聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/5/2 創世記9章8-17節「大洪水」こども聖書⑫

2021-05-01 12:07:51 | こども聖書



2021/5/2 創世記9章8-17節「大洪水」こども聖書⑫

 聖書の「ノアの洪水」のお話しは、よく知られたお話しです。大きな箱舟を作ったこと、その船の中に、あらゆる動物が乗せられたという動物好きにはたまらない光景、その船が大雨で全地が水浸しになった中を浮かんでいる絵。雨が止んだ後、ノアが窓から放った鳩がオリーブの葉っぱを加えて戻ってきた場面。とても、印象的です。そして、最後に、ノアたちが船を出て来た後、空に掛かる、美しい七色の虹!
 そうです、この虹こそ、ノアの大洪水から私たちが覚えるべき図です。それは、主がノアに約束された契約の「しるし」としての虹でした。それは、もう再び大洪水で地のいのちがすべて断ち切られることは、決してない、決して、という契約です。
六8神は仰せられた。…11わたしは、わたしの契約をあなたがたとの間に立てる。すべての肉なるものが、再び、大洪水の大水によって断ち切られることはない。大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない。」
 神が大洪水によって、地を洗い流されたのは、そうせざるを得ないほど、地が堕落していたからでした。人間社会が、どうしようもなく悪くなっていて、地獄と化していたからです。神は、その人間の悪、暴力に心を痛められて、地の争いを強制的に止められたのです。そして、その地に生きる小さなノアに目を留めてくださって、ノアの家族を通して、動物たちを救い、世界をもう一度始めることになさいました。神は、人間の心にある悪を十分覚悟した上で、それでも諦めずに、世界を再出発させられたのです。だから、これから先、神が大雨で人間を滅ぼすことはないと約束されています。大雨が降って、災害にはなっても、神の怒りで滅ぼされている、と思わなくて良いのです。そのことのしるしとして、神は空の虹を指さされたのです。
12 さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがたとの間に、また、あなたがたとともにいるすべての生き物との間に、代々にわたり永遠にわたしが与えるその契約のしるしは、これである。
13 わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。
14 わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。
15 そのとき、わたしは、わたしとあなたがたとの間、すべての肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い起こす。大水は、再び、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水となることはない。

 神が虹を見て、契約を思い出す、とは不思議な言い方ですが、私たちも虹を見た時に、神が約束してくださった、契約を思い起こすのです。神は、決してもう二度と、洪水で地を滅ぼさないと約束してくださった、と思い出せるのです。そして神も、虹を見て、思い出しておられるのです。神はご自身の契約を忘れない。大水の記事のど真ん中でも、八章一節に、神はその大水の上にポツンと浮かぶ箱舟の、ノアたち家族を覚えておられた、という印象深い言葉があります。
8章1節 神は、ノアと、彼とともに箱舟の中にいた、すべての獣およびすべての家畜を覚えておられた。
 そう、神は覚えてくださっている神。忘れない神、私たち一人一人を覚えてくださっている神です。
 虹は、英語でレインボーといいます。レインは雨、ボウは弓。雨の後に現れる、大きな弓のようなアーチが、レインボウ(虹)なのです。聖書の言葉でも、「虹」は「弓」と同じ言葉です。天においた弓。弓は矢をつがえて射る武器です。狩りや戦争で使われます。弓の反った方を、相手に向けて、しなやかな弦を構えて打つのです。その反った弓は的に向かいますが、戦わない時は、そのアーチを上にして壁にかけるのです。虹という弓は、大空にかけられた神の弓です。地上に向けられたり、私たちを狙ったりする方向にはありません。それは、神がもう地を狙わない。戦いは終わりにして、武器を置いて、平和のために手を使おう、というしるしです。
 虹は、美しいだけでなく、神の休戦宣言、不戦の誓いです。それも、無力な白旗の降参宣言ではありません。神こそは、世界をお造りになった方です。だから、大洪水にする力もお持ちですし、世界を一回滅ぼして、ゼロから作り直すことだって出来るお方です。神は、強い、最強のお方です。その神が、世界を滅ぼすよりも、なおこの世界を諦めず、ノアたちを覚えてくださいました。そのノアたち家族を通して、この世界の歩みをまだ続けよう、とされるのです。人間が何度神に背いて、互いに滅ぼし合ってしまうことも、神は百も承知しています。それでも、その世界を見捨てないと言われました。再び、洪水を起こさないと言われて、その契約を覚えているよ、と仰っているのです。
イザヤ書54章7節わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。8 怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、主は言われる。9これは、わたしにはノアの日のようだ。ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、わたしは誓った。そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。10たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。──あなたをあわれむ方、主は言われる。
 神は、この世界を今日も保っています。その力は偉大で、大洪水はその力を現してもいます。しかし、それで私たちを脅すよりも、神は私たちに心から立ち返ってほしいのです。神の力は、永遠の愛、真実の愛です。今も大雨の後には、美しい虹を見ることが出来ます。災害や苦しみの後に、神は平和の契約のしるしを必ず見せてくださいます。

