聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/5/23 創世記22章「アブラハムとイサク」こども聖書⑮

2021-05-22 12:55:06 | こども聖書
2021/5/23 創世記22章「アブラハムとイサク」こども聖書⑮

 聖書の人物を遡ると、アブラハムという一人の人に行き着きます。神が、この世界の救いのために選ばれたのがアブラハムでした。このアブラハムが、神に呼ばれて旅を始めたのはもう75歳の時で、その時はひとりの子どももいませんでした。しかし、後に神様はアブラハムに一人の子どもを授けてくださいました。それが、イサクです。
 アブラハムと妻のサラは高齢になって授かったイサクをどんなに可愛がったでしょう。神が与えてくださった、祝福の子ども。ところが、神は信じられないことを仰います。
創世記22章1節
これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。2神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
 なんと、神はアブラハムに、ひとり子イサクを、全焼のささげ物とせよ、と言われるのです。これは、殺して、火の上に置き、完全に焼き尽くしてしまうと言うことです。残酷ですし、不思議な事です。どうして神は、アブラハムに約束して与えてくださった子どもを、アブラハムに「ささげ物として献げよ」などと仰るのでしょう。
3翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
 アブラハムは何を思ったのでしょうか。聖書は何も語りません。とても驚いたでしょうし、心が張り裂けそうになったかもしれません。聖書に何も書いていないから、何も言わずに黙って従った、とは言えません。もし何も言わなかったにしても、平気であったのであれば、この試練の意味はありません。ただ、アブラハムは主の言葉に従って、イサクを献げるために、旅をしたのです。途中で、イサクはアブラハムに話しかけます。
7…「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」8アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。
 イサクのこの問いに、アブラハムがどんな思いで答えたのかも、私たちには分かりません。その心中は、アブラハムしか分かりません。でも、この時アブラハムが覚悟していたのは、神がイサクを献げることをお命じになり、自分はまもなく、イサクをささげ物にしなければならないだろう、という事でした。そして、二人は到着します。
9神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。10アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
 アブラハムは、いよいよ、イサクを屠るばかりになりました。その時です。
11そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」12御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
 神が送られた御使いは、アブラハムがイサクに手を下すのを止めました。アブラハムがイサクを献げるよう命じたのは神ですが、最後の瞬間に止めたのも神でした。その時、アブラハムがどう思ったのか、イサクがどんな気持ちになったのか。それは私たちには分かりません。でも、これを読む私たちの気持ちはどうでしょうか。
 どうして? つらすぎる! こんなことしないでほしい! そうです。私たちの生きている生活には「どうして?」や辛すぎることが沢山あります。アブラハムでなくても、子どもの方が先に死んでしまうことはあるのです。私も16年前に二歳になる前の息子を突然死で亡くしました。今でも、そういう事は少なからずあります。今よりも医学の進んでいない時代は、そういうことはもっと頻繁でした。
 聖書の時代の読者も、この創世記の物語を聞く度に、自分を重ねずにおれなかった人は多くいたでしょう。信仰があれば試練がないわけでもないし、信仰深くないから試練から守られる訳でもありません。こういう事があるのです。アブラハムの心の動きは触れられていないのは、わざとです。簡単に言葉に出来ない、複雑な思いがあるのです。生きているとはそういう事です。神様は私たちに、良い物や祝福を下さいますが、それは何も絶対確かではなくて、失われることもあるのです。それだからこそ、私たちは、どんなものを失っても、神様だけが神です、私は神様あなただけを神として恐れ、礼拝します、という事が大事なのです。
 しかし、神は命じるだけではありません。私たちに必要なものを備えて下さる神です。
13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。14アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。
 目を上げると、山羊がいました。アブラハムが先にイサクに言った言葉が、まさか、その通りになりました。そしてそれは、偶然とか自然にとかでなく、主が備えてくださったことだ、とアブラハムは告白したのです。私たちの周りにある物は、何一つ偶然ではなく、主が備えてくださったものでもある。疑いと驚き、喪失と贈り物、試練と礼拝。どれも矛盾しています。神を信じるなら、そういう矛盾がなくなって、大事な物は決して失わなくて済むようになるわけでもありません。苦しいこともある。でも、多くの備えによって生かされてもいる。その矛盾の狭間で、どちらも備えて下さる神を礼拝します。最も大切な物よりも勝る、神を礼拝して、神に従って生きていくのです。



