聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問117「祈りは聞かれます」ルカ18章9-14節

2018-04-15 20:51:27 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/8 ハイデルベルグ信仰問答117「祈りは聞かれます」ルカ18章9-14節

 二週間、主の十字架と復活を記念する「受難週」と「イースター」を過ごしました。イエスが想像を絶する苦しみを受けてくださったこと、そしてよみがえって、今もその力で私たちに働いてくださっている。その素晴らしい恵みを思いました。今日からまたハイデルベルグ信仰問答に戻ります。祈りの学びを再開しますが、十字架と復活と別の話ではありません。イエスの十字架と復活は、私たちと神とを親子関係に結びつけてくれました。私たちが、神を親しく「天のお父様」と呼ぶ親しい永遠の関係をくれました。その事が最もよく現れているのが、祈りです。ですから、祈りについて学ぶだけでなく、私たちの普段の生活で祈ることも励まされて、夕拝を続けて行きたいのです。

 前回116では、祈りが私たちに必要であることをお話ししました。今日の117では、祈りに求められることは何か、三つの姿勢を挙げています。

問117 神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、何が求められますか。

答 第一に、御自身を御言葉においてわたしたちに啓示された唯一のまことの神に対してのみ、この方がわたしたちに求めるようにとお命じになったすべての事柄を、わたしたちが心から請い求める、ということ。第二に、わたしたちが自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前にへりくだる、ということ。第三に、わたしたちが無価値なものであるにもかかわらず、ただ主キリストのゆえに、この方がわたしたちの祈りを確かに聞き入れようとしておられるという、揺るがない確信を持つ、ということです。そのように、神は御言葉においてわたしたちに約束なさいました

 ここで祈りに求められるものとして3つあげているのは、どれも私たちの心の姿勢や考えです。見える外見のことではありませんし、形式的なことではありません。呪文のようなものがあって間違わないとか、沢山の献げ物をしましょう、ということではないのです。私たちが聖書から教えられる祈りは、神との心の関係を問います。それなしに、沢山の生贄や花輪や人柱を立てれば神が聞かれるだろうとか、強力な呪文を唱えたら、こちらの大きな願いも聞いてもらえるとか、そういう世界ではありません。

 まず、私たちが

「御言葉において私たちに啓示された唯一の真の神に対してのみ、この方が私たちに求めるようにとお命じになった全ての事柄を、心から請い求める」。

 聖書において私たちに語りかけておられる、唯一の神だけに、全ての事柄を求める。それも心から。自分に都合の良い神を造り出したり、二股を掛けたり、人間はしがちですが、神は人間の都合でどうこう出来る方ではありませんから、まず、神は神であって、この方以外にないと肝に銘じるのです。そして、自分に都合の良いことだけでなく、聖書で求められているすべてのことを求める。これは、次の問118以下で触れますが、自分が欲しいものだけでなく、知恵とか愛とか勇気、良い心も求めることを教えられます。

 第二に、私たちが自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前に謙る。乏しさと悲惨さ、ということはこのハイデルベルグ信仰問答で何度も言ってきたことです。これは人間のありのままの事実です。私たちは愛にも真実にも乏しく、神の大きな恵みが見えずに苦しく、孤独で、不安や生きづらさを抱えています。また、周りの悲惨や苦しみを助けることも理解することにも本当に力の無いことを痛感しています。それでいて、そういう乏しさや悲惨を認めることが苦手で、言い訳をしたり、背伸びをしたりしがちです。人と比べて自分のほうがましだと言いたがります。

 先に見ました

「パリサイ人と取税人の譬え」

はまさに典型でした。宗教的に熱心な生き方をしていたパリサイ人はどう祈りましたか。イエスは

「自分を正しいと確信して他の人々を見下している人」

に対しての警告として語られました。自分を正しいと確信して他の人々を見下し、自分は他の人のようではない、悪の生き方をしていない。「断食も献金もしています」。そう祈る祈りと、取税人として敵国ローマの手先となって生きていた人が

