
[1] 「イエスはこれらの話を終えると」は、マタイの福音書で繰り返される、大きな区切りです。11:1(イエスは十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。)、13:53(イエスはこれらのたとえを話し終えると、そこを立ち去り、)19:1、26:1(イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。)
[2] 日本の法律で言えば、「離縁」は養子縁組の解消です。夫婦関係の解消は「離婚」と呼んで区別されます。どうして邦訳聖書が「離婚」と言わず「離縁」というのかは、調べてみたいと思います。
[3] 創世記4章には、主が、弟を殺したカインに「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」(15節)と言われた記事があります。カインの子孫レメクはそれをもじって「24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」と豪語しました。この「復讐の原理」に行き着いた先が「七十七倍」であることを、イエスはひっくり返して、「赦しの原理」を「七の七十倍」と描かれたという解釈も出来ます。
[4] マタイの福音書14章3~4節「実は、以前このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。4ヨハネが彼に、「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けたからであった。」
[5] これは申命記24章が根拠になっています。
[6] 頑な スクレーロカルディア マタイでここだけ、マルコも10:5(並行箇所)と16:14のみ。これを「あなたがたが離婚を頑固に願うから、妥協して離婚を許された」という意味に取る人もいるでしょうが、そのようには書かれていません。神は決して妥協はなさらない。頑固な心のまま、離縁を禁じただけでは、それは神の願う幸いな結婚ではなく、愛のない地獄になってしまう。心が頑ななままでは、結婚の目的は難しくなっているゆえに、神は離婚を許して、人間を守られるのだ。
[7] 申命記24章1~4節。「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、2 そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、3 さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、4 彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。」ですから、このパリサイ人の引用は、歪められた解釈で、本来の旧約の文言通りではありません。
[8] エレミヤ書3:1「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。そのような地は大いに汚れていないだろうか。あなたは、多くの愛人と淫行を行って、しかも、わたしのところに帰るというのか。──主のことば──」 しかし、主はこの節操のないイスラエルの民を、迎え入れてくださった。杓子定規に言えば、汚れて、帰ることなどあり得ないのに。大事なのは、それほど、関係が重要だ、簡単に解消して、また戻せばいい、などと思えないほど、神聖な関係である、ということ。頑なで、準備の出来ていない両人の結婚でさえ、神が結び合わせたもの、と言い、しかし、頑なさのゆえに、神は憐れみをもって離縁をも許され、人間を憐れみ、癒やそうとなさる慈しみにこそ、私たちは立つ。決して、離婚された人を断罪し、許されないかのように考えることはない。
[9] 「するほうがましスンフェレイ」 5:29、30、18:6では他者をつまずかせるより、石を首にくくられて海に放り込まれた方がまし、と言われていたのに。また、主は「人がひとりでいるのは良くない」と言われたのに、弟子たちは「ひとりでいるほうがまし」と応える。このような事では、離婚云々の土台はない。一人でなく、結婚して良かった、本当に一人で生きなくて良かった、と言えるためには、頑なな心が砕かれることが必要だ。
[10] もちろん、男性中心社会での男性の問題は、今や「男女平等」という名前の元に、男女両者が自分の権利を主張して、相手とともに生きることを嫌う形に現れています。男女ともに、「頑なさ」が結婚を有名無実化してしまっています。
[11] 父と母から離れないまま、新たな「親」を求め、自分がいつまでも「子どものまま」でいたい、相手と新しい「一体」になるより相手に自分のようになってほしい、自分の側に引き寄せることばかり考えていることのなんと多いことか。親が子を手放すことは、創世記の族長アブラハムが、ひとり子イサクを献げたことに象徴的に現されるとともに、その子のイサクも、孫のヤコブも、子どもに共依存している姿に、批判的に指摘されています。モーセやダビデの、子どもとの関係も、示唆に富んでいます。
[12] 結婚こそ、赦しの場だ。人間関係の最も深いところで、七の七十倍以上の赦しが必要になる。それが出来ないため、頑なさが邪魔をして、結婚が結婚にならない場合も、神は見据えておられる。赦すべきか、何度からなら赦さなくていいか、そういう問い自体が意味をなさないように、何の理由があれば離婚が許されるか、ではない。私たちが、今ここで、赦し合い、頑なさから守られて、神の祝福の中に生きるよう、励まされていくことだ。
[13] ダラス・ウィラード「今日、アメリカでの離婚率はおよそ五〇パーセントで、キリスト者といえども同じようなものです。離婚は一連の問題を生み出しますが、離婚自体が問題なのではありません。問題は、人々が結婚とは何かを知らないことにあります。法的手続きを済ませ、宗教的な儀式を経るものの、本当の意味では結婚していない人たちが大勢います。…ここでいう結婚とは、婚姻関係にある二人を文字どおり一人の完全な人にする(エペソ5・22-23)、絶えざる相互の祝福です。とはいえ、それが欠落しているのは当人の落ち度ではありません。この世界では知りようがなく、教えてくれる人もいないからです。これが、現代の悲しみの中心に位置する、魂が灼けつくようなつらい現実です。」『心の刷新を求めて』340ページ
[14] マラキ書2:16(妻を憎んで離婚するなら、──イスラエルの神、主は言われる──暴虐がその者の衣をおおう。──万軍の主は言われる。」あなたがたは自分の霊に注意せよ。裏切ってはならない。)
[15] 離縁について明言しているのは、この申命記24章の規定だが、律法には離縁される女性がいる現実や、男性が離縁する場合があることを前提とした記述がある。レビ記21:7(彼らは淫行で汚れている女を妻としてはならない。また夫から離縁された女を妻としてはならない。祭司は神に対して聖だからである。)、14(やもめ、離縁された女、あるいは淫行で汚れている女、これらを妻としてはならない。彼はただ、自分の民の中から処女を妻としなければならない。)、22:13(祭司の娘が、やもめあるいは離縁された者となり、子もなく、娘のときのように再びその父の家に戻っているなら、父の食物を食べることが許される。しかし、一般の者はだれもそれを食べてはならない。)、民数記30:9(しかし、やもめや離縁された女の誓願については、すべての物断ちが当人に対して有効となる。)、申命記22:19(銀百シェケルの罰金を科し、その娘の父に与えなければならない。彼がイスラエルの一人の処女に汚名を着せたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、彼女を離縁することはできない。)、29(娘と寝た男は娘の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女はこの男の妻となる。彼女を辱めたのであるから、彼は一生この女を離縁することはできない。)
[16] 「離縁するアポリュオー」がマタイで最初に登場するのは、1:19の、ヨセフのマリア離縁の悩みでした。この福音書は、離縁に悩むヨセフの姿を受け入れつつ、励まし導く記事から始まっているのです。その他は、5:31、32。
[17] 11、12節「受け入れるコーレオー」場所・空間を作る。15:17と、この二カ所のみ。ヨハネ2:6(そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。)、Ⅱコリント7:2(私たちに対して心を開いてください。私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。)
[18] 11節の「許された」を聖書協会共同訳では「恵まれた」としています。「イエスは言われた。「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。」