを通してわたしたちの父となられ、わたしたちの父親がわたしたちに地上のものを拒まないように、ましてや神はわたしたちが信仰によってこの方に求めるものを拒もうとはなさらない、ということです。

 イエスは主の祈りでまず

「天にいます私たちの父よ」

と呼びかけることを教えてくださいました。日本語では最初に来るのは「天」ですが、元々の言葉では「父よ」です。ですからここでは、キリストが私たちに「父よ」と呼びかけるようにお命じになったことを確認させてくれます。何を祈るか、どう祈れば良いか、よりもまず冒頭で、神を「父よ」と呼ぶように教えて下さった事自体の素晴らしい恵みを思い起こさせます。

ガラテヤ書四4しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

 神の御子が律法の下にある人間となってくださいました。それは、人間を(私たちを)子としての身分に与らせてくださるためでした。そして、キリストが私たちに神の子どもの身分を授けてくださったので、神は私たちに御子の御霊(聖霊)を遣わしてくださって、私たちが神を

「アバ、父」

と叫び求めるようにしてくださった。私たちは、奴隷やお客様という他人行儀の関係ではなく、神の子どもという確かな絆を頂いたのです。

 「アバ」

という言葉は「お父さん」を呼ぶ子どもの呼びかけです。それも小さな子どもがお父さんを呼ぶ時の、幼児語です。お父ちゃんとかパパとか、そういう幼児の呼びかけです。まだ話し始めたばかりの子どもが、「アッバ、アッバ」という、あの言葉です。この当時でも、家の外で子どもがお父さんに「アバ」と呼びかけるのは恥ずかしいと考えられていた、それぐらい親しい呼びかけです。そういう言葉で、イエスは父なる神に「アバ」と呼びかけられました。そして、それと同じ親しい関係を下さったことが、私たちにも「アバ、父」と呼ぶ関係を頂いていることには込められているのです。神に親しく「アバ(お父ちゃん)」と呼びかけて祈る、そういう親しい関係です。

 「父」という言葉は

「畏敬と信頼」

を思い起こさせる、と言います。「畏敬」というのは、偉大さを忘れない、ということです。馬鹿にしたり軽んじたりしない。神を親しく呼びつつ、しかし神の偉大さを踏みにじるのではなく、ますます心から、喜んで神への敬意、礼拝を惜しまなくなるのです。この事については次の問121で見ましょう。今日はその前に違う角度からこの事をお話ししておこうと思います。

 ひょっとすると「神は天の父だ」と言われて、嬉しいと思えない人もいるかもしれません。厳しいお父さん、怒りっぽいお父さんで、安心できない家庭経験をしている方は少なくありません。今でも沢山の映画や小説で、父親とのギクシャクした関係がテーマになっていることがよくあります。自分のお父さんへのイメージや関係で痛みがあるままだと「父への畏敬」と言われると、体が強張ってしまうでしょう。

 聖書はその事を十分に踏まえています。ですから、イエスの前には神は「父」とだけ呼ぶ事はありませんでした。他の国では王が「父」を名乗ることがありました。王も、家庭の父親も、威張ってふんぞり返っていました。だからこそ、聖書は「父」という言葉に非常に慎重でした。その上でイエスが神を「天にいます父」と呼ばれた時、それは神が人間の父たちとは全く違う父、本当のお父さんだと言っているのです。血の繋がったお父さんに完璧なお父さんはいないけれども、天の神が私たちの本当のお父さんであって、この方を私たちは「アバ」と親しく呼び、心から畏敬と信頼を持てる。そのように新しい関係を下さったのです。

 今日はⅠ列王記三章を読みました。ソロモン王の裁判です。彼が王になった時、夢で神が現れて、欲しい物を願えと言われて、ソロモンは知恵を願いました。その後に書かれているのがこの記事です。

16そのころ、二人の遊女が王のところに来て、その前に立った。

17その一人が言った。「わが君、お願いがございます。実は、私とこの女とは同じ家に住んでいますが、私はこの女と一緒に家にいるとき、子を産みました。

18私が子を産んで三日たつと、この女も子を産みました。家には私たちのほか、だれも一緒にいた者はなく、私たち二人だけが家にいました。

19ところが、夜の間に、この女の産んだ子が死にました。この女が自分の子の上に伏したからです。

20この女は夜中に起きて、このはしためが眠っている間に、私のそばから私の子を取って自分の懐に寝かせ、死んだ自分の子を私の懐に寝かせました。

21朝、私が子どもに乳を飲ませようとして起きると、どうでしょう、その子は死んでいるではありませんか。朝、その子をよく見てみると、なんとまあ、その子は私が産んだ子ではありませんでした。」

22すると、もう一人の女が言った。「いいえ、生きているのが私の子で、死んでいるのがあなたの子です。」先の女は言った。「いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子です。」女たちは王の前で言い合った。

3:23 そこで王は言った。「一人は『生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、また、もう一人は『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ』と言う。」

24王が「剣をここに持って来なさい」と言ったので、剣が王の前に差し出された。

25王は言った。「生きている子を二つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ。」

26すると生きている子の母親は、自分の子を哀れに思って胸が熱くなり、王に申し立てて言った。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください。」しかしもう一人の女は、「それを私のものにも、あなたのものにもしないで、断ち切ってください」と言った。

27そこで王は宣告を下して言った。「生きている子を初めのほうの女に与えよ。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親である。」

28全イスラエルは、王が下したさばきを聞いて、王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。

 二人の遊女がそれぞれに子どもを産んで一緒に住んでいたのに、一人の赤ちゃんが死んでしまった。どっちも「死んだのは相手の子で、生きているのが自分の子だ」と譲らない。どうしたらいいか、みんな困って、ソロモンの所に連れて来られたのでしょう。そこでソロモンは剣でその子を半分にせよと言うと、本当の母親は、自分のものにならなくてもいいから子どもを殺さないでください、と言うのですね。本当の母親ではない方は、「半分に切って死んでも良い。自分のものにも相手のものにもならなくて良い」と言うのですね。ソロモンは、「自分のものにならなくても生きていてほしい」、それが本当の親の心だ、と知っていたので、こういう試し方をしたのでした。聖書は本当の親心が、何が何でも自分の思い通りにしようとは思わないことを知っています。本来、親はわが子の幸せや命を願うものだと踏まえています。

 それは、神御自身が私たちの「天の父」であることにも言えます。神は私たちの天の父として、私たちの幸せ、命を願い、そのためには遠回りや自己犠牲も厭われません。私たちが祈り願うことを聴いて、良い物は決して拒まれません。御自身の心が引き裂かれてでも、私たちに命を与えたいお方、いやそうして下さったお方です。剣で脅して畏敬と信頼を強いるのではなく、心から「アバ、父」と親しく呼び崇める関係を育ててくださる方です。祈る時、天の神がそのような方である事をまず思い出す。そう呼べる恵みにまず立ち帰る。

 八木重吉の詩を紹介します。

おんちちうえさま おんちちうえさまと唱うるなり
天にいます おんちちうえを呼びて
おんちちうえさま おんちちうえさまと唱えまつる
出ずる息に呼び 入りきたる息に呼びたてまつる
われは御名を呼ぶばかりのものにてあり

さて、赤んぼはなぜにあんあんあんあんなくのだろうか
ほんとにうるせえよ
あんあんあんあんあんあんあんあん
うるさかないよ
呼んでるんだよ かみさまを呼んでるんだよ
みんなも呼びな あんなにしつこく呼びな

 「お父さん」、そう呼びかけるだけで、もう後は何も言わなくても良くなるような、そんな関係が与えられています。

 

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ヨナ書四章「惜しまれる神 ヨナ書」

2018-04-29 16:56:38 | 一書説教

2018/4/29 ヨナ書四章「惜しまれる神 ヨナ書」

 教会図書に『さかなに食べられたヨナのおはなし』を入れて頂きました。今月の一書説教はヨナ書です。子どもにも分かりやすく大人にも鋭いメッセージをかいつまんで読みましょう[1]

1.ヨナ書のあらすじ

 ヨナ書の荒筋はこうです。紀元前八世紀頃イスラエルの国の預言者ヨナに主が言われました。

「大きな都ニネベに行って、彼らの悪について語りなさい」。

 しかしヨナはこの派遣を嫌って、東のニネベとは反対方向の西のタルシシュ行きの船に乗り込みます。神の戒めを拒絶して、逃亡したのです。ところが、主はその船に大嵐を与えて、船は難破しそうになります。船長や水夫たちは積み荷を投げ捨てたり必死に漕いだりしますがダメです。ヨナは自分のせいで暴風が起きているのだから自分を海に投げ込むように言って、渋々水夫たちはヨナを海に放り込みます。ここで大きな魚が出て来てヨナを呑み込み、嵐は静まる。これが一章です。