「目を天に向けようともせずに、「神様罪人の私をあわれんでください」

と言うしかなかった祈り。その違いは何でしょうか。ここには今日の学びの第二点

「自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、神の威厳の前に謙る」

姿勢がありません。勿論、やたらと卑下して諂って、自分を貶めるのとは違います。人との比較でない、ありのままの自分の状態を認めるなら人は謙虚にならざるを得ません。自然の前で人間ってなんてちっぽけな存在か。十字架のイエスの愛の前に、自分は何と愛のないろくでなしか。神の前にある自分の惨めさ、貧しさを認める謙虚さを忘れた尊大な祈りは、神の大きさを見失った独り言です。

 ですから第三は

「私たちの無価値にもかかわらず」

と始まりますが、私たちが無価値だと言っているのではありません。私たちは神の作品であり、神に愛されているものです。それは私たちに何が出来るか、人と比べて能力や美貌や実績があるか、というパリサイ人が見ていた価値観とは違う、深い神の愛です。ここで言われているのは、私たちが自分の乏しさ、悲惨さを思って自分を無価値だと思っているとしても、だから神も自分の祈りを聞かれないだろうと思ってはならない、ということです。自分では無価値で祈る資格もないし、祈りを聞かれると期待する資格もないと思っているとしても、主キリストのゆえに、神が私たちの祈りを確かに聞いてくださる。その揺るがない確信こそ祈る時に求められることだ、というのです。自分を卑下して、貶めて、祈る価値などないと謙るのではないのです。その逆に、自分が無価値であるかのように思う時も、主キリストのゆえに、祈りは聞かれるという確信を持ちなさい、というのです。何という励ましでしょうか。そしてそれが聖書の御言葉における神の約束なのです。

 どう祈れば良いのか、そう思うこともあるでしょう。私も以前は、失礼のないよう、堅苦しくぎこちない言葉を早口に綴って、何を祈っているかより早く終わりたくて言葉を並べ立て、終わってホッとしていました。今日の言葉の逆さですね。偉大な神に心を向けて祈るのです。自分の貧しさを早口で誤魔化したりする必要はなく、心までご存じの神が聞いておられると信頼して、心の思いをゆっくり祈るのです。その前に、聖書の御言葉をゆっくり読むだけでも、それも十分な祈りです。聖書の約束通り、神は私たちの祈りや心の呻きさえ、確実に聞いておられます。そして、私たちの願うよりも大きなご計画で、全てを益としてくださいます。祈りはその神への信頼を与えてくれるのです。

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問118「すべてのことを神に求めよう」ヤコブ1章5-8、17-18節

2018-04-15 20:43:13 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/15 ハ信仰問答118「すべてのことを神に求めよう」ヤコブ1章5-8、17-18節

 祈りについて今まで二回見てきました。それは絵にするなら、聖書に基づいて、私たちがともに祈る、こんな姿に出来るかもしれません。

今日はその続きの118です。

問118 神は私たちに、御自身に対して何を求めるようにとお命じになりましたか。

 皆さんなら、神は私たちに何を求めるようお命じになっていると思いますか? どんな祈りを神は喜ばれるでしょう。逆に、「こんな願いは神に祈ってもなぁ」と思って遠慮した方がいいことはあるのでしょうか。ハイデルベルグ信仰問答はこう言います。

答 霊的また肉体的に必要なすべてのことです。主キリストは、わたしたちに自ら教えられた祈りの中に、それをまとめておられます。

 天の神は、必要なことをすべて求めなさいと言われます。ただ信仰や礼拝だけでなく、霊的また肉体的に必要なすべてを祈るのを待っておいでです。今日食べるパンや健康、環境、睡眠など体のことから、信仰や聖さ、聖書の学び、誘惑からの守り、愛を行う勇気…。要するに、霊的また肉体的、というのは、見える必要も見えない必要もすべて、ということです。そうした全てを神に祈り求めるようにと聖書は教えています。

ヤコブ一5あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。

 ここでは知恵も求めるよう言われています。「私は知恵が無くて、もっと知恵が欲しいけどそんなこと祈ったら我が儘だろうなぁ」などと思わず、祈っていいのです。嬉しいことだと思いますね。今日から祈りましょう。でも

