2015/05/17 ルカの福音書二二章7~13節「大丈夫です」
鳴門で大渋滞といえば、サッカーの試合がある日でしょうか。二万人収容できるスタジアムから一斉に出て来る人や車で、詰まってしまいます。阿波踊りの時は、約七万人の来場者で町が溢れかえります。徳島の阿波踊りだと一三〇万人もの人出だそうです。そして、エルサレムの過越の祭ではその二倍以上、三〇〇万人近い大群衆が、ローマ中から集まったそうです。まさに、祭りのど真ん中に放り込まれた、大変なごった返しようでした[1]。そうした喧噪の中、今晩、過越の食事をする場所を捜すという今日の会話がなされたのです。
今日出て来る、「家の主人」とはイエス様がすでに話をしてあったのです。「過越の祭りの日に、弟子たちと食事をする場所を用意しておいておくれ」。「分かりました、先生」。そんな打ち合わせがあったのでしょう。「水がめを運んでいる男」ともありますが、当時は水がめを使うのは女性で、男性は皮袋を使って水を運んだのだそうです。また、正確には「水がめを運んでいる男があなたがたに会う」という文章です。大変な人混みですから、向こうからペテロとヨハネを見つけてその家に案内してくれるよう、この男の方とも打ち合わせていたのです[2]。そういうイエス様の周到な用意があって、この過越の食事を弟子たちは迎えることになりました。それは、この過越の食事が、特別な「最後の晩餐」だったからです。今日の箇所でも「過越」という言葉が四回も出てきます。そして、次の15節でイエス様が仰っています。
15…「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
それほどこの「最後の晩餐」はイエス様にとって大切でした。だから、邪魔をされないよう、弟子たちにも秘密で打ち合わせがされていました。前回ユダがイエス様を引き渡す機会を狙っていたとありましたが、過越の食事などは格好のチャンスでしょう。だからイエス様は、そこに踏み込まれないよう内緒で準備をしておられました。それほどこれは特別な晩餐でした。
過越の祭とは、この時から更に1500年ほど遡った、出エジプトの出来事の記念でした。神が、エジプトの国の頑なさを責められ、一向に悔い改めようとしないエジプト人に対して、遂に全ての家の初子を殺すという禍(わざわい)をもたらされたのです。しかし、そこに住むイスラエル人に対しては、こう命じられました。「一歳の羊を屠って、その血を戸口の鴨居(かもい)と二本の門柱に塗りつけなさい。主はその戸口を過ぎ越されて、その家には禍は降りかからない[3]」。この言葉に従ったイスラエルの家は約束通り、禍が過越して行きました。その晩のうちにエジプトはイスラエル人を急き立てて解放しました。大急ぎでの出発でしたので、パンを持って行くにも発酵させる暇がありません。パン種を入れず、膨らませないままで焼いて持っていきました。そういう出エジプトを記念するのが、「過越の祭り」「種なしパンの祝い」というお祭りです。
この「過越の祭り」の時に、イエス様は十字架に掛かられました。わざわざこのタイミングを選ばれて、死を遂げられましたのは、キリストこそ私たちの「過越の小羊」として血を流し、十字架に死なれたのだからです[4]。キリストは、私たちの「過越の小羊」として屠られました。この主を信じるとき、私たちも新しく人生が始まるのです。そのことをハッキリと教えるためにも、イエス様は周到な準備をもって、この過越の食事を弟子たちとともにされたのです[5]。
もうこの日の翌日には、イエス様は十字架にかかって、犠牲の死を遂げようとなさっています。それは大変な緊張であり、その苦しみだけを言えば、最後まで避けられるものなら避けたいと思われていた深い苦しみと悲しみです[6]。イエス様はそういう自分の苦しみ以上に、ご自身の死によって、弟子たちが神の深い恵みに与ることを知らせたくて、この食事の場を大切にされたのですね。これもまた、何と大きなイエス・キリストの愛でしょうか。
しかし弟子たちも、イエス様が逮捕され、十字架の死を遂げる今晩から、大変厳しい坩堝(るつぼ)に放り込まれようとしています。31節では
「サタンがあなたがたを麦のように篩にかける」
と言われます。信仰が試されます。そればかりかイエス様は、弟子たちをこの世界に派遣されます。この世界の大混乱の真っ只中で、神の国を証しさせます。富の誘惑と戦い、自分自身のプライドと戦いながら御言葉に従って生きる道は、決して楽ではありません。けれども、イエス様は、そのような彼らのために、この「最後の晩餐」の席を用意されました。そのためにスパイのような秘密作戦まで練って、この席で弟子たちと秘かに過ごそうとされたのです。
弟子たちはそんな事は全く分かっていません。過越の食事をどこでしようか。ご馳走にありつけるだろうか。そんなことを考えていたのでしょう[7]。主は、その彼らの日常的な心配に応えてくださいました。心配しなくても大丈夫でした。しかし主イエスには、準備をしている弟子たちが考えもしなかった、素晴らしいご計画がありました。弟子たちが願ったものを与えながら、実はもっと大切な、もっと喜ばしいメッセージがありました。それは、主がご自身を私たちに与えるほどに私たちを愛され、私たちを救う歴史的なご計画がある、という福音です。
今も主は、あらゆることを通して私たちに囁(ささや)いておられるのではないでしょうか。
「大丈夫だ。わたしはあなたにわたし自身を与えるほど、あなたを愛している。あなたが考えているよりも遥かに深く、わたしはあなたのそばに近くにいる。あなたの心配よりも遥か前から準備をして、あなたに素晴らしい大きな計画を成し遂げるのだ。」
そんな声が囁かれています。