 そして、その力ある神が、やがて一人の人間の赤ん坊としてこの世に生まれ、貧しく、低く、最後は本当に無防備な裸になって、十字架にかかってくださいました。しかし、それは神の無力さではなく、神の愛の力であり、神はイエスをよみがえらせて、私たちのいのちの道を知らせてくださいました。この神こそが、私たちのうちに働いて、滅びではなく、救いをもたらしてくださるのです。この世界を保っている神が、私たちを今日も生かして、様々な美しいしるしによって、語りかけ、励ましてくださっています。

「大いなる主よ、あなたの力は豊かに溢れ、あなたの正義も強く貫かれます。悪が強く見えても、主よ、あなたを信頼して、真実の力に支えてください。あなたの怒りに不安を覚えそうな時は、空を仰ぎ、契約を忘れず、私たちを覚えておられるあなたを思い出させてください。主の不思議な、いのちの力によって、絶えず希望を与えてください」
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2021/5/2 第二テサロニケ1章10-12節「キリストの忍耐 一書説教 Ⅱテサロニケ書」

2021-05-01 11:27:12 | 一書説教
2021/5/2 第二テサロニケ1章10-12節「キリストの忍耐 一書説教 Ⅱテサロニケ書」

 先月の聖書通読表であたっていましたテサロニケ人への手紙第二です。1月にお話ししたⅠテサロニケの続きで[1]、パウロの手紙の中でも二番目に早く書かれた手紙です[2]。テサロニケはマケドニア州の州都の大都市です。使徒パウロたちが初めて訪れて宣教をした結果、信じる人々が起こされ、新しく教会が生まれました。でも反対する人も多く、厳しい迫害でパウロたちは追いだされました。パウロは残してきた教会の方々を想い、先の第一の手紙を書きました。しかし、迫害はまだ続いています。また、その手紙の、主が再び来られる事も誤解されて[3]、
二2…主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり…
と、もう主が来られたと思い込んで慌てている動きがあったようです。そこでこの第二の手紙を書いたのです。この一章では、まだ厳しい迫害が続いている事を踏まえて、やがて他者を苦しめる人は神の前から退けられることを語っています。反対が激しかっただけに、その報いを現す言葉も強いものとなっていますが、それ以上に今日の言葉は、希望をかき立てています。
Ⅱテサロニケ一10その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。…
 この「間であがめられ」は「賛美される」以上に、素晴らしさを現してくださる、という事です[4]。聖徒たち[5]の真っ只中に神の輝かしさを現してくださる。私たちの心の底、思いの深みや人格、またお互いの交わり(関係性)の中に、神のすばらしい栄光を溢れさせてくださる。その結果
…信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。
 信じた者にとっても目を見張って驚いてお目にかかることになる。誰一人として、「それ見たことか。私が予想していたとおりだ」と言える人はいないのです。私たちはみんな、主イエスがこんな栄光のお方だとは思ってもいなかった、と驚くことになる。それは、主が素晴らしいお方だ、というだけでなく、主が私たちの間に、私たちの中にその素晴らしさを注いでくださる方だからです。だから、
11こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。
 そのゴールに向かうからこそ、出て来る祈りは、私たちのうちに内側の願いとそこから出て来る働きが作られていくこと、なのです[6]。今ここでの歩みにおいても、神が私たちをその召しにふさわしい者にして、私たちを主の栄光に与って変えられますように。それが、
12それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。
 主の名があなたがたの間で、あなたがたも主にあって。それは、私たちの中に善を求める願いと、信仰から出る働きが育っていくこと、なのですね。ではこの「信仰から出た働き」は、何でしょうか。この後、二章で「主の日は既に来た」というデマを論破した後、3章6節から、パウロは、働く事の大切さを語ります。日常の仕事、働くこと。これがパウロの教えでした。
6…怠惰な歩みをして、私たちから受け継いだ教えに従わない兄弟は、みな避けなさい。
とあり、仕事の出来る人は働いて、自活すること。これは、人の臑(すね)を齧(かじ)って生活している人たちの事かもしれませんし、先の再臨への誤解と絡んで、「どうせもうすぐ世が終わるのだから、仕事をしていても意味がない」と怠惰な暮らしをしていたのかもしれません。いずれにせよ、この時代から今に至るまで、何度も教会の中には、「もうすぐ再臨が来る」とする熱狂的な終末待望運動が起こりました。その度に、普段の生活を投げ出して、仕事も「こんなことはやってられない」と、特別な集会や共同生活をして、主を迎える、という光景がありました。
 Ⅱテサロニケはそれとは反対に、仕事は「こんなこと」ではない、する価値のあることだ。私たちの生活には価値があるのだ、と言います。マルチン・ルターの言葉、
「明日世界が滅びるとしても、私は今日リンゴの木を植える」
を思い出します[7]。伝道や奉仕も大事ですが、「良い業」とは一人一人の仕事、生活、働き。それが1章11節の「働き」なのです[8]。
 私がⅡテサロニケで特に忘れがたい聖句は3章5節です。
「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。」
 キリストの忍耐。神の力や華々しい業を憧れがちですが、キリストの忍耐こそ心を向けるべきもの。それと、主を待ち望みつつ、今の生活や仕事を「良い働き」とすることとは深く結びついています。