「少しも疑わずに、信じて求めなさい」

以下はちょっと厳しすぎると思うかもしれません。私たちは少しも疑うなと言われても、まだ不完全な信仰で、神の偉大さを十分に理解するには到底足りません。ですからここでも、ちょっとでも疑う心があってはダメだというのではなく、堂々と開き直って、疑ってかかる横柄な態度を言っているのでしょう。大事なのは、私たちの側がどれほど神の養いを信じるに足りないとしても、神はすべての良い物を十分に下さって、私たちを養い、喜び、完全な賜物さえ与えてくださっている、という揺るがない真理です。それを人間の浅はかな考えで疑うなんて態度は慎みなさい、と戒めているのです。

17すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

18この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。

 天の父である神は、私たちに全ての良い贈り物を下さり、全ての完全な賜物まで下さって、私たちを生み育てて下さるお方です。そして、神は私たちが霊的にも肉体的にも何を必要としているのか、熟知しておられます。

 最近、こんな図を見つけました。

 ここには人間の持っているニーズ(必要なもの)が九つにまとめられています。ただ食べるものがあれば人間は生きていくのではないのだなぁと気づかされますね。安全も必要です。休息(睡眠、休暇)も大切なのは、十戒で「安息」が命じられている通りですね。目的や意味、生き甲斐もなければ、人間の心は死んでしまいます。コミュニティ、仲間、支えてくれる人、所属できる居場所は本当に必要。共感してもらうこと、心と心が通い合うことがないと生きていけないのは、人間はロボットではないからです。愛、これこそ必要です。喜ばれ、尊重され、大事にされること。失敗や挫折や大きな変化や喪失をしても、変わらず自分の価値を重んじてくれる愛。しかし、愛だけで良いわけでもありません。生命の維持、食事や健康も必要です。そして、自主性。自分の意見を持てる事。自分で選択できる事。自分らしさを受け入れてもらうことも、子どもの頃から必要です。最後に創造性。何かを造り出す事、新しい物を生み出したり、創作したり。神は世界を創造されたお方ですから、神は私たちにも創造性を下さって、何かを生み出す事に喜びを感じたり、それを認めてもらう事に自信を持ったりするように、人間の心を作っておられます。

 こうした沢山の面があって、私たち人間は初めて、満たされて生きることが出来ます。そして、この全てに神が関わっておられます。私たちは、こうしたすべての必要を神に祈り求めるよう言われています。勿論、聖書には聖書の表現で、私たちの祈りの模範が沢山ありますが、そこにも私たちは驚くほど豊かな、私たちの生活の必要を網羅した願いを見る事が出来るのです。パウロはピリピの教会にこう勧めました。

ピリピ四6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 その願いを神が叶えて下さるとは限りません。しかしそれは、神が私たちの必要をご存じない、ということではありません。私たちは自分にこれがどうしても必要だ、適わないと死ぬ、自分はお終いだ、なんて気持ちで色々な事を願うでしょう。でも、その願い通りでなくても、別の方法でもっと素晴らしく神はあなたの必要を満たしてくださるかもしれません。私たちが本当に求めている必要を、神はご存じです。そして、私たちの必要を豊かに答えてくださいます。その事を信頼して、私たちは人知を越えた神の平安をいただくことが出来るのです。次回から主の祈りを見ていきます。主の祈りには、イエスが教えてくださった、私たちの必要な願いのエッセンスがあります。私たちが自分の毎日の必要を、願いを神に祈るとともに、主の祈りや聖書の言葉を通して、イエスは私たちに、本当に必要なことを教えてくれます。そうして、私たちがシンプルでも、豊かに満たされて生きていく事が出来ます。もう一度言います。何も思い煩わないで、どんな時にも、願い事を祈り、献げて、満たして下さる神の平安をいただきましょう。

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使徒の働き二一章17-32節「尊重し合う」

2018-04-15 18:22:17 | 使徒の働き

2018/4/15 使徒の働き二一章17-32節「尊重し合う」

 パウロはエーゲ海周囲での伝道に区切りをつけ船旅を続けて、ようやくエルサレムに到着した。それが今日の21章17節です。前々から予感があった通り、神殿で暴動になり、殺されかけ、あっという間にパウロはローマ兵に囚われて、使徒の働きの最終段階が始まります。

1.誤解の背景

 パウロがエルサレム教会に着いた時、そこにはギリシャやアジアの諸教会から送られた献金を届けるという大事な目的があったはずです。しかしその事には何も触れられていません。むしろ、パウロとの間に深刻な不信感があってそれを解決しなければならなかった状況が鮮明になるのです。喜んで迎える兄弟たちもいましたし、ヤコブや長老たち、主な指導者層はパウロの報告を聞いて