私たちも、時として大混雑の中で生きている気がします。自分の場所を確保することしか考えない風潮、そしてその中で悪事を働こうと狙っている人々さえいる中です。イエス様が苦しまれたように、痛みや悲しみはあります。誠実を尽くしても二進(にっち)も三進(さっち)もいかない。物事が悪くなる一方で、最後には破綻(はたん)してしまう、そういうことだってある日常です。そのような中で傷つき、泣き叫びながらも、でもなお、主に愛されている者として、主の御心に従う民として生きることが出来るのでしょうか。喜びの歌を歌い始めることが出来るのでしょうか。
イエス様は、弟子たちが厳しい時代を迎えるに当たって、この「最後の晩餐」を死守されました。そして、今も私たちに「主の聖晩餐」(聖餐式)を通して、思い起こさせてくださるのです。主は、すべての必要を備えておられます。今も私たちの近くにいます。聖餐式が示す通り、私たちの毎日の食事、一緒に食事をすること、その食事の裏に沢山の人たちの配慮や準備や、動物の犠牲、作物の生育や収穫があること[8]。そうした全てを通して、主が私たちを養い、もてなし、受け入れ、喜んで下さること、ともに食卓を囲んで祝う交わりに、私たちを受け入れて下さることを、本当にリアルに、事実として教えてくださっています。この恵みに立ち返り続けることによって、私たちは、神の民として歩み続けるのです。戦いも誘惑もあります。私たちのプライドや自己中心とも生涯葛藤は続きます。心配もしますし、実際、病気や破綻、裏切りや痛ましい出来事は起きるのです。でも、それは私たちを脅かすものではありません。主がこの私たちを招き、すべてを備えて、今も永久にも、ともにいてくださるのですから。
「多くの雑音や目まぐるしい毎日、忙しい生活の中で、主の静かで力強い招きを聞かせてください。主を忘れて、怯え、心が彷徨ってしまう時、あちこちで囁かれているあなたの導きに気づけますように。日常に満ちている備え、恵み、励ましに気づかせて、今週も一人一人を支え励ましてください。その喜び、平安、愛をもって、地の塩、世の光として仕えさせてください」
[1] 「当時のエルサレム市の城壁は八百メートル四方ほどの狭い市街を包んでいたので、「二七〇万二〇〇人」もの巡礼者が殺到する過越祭り(ヨセフォス『ユダヤ戦役』六・九・三)の混雑は、大変なものであった。」榊原康夫『聖書講解 ルカの福音書』401頁。
[2] ここでペテロとヨハネが選ばれたのも偶然ではありません。二人は、ここ以外にも、八51で「ヤイロの娘のよみがえり」の時に、九28で「山上の変貌」に際して、ヤコブと共にイエス様から選ばれて、同行を命じられます(マタイ、マルコでは、ゲッセマネの祈りでもこの三人が選ばれてそばに置かれます。)。そして、「使徒の働き」では、ペテロとヨハネが初代教会の指導的な立場にいる二人として同行していることが、三1、11、四13、19、八14などに記されています。それを考えても、この時に二人が選ばれたのは、主イエスの栄光の証人として、弟子(使徒)の代表を務める欠かせない要素がこの晩餐の準備と、主の備えを体験することにあったからだと言えます。
[3] 出エジプト記一二章全体。特に、21~27節「そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。「あなたがたの家族のために羊を、ためらうことなく、取り、過越のいけにえとしてほふりなさい。ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。また、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、あなたがたはこの儀式を守りなさい。あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』」すると民はひざまずいて、礼拝した。」
[4] Ⅰコリント五7「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。」
[5] それがただ「重要」というだけでなく、「どんなに望んでいたことか」と言われる程の喜びになる意味を持っていたことは、ヨハネが「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」とあり、その続きで、弟子たちの足を自ら洗われた「洗足」の事実にも窺えます(ヨハネ一三章1節以下)。
[6] この二二44でも、「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」という思いで、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(42節)と祈られたとあります。
[7] 柔らかい小羊の肉と苦菜を、種なしパンでサンドイッチにして食べる、あの味を考えていたのかも知れません。昔のエジプトの国と同様、今自分たちを支配しているローマ帝国にも神の怒りが下ることを期待して、過越を祝うつもりだったかもしれません。
[8] そもそも、エデンの園で「善悪の知識の木」の実を食べることを禁じる(それ以外の木の実はすべて食べて良い)という命令を通して、主がアダムとエバに、御心を学ばせ成長させようとなさったのに始まって、「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」の祈りに至るまで、「食」はすべて、神が人間に与えられたメッセージです。Ⅰコリント十31「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」、参照、Ⅰテモテ四3-5、ローマ十四章。
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