 このテサロニケ人への手紙第二そのものがその忍耐の証です。パウロの手紙だから、祈って書かれたし、何と言っても「神の言葉」なんだから、第一の手紙だけでテサロニケ教会が力づけられた、とは行きませんでした。言葉が届かず、却って誤解され、それでパウロはもう一度書いた手紙です。忍耐をもって筆を執ります。信徒の早とちりや怠惰に向き合いながら、教え諭し、模範となろうとしますし、自分のためにも祈ってくださいと願っています[9]。そのパウロ自身が心を向けていたのが、神の愛とキリストの忍耐だったはずです。
 主イエスは、直ぐに来ることも出来るのに、時間を掛けて、手間暇掛けることが決して無駄だとは思わず、私たちを耐え忍び、運んでくださっています。そのキリストの限りない忍耐に、今ここで私たちも心を向けるよう、パウロ自身が書いたこのテサロニケ人への手紙第二が語ってくれています。

「主よ、あなたの限りない愛と長い忍耐に支えられて、私たちが今あることを感謝します。再び主が来られるまで、一日々々が無駄ではなく、小さな働きが「良い働き」となり、主の道備えとなることを感謝します。どうぞ私たちに、今ここでも神の愛とキリストの忍耐に心を向けさせてください。その恵みを現し、もう一つの言葉を、もう一通の手紙を、もう一度の祈りを捧げさせてください。そうして心を恵みで養われつつ、主の来られる日を迎えさせてください」

脚注:

[1] テサロニケ人への手紙第一の一書説教は、こちらです。https://blog.goo.ne.jp/kaz_kgw/e/760ab5d9e9536a4ad88a10e4140dc9d1 

[2] Ⅰテサロニケの後数ヶ月して。紀元51年か52年頃の執筆でしょう。

[3] Ⅰテサロニケ5:2(主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。)を誤解したのかもしれません。

[4] エンドクサゾー 「栄光」(ドクサ)に強調の接頭辞エンをつけたエンドクサ(華やかさ、輝かしさ)の動詞形で、新約聖書ではⅡテサロニケ1:10、12だけに出て来る言葉。栄光(ドクサ)は、Ⅱテサロニケで1:9、2:14に、動詞形(ドクサゾー)は3:1(最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。)で出て来る。

[5] これは聖書にあるキリスト者の呼び名の一つです。私たちの事です。

[6] この祈祷は、二章の結びの祈りとも通底します。「16どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、17あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。」

[7] とはいえ、この言葉の出典元は定かではなく、ルターの言葉ではない、という研究も出版されています。『ルターのリンゴの木』https://bookmeter.com/books/9836249 。しかし、誰の発言であれ、この言葉は、自分の仕事を主への信仰を持ってすること、今ここで地に足の付いた生き方を、主への良い業をして果たすことこそ、最善の主の迎え方だ、と気づかせてくれます。伊藤淑美「再臨(終末)を待ち望むとは、パウロの教えるところによれば「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉と」(Ⅰテサロニケ4章11節)することなのです。『聖書66巻がわかる』341頁

[8] 「わざ・働き」エルゴン(1:11、2:17(あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。))の動詞形「働くエルガゾマイ」(3:8 人からただでもらったパンを食べることもしませんでした。むしろ、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜昼、労し苦しみながら働きました。10 あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました。11 ところが、あなたがたの中には、怠惰な歩みをしている人たち、何も仕事をせずにおせっかいばかり焼いている人たちがいると聞いています。12 そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。

[9] 3章1節(前述)。

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