「主よ、あなたの備えを有り難うございます。あなたは決して犠牲を求めず、むしろあなたご自身が私たちのためにひとり子を惜しまず献げてくださいました。あなたのその愛によって、世界はどんなに深く変えられてきたことでしょう。どうぞ、私たちも惜しみない心で生き、あなたの備えに感謝し、私たちを御業のために献げさせてください」
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2021/5/23 聖霊降臨主日ローマ人への手紙8章26~30節「神がともにうめく」

2021-05-22 12:18:10 | ローマ書
2021/5/23 聖霊降臨主日ローマ人への手紙8章26~30節「神がともにうめく」

 教会の一年には三つの大きな祝祭の日があります。父なる神が御子イエスを贈ってくださったクリスマス、御子イエスが死からよみがえらされたイースター、そして、聖霊なる神が弟子たちに贈られたペンテコステ、今日の聖霊降臨日です。キリストがなさったことを、聖霊なる神が、私たちの心に深く力強く働いて届けてくださる。私たちが、キリストと出会って福音を信じ、聖書の言葉によって変えられ、喜びや平安、愛を持つことが出来るのは、ひとえに聖霊なる神の働きです。その事が、主イエスの十字架と復活の七週間後の日曜日に起きました。それが使徒の働き2章に書かれています。今日はその記念の、特別な聖霊降臨の主日礼拝です。
 私たちは、クリスマスとイースターと聖霊降臨が既に起きた時を生きています[1]。使徒二章のような激しい出来事はなくても、その後の使徒の働きが淡々と描くような教会の歩みの中に、見えない聖霊の導きや働きがあると信じながら、「我は聖霊を信ず」と告白して歩んでいます。
 ローマ書の八章は、聖霊の働きを繰り返して教えています[2]。その中に有名な言葉として、
8:15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
 私たちが神の子どもとされ、神を親しく「アバ、父」と呼んでいるのは、「子とする御霊」と呼ばれる聖霊なる神の働きです。計り知れない恵みです。その他にも、この八章には聖霊が与えてくださった恵みが豊かに書かれていますが、今日は特に26節以下を読みましょう。
26同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。[3]
 使徒パウロが「何をどう祈ったら良いか分からない」というなんて意外です。けれども、パウロだからこそ正直に、私たちは弱い、神に祈ることにおいても、究極的にはどう祈ったら良いか分かるなんて言えないと告白しています[4]。漠然と「助けてください、守って下さい、祝福してください」とは祈れても、今、ここでどうなることが本当に最善なのか分からず、言葉に詰まる思いをするのです。しかし、その私たちを御霊は助けてくださいます。
 「弱い私たち」
は「私たちの弱さ」という言い方です。私たちの強さ、力を助けるのではなく、私たちの弱さを助けてくださる。何をどう祈れば良いか分からない私たちを受け止めてくださる。思いをどう言葉にすればいいか分からないけれど、その思いの更に奥にある深い呻きを、聖霊もともにうめいてくださり、神に届けて執り成されるのです[5]。本当に苦しい思いをする時、神がいないとか、自分なんか神は見捨てたのだとか、そのように思うとしても、その苦しい呻きこそ、聖霊がともにしておられるのです[6]。その続きが28節の有名な言葉です。
28神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
 欄外に「異本「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを」とあり、「神は」がないのがオリジナルのようです。また29、30節の「神は」も補足で原文では主語は省略されています。ならば27節からの流れから、これらすべてが御霊の働き、聖霊の呻きの延長だと読むのが自然です。聖霊は私たちの心深くの言葉にならない思いをともにし、その聖霊がすべてのことがともに働いて益となるようにされる。それは、
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのために」
です。神のご計画は、神に背を向けた人間が神に立ち返り、神を心から愛するようになることです。それは、聖霊の御業による心の深い変化です。
 私たちの心の奥深くの呻きを共にされつつ、すべてのことがともに働くようにして、私たちがどう祈れば分からないながらも、今を語る言葉を持ち合わせなくても、神を愛し、心から神を信頼し、喜ぶようにと働いてくださる。永遠からのご計画に従って私たちを召して、義を与え、更に栄光も与えて、御子イエスと同じ姿、イエスを兄とする弟や妹として、成長させてくださる[7]。そのために、今の時の苦しみも[8]、私たちが言葉を失うような出来事も、たいしたことがないと思うことも
「すべてのこと」
がともに働く。そして、31節以下39節まで、苦難や苦悩、迫害や上や裸や、死やいのち、どんなことがあっても、
「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」
と言われるのです。そして、神はご計画に従って召してくださったすべての人、私たちにも、そう心から言わせてくださるのです。

 聖霊が注がれたことを記念する今日、今私たちの弱さを告白し、助けていただきましょう。コロナ禍がまだ続く中、何をどう祈ったら良いか分からず戸惑っています。他にも沢山の苦難があり、何がなくても何か心の奥には言葉にならない呻きが響いています。聖霊は、そうした私たちの弱さをともになさるお方。そうして、全てのことがともに働いて、私たちがますます神の愛を知り、神の愛から私たちを引き離すものはないのだと、心から言うように導いてくださる。それが、聖霊がこの世界に来られて、私たちの弱さや呻きにまで、本当に深く謙ってでも、始めておられる事なのです。「それには自分なんか」と思われますか。私もそう思いそうになります。そのあなたや私の弱さこそ、聖霊が助けてくださるよう差し出しましょう。

「天の父よ。今も私たちは、御霊の取りなしの故にあなたを父と呼び、祈りを捧げることが出来ます。深い呻きと痛みの中にある私たちを憐れんでください。被造物の世界全体が贖いを待ち望んで呻いています。主よ、この私たちの深い現実を、あなたは贖い、回復し、完成なさるお方です。どうぞ聖霊の働きにより、私たちを助けてください。私たちの弱さを差し出します。元に戻るよりも、あなたの愛に向けて、栄光の完成に向けて、私たちを進ませて、ますますあなたを愛し、互いに愛し、ともに歩む神の家族として成長させてください」

脚注

[1] キリストがお生まれになったクリスマスの出来事も、十字架と復活も、一度きりの決定的な出来事であったように、聖霊が下られた出来事も決定的な出来事です。

[2] ローマ書、1:4、11、2:29、5:5、7:6、14と御霊に触れてきて、8章で二〇回近く多用。既に御霊を受けている、という大前提。御霊が働かなければ、信じることも、良心を刺されることも出来ない。

[3] うめき(シュテナグモス) 8:22(シュステナゾーともにうめく)、23(シュテナゾー 使徒7:34とここのみ)

[4] 22-23節にも「私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。23それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」とあります。この世界が、苦難(18節)や虚無(20節)滅びの束縛(21節)に苦しんで、将来の栄光(18、21節)を待ち望む途上にある以上、苦難がないとしても、私たちはうめきを持っています。

[5] 「言葉にならない呻き」は私たちのとも御霊とも取れます。

[6] この八章には「ともに」が繰り返されます。16節(御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。)、17節(子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。)、22節(私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。)、24節(私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。)、28節(神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。)、29節(神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。)、32節(私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。) 24節の「望みとともに」以外は、動詞に接頭辞スンがついた複合動詞です。24節だけは、名詞の与格を訳したものです。他にも、「ともに」という意味合いでの与格や、そもそも聖霊の働きそのものが「ともに」である、神ご自身が「ともにいます(インマヌエル)」と名乗られるお方であることを考慮すると、スン以外にも神の臨在が溢れている八章だと言えましょう。

[7] …聖霊がわたくしの心の中でわたくしの弱さを助けたもうのに、二種類の仕事があって、ひとつは、わたくしの心の中で言うに言えない「うめき」がある、そのうめきを使って神様に訴えてくださることと、第二に、聖霊がわたくしの心の中に「神を愛する」愛情を育ててくださることによって、「万事を益となるようにして下さる」のだと思います。/…その同じ聖霊が、またわたくしたちの心を「神を愛する」愛情に燃え立たせてくださることによって、“すべては善し”と告白できるように変えてくださるのだと思います。本人がよいとも思わないのに、客観的にだけ物事を万事よいように取り計らって済ますということはあり得ない。本当に究極的な幸せというのは、もちろん初めは本人はそれを自覚しないかもしれませんが、ついには本人も“これがよい”という、心からの神への愛、感謝、満足が本人の心に芽生えない限り、万事が益になったとは言い切れないですね。ですから、パウロは、それを「聖霊が、神を愛する者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」のだと、こう言っているのではないでしょうか。/すべてのことが益になりますのは、そのように、わたくしたち自身の心の中に「神を愛する」という思いが芽生え、神への愛にわたくしたちが生きている中で初めて、わたくしの身の回りの人生のさまざまな出来事が積もり積もりめぐりめぐって結局幸せになっている、と言えるのでありまして、神を信じてもいなければ神に向かってつぶやいているような人に、万事が益になるわけはありません。」榊原康夫『ローマ人への手紙講解3』、138~139頁。

[8] 8章18節「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」

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