20神をほめたたえ…「兄弟よ。…」

と呼びかけるのです。しかし、それでいて、エルサレムの教会のユダヤ人キリスト者は、パウロが異邦人伝道をしながら、そこにいるユダヤ人たちに

「子どもに割礼を施すな。慣習に従って歩むな」

モーセの律法に背くよう教えていると聞かされて、心穏やかならぬ思いでいた。もし、このままパウロが来た事が彼らに知られたら大変だ、という状況だったのです。そこで、彼らの提案が、ちょうど神殿儀式で誓願を立てている四人がいるので、パウロも参加して費用を払ってほしい。そうすれば、パウロが律法を守って正しく歩んでいることが分かるだろう、という提案です。

 これにパウロは従うのですが、皆さんならどうするでしょうか。なかなか面倒くさいなぁと思うでしょう。そこに初代教会が選び取った状況のヒントがあるのでしょう。

 キリストの十字架において、律法の生贄や儀式はその役割を完了しました。それでもエルサレム教会の信徒たちは神殿儀式や律法の規定も守っていました。それがエルサレムでの生活でしたし、律法本来の福音・約束を受け取る恵みがあったから、また、信仰と両立できたからです。しかし異邦人社会ではエルサレム神殿も律法も割礼も全く馴染みがなく、躓きや高すぎるハードルでしかありません。ですからパウロもエルサレム教会も、25節の最低限の倫理だけで十分としたのです。それは随分違う生活スタイルを認めたことでした。キリスト者の形式はこうだ、と決定版を持たないことを選んで、お互いの状況を尊重し合う、大決断をしたのです。

 それまでのユダヤ人の考えは違いました。世界中どこでもユダヤ教の形式を守っていました。それはそれで分かりやすい利点があります。しかし教会はあえて分かりやすさより、面倒くさい多様性、形式の自由さを選び、またそれを認め合い尊重し合う道を選んだのです。[1]

2.誤解からの暴動

 かつてのパウロはこんなに柔軟ではありませんでした。その姿は27節以下でパウロを手に掛けて殺そうとした人たちの姿そのままでした。この人たちも悪人だったわけではありません。真面目に熱心に純粋に神を大事にしていました。アジアからここに来たのも篤い信仰心からだったのかもしれません。自分たちにとって神聖な律法や宮を大事にしたいと思っていました。だからこそ、パウロが異邦人に対して柔軟であることに腹を立ててもいたのでしょう。それでも彼らはまだ我慢していました。また、29節の言葉を返せば、少し前にパウロがエペソ人トロフィモと一緒にいるのを観ても、それでもそこで騒ぎ立てはしませんでした。ところが、そのパウロが宮の中にいるのを見た時、頭に血が上ってしまいます。宮は異邦人が入れるのは一番外側の「異邦人の庭」だけと厳重に決まっていました。その看板も大書して立てられていました。その神聖な神殿に、あのパウロは異邦人も連れ込んだに違いないと思い込んでしまったのです。そして、パウロへの抑えていた憎しみが燃え上がって、彼を捕らえて、打ちたたいて殺そうとしたのです。32節で

「打つのをやめた」

とありますが、31節には

「パウロを殺そうとしていた」

とありますから、殺すつもりで打ち叩いていたのです。打つのを止めても、パウロはもう殴られ続けて、傷と痣だらけ、血だらけになっていたとしても不思議ではありません。

 異邦人も割礼をすべき、律法は一字一句守るべき。そう思っていたのがパウロを殴った人たちであり、かつてのパウロ自身の生き方でした。そのパウロが、そういう「べき」の押しつけから、異邦人の躓きを配慮する奉仕者となりました。そしてユダヤ人の同胞に対しても、「もう割礼は不要だ。犠牲だって要らない。異邦人と一緒にもっと自由になればいいぢゃないか」と押しつけることもせず、ユダヤ人が大事にしている習慣を尊重しています。両方それぞれの違いを、それぞれに尊重しています。どちらがいい、正しいと言えない違いを、両立できない違いを尊重しています。かつてから神を恐れ、熱心に敬って拘っていましたが、主イエスに出会い、本当の神がどんなお方かを知って、一つの形や自分の経験、文化を押しつけるより、その人その人を見るように変わったのです。ここだけでなくローマ書一三章などで、互いに受け入れ合いなさいと勧める。これがパウロの福音理解でした。いいえ、パウロが身をきよめ、頭を剃る費用を出すに先立って、神の子イエスは、私たちを神と和解させ、互いに受け入れ合わせるために、身を捧げ、御自身の命という代価を出してくださいました。それを誤解され、殴られ、殺されても、イエスは私たちのための神とお互いとの架け橋となってくださったのです。

