聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/5/16 創世記12章「神に従うアブラハム」こども聖書⑭

2021-05-15 12:36:50 | こども聖書
2021/5/16 創世記12章「神に従うアブラハム」こども聖書⑭

 聖書に登場する、アブラハムという名前を聞いたことがありますか。誰のこと?と思われる方もいるでしょう。確かに、この人は無名でした。もし、神が選ばれなかったら、誰も知ることのなかった人です。神が選ぶにしても、最も神が選びそうになかった人でした。神は、アブラハムの子孫からイスラエル人を起こし、その中からイエス・キリストが誕生しました。ですから、聖書の大いなる物語は遡ると、アブラハムから始まるのです。教会ではアブラハムを「信仰の父」と呼びます。聖書がそのようにアブラハムを描いているからです。しかし遡るならそういうことになりますが、その前に立って、神が「信仰の父」となる人を選ぼうとする時、アブラハムが選ばれるとは到底思えません。
 神は創造された世界を完成させようとしていました。ノアの洪水で再出発した世界は、バベルの塔の建設に現された通り、心が神から離れて自分たちが神になっている人間で満ちていました。その世界を滅びから救うため、全人類を救うため、神は一つの家族を選ばれたのです。それが、アブラハムに与えられた招きの言葉でした。
創世記12章1節、
主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
 「あなたを大いなる国民とし」。しかし、この時アブラハムは子どもが一人もいませんでした。妻のサライは子どもを産めない体でした。そして二人はもう高齢でした。子どものいない老夫妻、何も残すことなく人生を終えようとしていた二人を、神は選ばれて、「あなたを大いなる国民とする」と言われたのです。後に、新約のヘブル書
11章7節
信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。
 アブラハムは、どこに行くかも分からないけれども、神のこの言葉に従って出て行きました。それは、当時のカルデヤのウルという町から、カナンの地までの長い旅でした。アブラハムが神の言葉に従って旅をしたのは、とても勇気のある事でした。けれども、だからアブラハムが立派な信仰者で、神様を疑ったりせずに、すばらしい歩みをしたかと言えば、決してそんなことはありませんでした。旅ではいろいろあるように、アブラハムの歩みも、神様に文句を言ったり、神様を悲しませるような間違いを犯したりすることが何度もありました。特に、約束の子どもがなかなか与えられなかった事は、大きな痛みだったと思います。それでも、神はアブラハムに語りかけました。
創世記15章5そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」6アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と見なされた。

 しかし、アブラハムは信じ切れず、女奴隷との間に子どもを設けたりしてしまいます。アブラハムは、私たちと同じように、揺れたりアップダウンをしたりしながら、その時その時、主を精一杯信じた人です。そして、神はその信仰を、義と見なしてくださいました。同じように、私たちも神を信じながらも毎日、疑ったり迷ったりします。その小さな信仰をも、神はアブラハムと同じように喜んで受け入れてくださる。だからアブラハムは私たちにとって慰めに満ちた「信仰の父」です。主は言われます。

創世記17章
2わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。…4…あなたは多くの国民の父となる。…7わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。」

 しかしこの最初となる子どもはまだ授かっていません。アブラハムたちの旅は、いくつものエピソードを経て続きました。カナンの地を出てから、アブラハム夫妻が子どもを授かるのは、十三年も先のこと、その時、アブラハムは百歳、妻は九十歳でした。その二人に子どもが生まれました。自然にはあり得ない、奇蹟です。

ヘブル11:11アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。12こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数え切れない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。

 神は、この世界にいのちの祝福を完成させるために、アブラハムとサラという、死んだも同然の、子どものいない老人夫婦を選んで、父となさいました。その夫婦が、私たちと違って立派な信仰があったからでもなく、私たちと同じように弱く、失敗を繰り返す歩みであっても、神は決してアブラハムたちから離れず、彼らを導かれ、約束の子どもを与えてくださいました。だから、アブラハムたちは神に従い、神をますます信じるようになったのです。そして、その約束の通り、アブラハムの子孫は増え広がり、遂にはその子孫から救い主である王、イエス・キリストがお生まれになったのです。

Ⅰコリント1:27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

 神は、アブラハムを通して全世界の人々を救って、神の民となさるご計画を始められました。私たちは、その最初からの神のご計画に与ります。神が、今も、力のない人、相応しくないと思うような人を通して、神にしか出来ないことをしてくださる。私たちにも、神は、祝福を約束したとおり、アブラハムへの契約を果たしてくださるのです。

