2021/5/2 第二テサロニケ1章10-12節「キリストの忍耐 一書説教 Ⅱテサロニケ書」
先月の聖書通読表であたっていましたテサロニケ人への手紙第二です。1月にお話ししたⅠテサロニケの続きで[1]、パウロの手紙の中でも二番目に早く書かれた手紙です[2]。テサロニケはマケドニア州の州都の大都市です。使徒パウロたちが初めて訪れて宣教をした結果、信じる人々が起こされ、新しく教会が生まれました。でも反対する人も多く、厳しい迫害でパウロたちは追いだされました。パウロは残してきた教会の方々を想い、先の第一の手紙を書きました。しかし、迫害はまだ続いています。また、その手紙の、主が再び来られる事も誤解されて[3]、
二2…主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり…
と、もう主が来られたと思い込んで慌てている動きがあったようです。そこでこの第二の手紙を書いたのです。この一章では、まだ厳しい迫害が続いている事を踏まえて、やがて他者を苦しめる人は神の前から退けられることを語っています。反対が激しかっただけに、その報いを現す言葉も強いものとなっていますが、それ以上に今日の言葉は、希望をかき立てています。
Ⅱテサロニケ一10その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。…
この「間であがめられ」は「賛美される」以上に、素晴らしさを現してくださる、という事です[4]。聖徒たち[5]の真っ只中に神の輝かしさを現してくださる。私たちの心の底、思いの深みや人格、またお互いの交わり(関係性)の中に、神のすばらしい栄光を溢れさせてくださる。その結果
…信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。
信じた者にとっても目を見張って驚いてお目にかかることになる。誰一人として、「それ見たことか。私が予想していたとおりだ」と言える人はいないのです。私たちはみんな、主イエスがこんな栄光のお方だとは思ってもいなかった、と驚くことになる。それは、主が素晴らしいお方だ、というだけでなく、主が私たちの間に、私たちの中にその素晴らしさを注いでくださる方だからです。だから、
11こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。
そのゴールに向かうからこそ、出て来る祈りは、私たちのうちに内側の願いとそこから出て来る働きが作られていくこと、なのです[6]。今ここでの歩みにおいても、神が私たちをその召しにふさわしい者にして、私たちを主の栄光に与って変えられますように。それが、
12それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。
主の名があなたがたの間で、あなたがたも主にあって。それは、私たちの中に善を求める願いと、信仰から出る働きが育っていくこと、なのですね。ではこの「信仰から出た働き」は、何でしょうか。この後、二章で「主の日は既に来た」というデマを論破した後、3章6節から、パウロは、働く事の大切さを語ります。日常の仕事、働くこと。これがパウロの教えでした。
6…怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。
とあり、仕事の出来る人は働いて、自活すること。これは、人の臑(すね)を齧(かじ)って生活している人たちの事かもしれませんし、先の再臨への誤解と絡んで、「どうせもうすぐ世が終わるのだから、仕事をしていても意味がない」と怠惰な暮らしをしていたのかもしれません。いずれにせよ、この時代から今に至るまで、何度も教会の中には、「もうすぐ再臨が来る」とする熱狂的な終末待望運動が起こりました。その度に、普段の生活を投げ出して、仕事も「こんなことはやってられない」と、特別な集会や共同生活をして、主を迎える、という光景がありました。
Ⅱテサロニケはそれとは反対に、仕事は「こんなこと」ではない、する価値のあることだ。私たちの生活には価値があるのだ、と言います。マルチン・ルターの言葉、
「明日世界が滅びるとしても、私は今日リンゴの木を植える」
を思い出します[7]。伝道や奉仕も大事ですが、「良い業」とは一人一人の仕事、生活、働き。それが1章11節の「働き」なのです[8]。
私がⅡテサロニケで特に忘れがたい聖句は3章5節です。
「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。」
キリストの忍耐。神の力や華々しい業を憧れがちですが、キリストの忍耐こそ心を向けるべきもの。それと、主を待ち望みつつ、今の生活や仕事を「良い働き」とすることとは深く結びついています。
このテサロニケ人への手紙第二そのものがその忍耐の証です。パウロの手紙だから、祈って書かれたし、何と言っても「神の言葉」なんだから、第一の手紙だけでテサロニケ教会が力づけられた、とは行きませんでした。言葉が届かず、却って誤解され、それでパウロはもう一度書いた手紙です。忍耐をもって筆を執ります。信徒の早とちりや怠惰に向き合いながら、教え諭し、模範となろうとしますし、自分のためにも祈ってくださいと願っています[9]。そのパウロ自身が心を向けていたのが、神の愛とキリストの忍耐だったはずです。
主イエスは、直ぐに来ることも出来るのに、時間を掛けて、手間暇掛けることが決して無駄だとは思わず、私たちを耐え忍び、運んでくださっています。そのキリストの限りない忍耐に、今ここで私たちも心を向けるよう、パウロ自身が書いたこのテサロニケ人への手紙第二が語ってくれています。
「主よ、あなたの限りない愛と長い忍耐に支えられて、私たちが今あることを感謝します。再び主が来られるまで、一日々々が無駄ではなく、小さな働きが「良い働き」となり、主の道備えとなることを感謝します。どうぞ私たちに、今ここでも神の愛とキリストの忍耐に心を向けさせてください。その恵みを現し、もう一つの言葉を、もう一通の手紙を、もう一度の祈りを捧げさせてください。そうして心を恵みで養われつつ、主の来られる日を迎えさせてください」
脚注:
[1] テサロニケ人への手紙第一の一書説教は、こちらです。https://blog.goo.ne.jp/kaz_kgw/e/760ab5d9e9536a4ad88a10e4140dc9d1
[2] Ⅰテサロニケの後数ヶ月して。紀元51年か52年頃の執筆でしょう。
[3] Ⅰテサロニケ5:2(主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。)を誤解したのかもしれません。
[4] エンドクサゾー 「栄光」(ドクサ)に強調の接頭辞エンをつけたエンドクサ(華やかさ、輝かしさ)の動詞形で、新約聖書ではⅡテサロニケ1:10、12だけに出て来る言葉。栄光(ドクサ)は、Ⅱテサロニケで1:9、2:14に、動詞形(ドクサゾー)は3:1(最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。)で出て来る。
[5] これは聖書にあるキリスト者の呼び名の一つです。私たちの事です。
[6] この祈祷は、二章の結びの祈りとも通底します。「16どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、17あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。」
[7] とはいえ、この言葉の出典元は定かではなく、ルターの言葉ではない、という研究も出版されています。『ルターのリンゴの木』https://bookmeter.com/books/9836249 。しかし、誰の発言であれ、この言葉は、自分の仕事を主への信仰を持ってすること、今ここで地に足の付いた生き方を、主への良い業をして果たすことこそ、最善の主の迎え方だ、と気づかせてくれます。伊藤淑美「再臨(終末)を待ち望むとは、パウロの教えるところによれば「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉と」(Ⅰテサロニケ4章11節)することなのです。『聖書66巻がわかる』341頁
[8] 「わざ・働き」エルゴン(1:11、2:17(あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。))の動詞形「働くエルガゾマイ」(3:8 人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。10 あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。11 ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。12 そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。