 二章に、魚の腹の中で祈ったヨナの祈りが記された後、三章でヨナは陸地に吐き出され、もう一度ニネベに派遣されます。今度はヨナも逃げずに従います。ヨナがニネベで

「あと四十日するとニネベは滅びる」

と言って回ると、ニネベの人々はその言葉を信じ、断食をして荒布をまとうのです。ニネベの王様まで王服を脱ぎ、国中に断食と懺悔を命じます。それを見て、神は天罰を思い直して、おやめになる。そういう出来事が三章にドラマチックに記されています。

 ところが、四章でそれを見たヨナがどう反応したでしょうか。ヨナは非常に不愉快になって、怒って主に抗議するのです。

「ああ、主よ。こうなると分かっていたから、私はタルシシュに逃げたのです」

と怒りをぶちまけるのです。ニネベを首都とするアッシリヤはイスラエルと敵対関係にあって、ヨナもその残虐ぶりに苦しんだ一人だったのでしょうか。家族を殺されたのかもしれません。彼がタルシシュに逃げたのはニネベに行くのが怖かったからでなく、自分が神の言葉を取り次げばひょっとしてニネベの人々が悔い改めたら、神は憐れみ深い神だから、裁きを思い直すかもしれない。それは嫌だ。彼らは滅ぼされるべきだ。あいつらに回心のチャンスを与えるなんてゴメンだ、それなら死んだ方がましだ。だから主の言葉に逆らってタルシシュへ向かったのです。自分を嵐の海に投げ込ませたのもヨナの勝手な意地でした。悔い改めではなく、自分を海に投げ込めばいいと言っただけ[2]。二章でも悔い改めの言葉はひと言もありません。三章の宣教も「滅ぼされてしまえ」という冷たい思いで語っていたのであって、そのヨナの怒り、心を閉ざした本心が四章で爆発するのです。

 このヨナと主のやり取りから、主の途方もない恵みを味わいましょう。ヨナはニネベの人々が滅んで当然だと抗議した時、

「あなたは当然のように怒るのか」

と主は短く言われます。勿論、怒りは大抵「当然」だと思って怒るのです。それを主は受け止めつつ、説得や議論で考えを改めさせようとはしないのです。

2.「あなたの怒りは正しいか」

 その後、ヨナは町の東で仮小屋を作り、そこから都で起こることを見てやろうと思います。ニネベの人々は裁きが下らないと分かったら、すぐまた悪さを始めるに違いない。そうしたら主も間違いを認めざるを得なくて、裁きを下されるだろう。そう思ったのでしょうか。

 しかし、この後の出来事は読んで戴いた通りです。主は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上に生えさせ、日陰を作られます。ヨナは喜びますが、翌日、神は一匹の虫を備えて、そのグリーンカーテンは枯れてしまう。太陽が昇って、主が東風まで送られるので、ヨナは弱り果てて死を願うのです。そこで主は、

「この唐胡麻のためにあなたは当然のように怒るのか」

と問われ、

10…「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。11ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」

と仰る。

 「あなたがその唐胡麻さえ惜しむのなら、ましてわたしは

と仰る。こういう非常に回りくどい方法を採られる。そして、この主の言葉でヨナ書はプッツリと終わります。この言葉にヨナがどう応えたか、また、ニネベがこの後また悪に立ち帰った歴史などは抜きに、主の問いかけで終わります。ヨナ書は、私たちに主の問いかけを投げかける、強烈な余韻の書です。

 ヨナがニネベの人々への憐れみに怒ったのはヨナの心情があるでしょう。私たちが怒り、誰かの救いを願わないのにも、それぞれなりの理屈や心境や経験があるでしょう。主はそれよりも大きな愛の神で、私たちには到底及ばない憐れみのお方です。でも神は、あなたの心は狭い、頑固だ、自己中心だと責めるよりも、「あなたがたった一本の草をさえ惜しむなら、わたしがニネベの人々をどれほど惜しむかも分かるだろう」と「体感」して考えることを懇願するのです[3]

 私たちが何かを惜しむ時、まして主はニネベの人も、私の嫌いな人も、また私のことも惜しんで下さるということに思い至って欲しい。神の御心に添わないから滅んでも当然ではなく、滅んで欲しくないのが当然で、そのために手間を惜しまないのが当然、少しでも立ち直ろうとするならそれを受け止めて、面子丸つぶれの計画撤回も当然。神とはそういう方なのです。