「神よ、あなたこそは神です。不思議にもアブラハムとサラを選んで、救いの業の始まりとされたように、私たちも今ここでその契約に与っています。あなたの大いなるご計画は、小さな人や心の奥深くにまで、深く、長く関わり、あなたにしか出来ないことをしてくださる物語です。本当に、あなたを信頼します。あなたに従わせてください」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/5/16 マタイ伝19章16~26節「針の穴を通るほうが」

2021-05-15 00:03:46 | マタイの福音書講解
2021/5/16 マタイ伝19章16~26節「針の穴を通るほうが」[1]

 エルサレムに向かうイエスの所に、一人の人が近づいて来ました。20節は「青年」と言い、多くの財産を持っていたとも22節に言われます。マジメに律法を守ってきたと言い切れる。それでも、まだ何か足りない。若さも真面目さも財産も、満たしてはくれない思いの中で、
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
と聞いたのです。永遠のいのち、「天の御国に入る」[2]「救い」[3]と言われるのは、今ここで、永遠の価値に生かされること、天にいます永遠なる神の御支配に生かされることです[4]。この青年は、そういう神からの生き生きとしたいのちを求めて、イエスに尋ねて来たのです。
17イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
 青年の質問は「どんな良いことをすれば」でしたが、イエスは「良い方はおひとりです」と神を思い起こさせます。私が何をするかでなく、良いお方(神)に目を向けるよう言います。神が何を仰っているかが大事なのです。これにも、
18彼は「どの戒めですか」と言った。
 神のどの戒めを自分が守ればいいのでしょうか、と神は見えていません。これに答えてイエスが挙げる戒め、
「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。19父と母を敬え。…」[5]。
 十戒の、人に対する五つの戒めと、その要約である
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」
です。これが、神が示されたいのちの道です。「これらを守れば永遠のいのちを得られる」という手段ではありません。「永遠のいのちを得るために愛する、戒めを守る」は、神の御心とは違います。でも、この青年は言うのです。
20…「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」」
 律法を守っている、と言うのは当時のユダヤ教の理解では特に思い上がった事ではなかったようです[6]。それでも、彼はまだ満たされない。目的が手段にすり替わっているからです。
21イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。…
 欠けの満たし方でなく、全部手放しなさい。戒めを守っているという誇りも、多くの財産も、却って邪魔をしている。「良いことをしなければ」とか「私は守ってきました」と胸を張る、立派な信仰者を目指す、神を誤解した生き方を捨てなさい。財産は貧しい人たちのために使い切って、
「そのうえで、わたしに従って来なさい」。
 イエスは青年をそう招かれました。最も大事なのは、「私が良いことをする」以前に、「良いお方」である神とともに生きることです。イエスに従うとは、イエスに出会い、イエスの言葉に生きる事で、神とともに歩むことです。それこそが、いのちなのです。しかし、
22…このことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
 そしてこれに続いてイエスが仰ったのが今日の説教題にもした有名な、途方もない言葉です。
24…金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
 この出来事の前、13~15節でイエスは小さなこどもたちを迎えて、
「天の御国はこのような者たちのものなのです」
と仰いました。小さな幼児、何も持たない、何も神に対して誇るものがない、そうした人こそ、神の一方的な恵みを手放しで戴くことが出来ます[7]。でも、金持ちや真面目な人、正しさを自負できる人は、それが出来ない。神の国の門は狭くても、何も持たない人や子どもは楽々入れるのに、あれもこれも捨てられずに却って、入れない[8]。それは本当に難しいので、駱駝(らくだ)が針の穴を通るほうが易しい、と仰いました。
 これを聞いて弟子たちは
「たいへん驚き」
ます[9]。その驚く彼らをイエスは
「じっと見つめ」
ます[10]。
「それではだれが救われるだろう」
とたじろぐ弟子たちを、色々なものを握りしめて後ろめたさや不安を覚える私たちを、じっと見つめられるイエスが、こう仰るのです。
26…「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」
 幼子のようにただ主の恵みを戴けばいいのに、隣人を自分のように愛せたら本当に楽なのに、物を握りしめず減らして使ってもらえば幸せになるのに、出来ない。「捨てなさい、手放すべきだ」と言われても、難しい。でもそれで立ち去ったら終わり、ということなら絶望です[11]。人には出来ない。だからこそ、神がしてくださるのです。人には悲しみでも、そこからこそ、神が私たちの神であり、私たちをじっと見つめ、救ってくださる希望が始まります。