3.教会の歩み

 お分かりのように、パウロや長老たちと違い、エルサレム教会の何万という信徒はわだかまりに囚われていました[2]。「新約聖書の教会はきっと理想的で麗しい、天国のような教会」ではありません。パウロも交わりを求めて帰って来たら、自分への不信感に直面して、どれほど落胆したでしょうか。でもそんな人間臭い現実をパウロが受け止め、誠意をもって対応し、なお交わりを築こう、和解のために努めた姿、それこそ教会が求める恵みでしょう。初代教会が異なる人たちが認め合おうとする教会だった。そこに生じる衝突を、無理矢理一つの型にはめて統一するのでなく、互いの信仰を認め合い、橋渡ししようとした。それが教会の立たされている道です。どっちが正しいでなく、互いのやり方を理解し合おう、尊重し合おうという態度を持って行くようになる。それこそが、神が私たちの間に働いてなしておられる御業なのです。

 「自分の方が正しい、相手が間違っている、変わるべきは相手だ」というゲームは悲惨です。そして、自分が正しいと思い込んでいると、ここでもパウロが異邦人を連れ込んだに違いないと思い込んでしまったように、事実を冷静に見る事が出来なくなります。邪推や誤解や疑心暗鬼をしてしまう危険がぐんと高まります。それで流言飛語やら暴動や民族大虐殺、ここで起きたような混乱が大なり小なり引き起こされています。そう考えても、「使徒の働き」に見る教会の姿は本当に大きな希望、大胆なチャレンジです。

 教会は一つの型、自分たちの習慣を押しつける「正しさ」ではなく、違いを受け入れ合う道を選びました。異邦人とユダヤ人という大きく違う同志がお互いを大事にし合おうと努力を惜しみませんでした。それは一つの教会でも、また夫婦や家族の中でも、あらゆる人間関係の中で最も基本に必要な姿勢です。私たちは尊重されたい人間です。イエスは最も尊いお方でありながら、御自身を与えて私たちを尊んでくださいました。そして私たちがお互いに尊敬を贈り物として贈り合う関係をくださいました。甘やかすとかほめるとかでなく、自分と同じように尊い存在だと受け止め続けるのです。それは最も素晴らしい贈り物です。

 勿論、尊敬だけでは問題は解決できません。この時も具体的な表現が提案されました。共に生きることは忍耐の要る長い長い道のりです。それでも、立ち帰ることができる変わらない土台はキリストが私たち一人一人を尊んでくださった事実です。キリストが尊ばれ、命を捧げられた相手を、裁いたり見下したりせず、尊ぶ思いに立ち帰ることが出来ます。神は私たちの間に、そのような思いを育てて、平和を築き上げておられるお方です。

「主よ。私たちの宣教の働きと、心にある思いをともに祝福し、整え、恵みの力で新しくしてください。一人一人があなたの愛を戴き、それぞれに聖く生きよう、交わりを育てようとするささやかな願いを、お互いに受け止め、尊重していくことが出来ますように。また既にある誤解や憎しみをも癒やしてくださって、本当の和解への長い道を一歩ずつ進ませてください」



[1] またその違いで誤解が生じた時も、パウロはあえて言葉で説明したり自己弁護をしたりしません。そんな言葉で言われても、ユダヤ人の生活に染みついた律法への尊重を、犠牲を払って見せる提案に従いました。それが誰かを排除する、と言う形であったなら、ガラテヤ書二章にあるように彼は断固としてしなかったのですが、譲って構わない所には彼は柔軟でした。

[2] きっと異邦人キリスト者と一緒に食事をするのも抵抗がある人たちだったでしょう。

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