3.「仮小屋を後にして」

 主はニネベの人々を惜しまれたからこそ、その悪い行いから救い出そうとされました。神が人を愛されるとは何をしても大目に見る、ということではなく、その生き方が暴力や不真実であるならそんな死んだ生き方から立ち帰るよう働きかけて止まない、という事でもあります。愛されるからこそ、その生き方にも深く問いかけられるのです。しかしそれだけなら、ヨナでなくもっと違う、ニネベに恨み辛みのない人選をしても良かったでしょう。あえてヨナを選ばれたのは、神の願いがニネベの救いだけでなく、ヨナの救いでもあったからです。

 ヨナはイスラエル人で預言者でした。だからもう細かい事はいい、とは主は思われず、そのヨナが主の大きな憐れみへと引き寄せようとなさいます。自分の憎しみ、正義感で怒り、心に苦しみを持ち込んでいる。それを象徴するのが

「仮小屋」

を建てて不機嫌でいる姿です。主はそこからヨナを救おうとなさいました。6節に主が唐胡麻を備えて

「ヨナの不機嫌を直そうとされた」

には、欄外に

 「(ヨナを)苦痛から救い出そうとされた」

という別訳が記されています[4]。ヨナが意固地になって不機嫌のうちに閉じこもり、仮小屋を作ってそこに立て籠もり、神と争おうとする。そのヨナを主は救おうとされるのです。ヨナ書には「備える」という言葉も繰り返されます。大魚や唐胡麻、虫、東風を備えて、主はヨナの心に働きかけるのです。ヨナが自分の正義に閉じ籠もった生き方から出て来るために、主は色々なものを備えるのを惜しまれません。またヨナ書を通して私たちにも、自分の「当然」から主の「当然」に気づかせてくださるのです。

 もう一つヨナ書で顕著なのは、ヨナよりも異邦人の方が素直な姿です。水夫もニネベの人々も、謙虚で必死で助け合っています。主イエスご自身も、終わりの日にはニネベの人々が裁きの座に立つと言われました[5]。聖書は「人は主を信じれば救われて神の民になり、神を知らない人々は罪の裁きを受ける」なんていう単純な色分けをしません。神の民もまだ、主の恵みに触れて、取り扱われ、心を新しくされていく途中なのです。そのように取り扱われていくのが、主の救いなのです。

 今も主は私たちに、御言葉だけではなく、様々なものを備えてくださっています。私たちに大事なもの、助けてくれたもの、失って悲しかったもの、当たり前のように思っているもの、そうしたすべては、主が私たちに、大切な事を気づかせるために備えられた贈り物です。それは私たちが主によって遣わされた生活の場を照らす光です。悪や問題や自分の弱さや傷が出て来る中で、測り知れない神の恵みに気づかされ、怒りや不機嫌から救ってくれます。ヨナ書は私たちに自分の「当然」を手放し「仮小屋」を後にさせてくれる書なのです。

「全世界の所有者なる主が、人を惜しまれ、悪人の滅びを決して喜ばれないゆえにただ御名を崇めます。そして私たちにその御心を知らせ、想像するよう様々なものを備えたもうご配慮も感謝します。日常に惜しみなく鏤(ちりば)められたヒントに、怒りを和らげ、主の惜しまぬ愛へと変え続けてください。罪を怒るのも、その先にある希望を待ち望む心からでありますように」




[1] 作者のスピアの『ノアのはこぶね』もありますが、そのヨナの絵本が出ると知ってワクワクしていました。ノアとヨナのお話しは聖書の中でも子どもにも分かりやすい物語です。

[2] しかも、自分から進んで海に身投げしたのでもなく、水夫たちに選択を求めた所に、彼の操作的で、被害者意識、責任放棄が感じられます。

[3] 四11の「右も左も弁えない」は十字架上の「彼らは何をしているか自分で分かっていないのです」に通じます。そもそも、エデンの園での「善悪を知る木」(食べない事で善悪を知る木)の約束を破って、善悪を弁えないようになったのが人間です。そのような人間を神は、表面的な行為で(それ自体はどんなに暴力的でも)罰するよりも、右も左も弁えられないための悲惨な生き方としてその修復を願って下さいます。

[4] この名詞「ラー」は「悪」(一2、三8、10)、「わざわい」(一7、8、三10)と同語で、四1の「不愉快にした」(ラーアー)の派生語です。ですから、ニネベの人々の悪や嵐の海での禍に等しい問題がヨナの中にあって、それから主が救い出そうとなさった、という原意があります。

[5] マタイ十二39以下「39しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。40ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。41ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。」また、マタイは16章4節でも繰り返しています。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。」

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