 神は、神の国の狭い門の奥で、良い行いをした人やすべてを捨てた人だけを迎え入れようと待っている神かと思ったら、なんと天から飛び出して、貧しい人間となり、子どもを祝福し、良いことをしたなんて言えない者のそばに来てくださいました。神が人となる。それよりは、駱駝が針の穴を通る方が易しいことです。イエスは、それをしてくださいました。いいえ、それを惜しみなくするのが、神であり、それこそが神の国の治め方なのだと言われたのです[12]。

 私たちには神の国の生き方を選ぶことは出来ません。ただ神が、私たちのうちに働いて、私たちの小さな貧しい心に入ってくださって、神の国に入れてくださるのです。主は、私たちに良い行いを望むより、ご自身が良い方であることを私たちに知って、信頼して、喜んでほしいのです。そして、その喜びが溢れて、隣人を自分のように愛し、持っているもの全て惜しまずに捧げるような生き方を、私たち自身を委ねる心を育ててくださるのです[13]。そう、大事なのは、私たちには出来ないことを神がして下さること、私たちのために駱駝が針の穴を通る以上の事をしてくださった神がおられること、その神が今も私たちの神、永遠の王であることです。

「主よ、人には出来ないことを、あなたがしてくださいます。だから私たちは希望を持てます。そのあなたを小さく考え、自分を誇り、人をも心で踏みにじる罪を、どうぞ砕いてください。良い人でなければと心を閉ざす生き方に触れてくださって、弱さも罪も認めて悲しませてください。痛みの多い私たちの歩みの中に、あなたが働いて、私たちには出来ないことをしてください。何より私たちが手も心も開いて、あなたの恵みの業のために捧げさせてください。」

脚注

[1] 参考説教として、吉田隆牧師の「針の穴を通るラクダ」をオススメします。https://www.christ-hour.com/archive/detail.php?id=516

[2] 23節。

[3] 25節。

[4] 今の人生が死で終わっても、その先がある、死を超えた場所があることも大事ですが、それ以上に今ここで既に、神の国の民、永遠に朽ちない尊さに生かされる。それが永遠のいのちです。

[5] 十戒の後半の四つの戒めと、真ん中の第五の戒めに戻り、それから十戒にはないけれど、律法の要約と言える「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」です。

[6] 使徒パウロも、「その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。」(ピリピ書3章6節)と現在形で語るほどです。

[7] 他の人とも、競争したり踏みつけたりせず、ともに生きることが出来ます。持っている財産を貧しい人に与えるというのも、イエスが願ったのは善行と言うより、貧しい人との出会いです。イエスはその最初の説教の切り出しを「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5章3節)と語られたのです。何も持てない人が、神の国の民とされる幸いを戴いている。それが、イエスの語る神の国です。

[8] 子どものようになる、と言われた。子どもは、自分の好きなことのためなら、全部投げ出す。針の穴を通るような狭いところにも、行きたければ入って行く。努力して、ではなく、すべてを捨てて。

[9] 当時の考えでは、金持ちは、その正しさの故に、神が財産を祝福して下さった人だと思われていました。

[10] マルコやルカではイエスが去って行く青年を見ています。マルコの福音書10章21節(イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」)、ルカの福音書18章24節(イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。) しかしマタイは、青年よりもむしろ弟子たちを見つめ、語るイエスを描きます。「それではだれが救われるだろう」とたじろぐ弟子たちを、色々なものを握りしめて後ろめたさや不安を覚える私たちを、じっと見つめられるイエスです。

[11] この青年も悲しみながら去ったのは残念なことでしょうか。イエスの言葉は、神がこの青年に働いてくださったという希望を響かせます。そもそも、これまで「良い行いをしなければ」と胸を張らなければと思っていた彼が、イエスの言葉を聞いて、悲しめた事、自分の心の痛みに触れられた事、心を注ぐことが出来たのは、むしろ主が私たちの心をも開いて、悲しませてくださる出来事とも重ならないでしょうか。

[12] 惜しみ無さこそ、神の完全さ。何にも執着せず、誇らず、手放して、自分を相手に与えてしまう。それこそ、神の聖なる完全さ。そこに私たちも似ていく。招かれていく。神がそうしてくださる。得るよりも手放す。惜しむよりも受け取る。それが、神の国の生き方であり、将来の話ではなく、今ここで始まっていることなのだ。

[13] 今ここで、すべてを捨てること、すべてを主に委ねて、自分さえ明け渡しながら生き始めるのでなければ、神の国に向かうことさえ出来ない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする