2018/4/8 ハイデルベルグ信仰問答117「祈りは聞かれます」ルカ18章9-14節
二週間、主の十字架と復活を記念する「受難週」と「イースター」を過ごしました。イエスが想像を絶する苦しみを受けてくださったこと、そしてよみがえって、今もその力で私たちに働いてくださっている。その素晴らしい恵みを思いました。今日からまたハイデルベルグ信仰問答に戻ります。祈りの学びを再開しますが、十字架と復活と別の話ではありません。イエスの十字架と復活は、私たちと神とを親子関係に結びつけてくれました。私たちが、神を親しく「天のお父様」と呼ぶ親しい永遠の関係をくれました。その事が最もよく現れているのが、祈りです。ですから、祈りについて学ぶだけでなく、私たちの普段の生活で祈ることも励まされて、夕拝を続けて行きたいのです。
前回116では、祈りが私たちに必要であることをお話ししました。今日の117では、祈りに求められることは何か、三つの姿勢を挙げています。
問117 神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、何が求められますか。
答 第一に、御自身を御言葉においてわたしたちに啓示された唯一のまことの神に対してのみ、この方がわたしたちに求めるようにとお命じになったすべての事柄を、わたしたちが心から請い求める、ということ。第二に、わたしたちが自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前にへりくだる、ということ。第三に、わたしたちが無価値なものであるにもかかわらず、ただ主キリストのゆえに、この方がわたしたちの祈りを確かに聞き入れようとしておられるという、揺るがない確信を持つ、ということです。そのように、神は御言葉においてわたしたちに約束なさいました。
ここで祈りに求められるものとして3つあげているのは、どれも私たちの心の姿勢や考えです。見える外見のことではありませんし、形式的なことではありません。呪文のようなものがあって間違わないとか、沢山の献げ物をしましょう、ということではないのです。私たちが聖書から教えられる祈りは、神との心の関係を問います。それなしに、沢山の生贄や花輪や人柱を立てれば神が聞かれるだろうとか、強力な呪文を唱えたら、こちらの大きな願いも聞いてもらえるとか、そういう世界ではありません。
まず、私たちが
「御言葉において私たちに啓示された唯一の真の神に対してのみ、この方が私たちに求めるようにとお命じになった全ての事柄を、心から請い求める」。
聖書において私たちに語りかけておられる、唯一の神だけに、全ての事柄を求める。それも心から。自分に都合の良い神を造り出したり、二股を掛けたり、人間はしがちですが、神は人間の都合でどうこう出来る方ではありませんから、まず、神は神であって、この方以外にないと肝に銘じるのです。そして、自分に都合の良いことだけでなく、聖書で求められているすべてのことを求める。これは、次の問118以下で触れますが、自分が欲しいものだけでなく、知恵とか愛とか勇気、良い心も求めることを教えられます。
第二に、私たちが自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前に謙る。乏しさと悲惨さ、ということはこのハイデルベルグ信仰問答で何度も言ってきたことです。これは人間のありのままの事実です。私たちは愛にも真実にも乏しく、神の大きな恵みが見えずに苦しく、孤独で、不安や生きづらさを抱えています。また、周りの悲惨や苦しみを助けることも理解することにも本当に力の無いことを痛感しています。それでいて、そういう乏しさや悲惨を認めることが苦手で、言い訳をしたり、背伸びをしたりしがちです。人と比べて自分のほうがましだと言いたがります。
先に見ました
「パリサイ人と取税人の譬え」
はまさに典型でした。宗教的に熱心な生き方をしていたパリサイ人はどう祈りましたか。イエスは
「自分を正しいと確信して他の人々を見下している人」
に対しての警告として語られました。自分を正しいと確信して他の人々を見下し、自分は他の人のようではない、悪の生き方をしていない。「断食も献金もしています」。そう祈る祈りと、取税人として敵国ローマの手先となって生きていた人が
「目を天に向けようともせずに、「神様罪人の私をあわれんでください」
と言うしかなかった祈り。その違いは何でしょうか。ここには今日の学びの第二点
「自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、神の威厳の前に謙る」
姿勢がありません。勿論、やたらと卑下して諂って、自分を貶めるのとは違います。人との比較でない、ありのままの自分の状態を認めるなら人は謙虚にならざるを得ません。自然の前で人間ってなんてちっぽけな存在か。十字架のイエスの愛の前に、自分は何と愛のないろくでなしか。神の前にある自分の惨めさ、貧しさを認める謙虚さを忘れた尊大な祈りは、神の大きさを見失った独り言です。
ですから第三は
「私たちの無価値にもかかわらず」
と始まりますが、私たちが無価値だと言っているのではありません。私たちは神の作品であり、神に愛されているものです。それは私たちに何が出来るか、人と比べて能力や美貌や実績があるか、というパリサイ人が見ていた価値観とは違う、深い神の愛です。ここで言われているのは、私たちが自分の乏しさ、悲惨さを思って自分を無価値だと思っているとしても、だから神も自分の祈りを聞かれないだろうと思ってはならない、ということです。自分では無価値で祈る資格もないし、祈りを聞かれると期待する資格もないと思っているとしても、主キリストのゆえに、神が私たちの祈りを確かに聞いてくださる。その揺るがない確信こそ祈る時に求められることだ、というのです。自分を卑下して、貶めて、祈る価値などないと謙るのではないのです。その逆に、自分が無価値であるかのように思う時も、主キリストのゆえに、祈りは聞かれるという確信を持ちなさい、というのです。何という励ましでしょうか。そしてそれが聖書の御言葉における神の約束なのです。
どう祈れば良いのか、そう思うこともあるでしょう。私も以前は、失礼のないよう、堅苦しくぎこちない言葉を早口に綴って、何を祈っているかより早く終わりたくて言葉を並べ立て、終わってホッとしていました。今日の言葉の逆さですね。偉大な神に心を向けて祈るのです。自分の貧しさを早口で誤魔化したりする必要はなく、心までご存じの神が聞いておられると信頼して、心の思いをゆっくり祈るのです。その前に、聖書の御言葉をゆっくり読むだけでも、それも十分な祈りです。聖書の約束通り、神は私たちの祈りや心の呻きさえ、確実に聞いておられます。そして、私たちの願うよりも大きなご計画で、全てを益としてくださいます。祈りはその神への信頼を与えてくれるのです。