2015/05/10 ウェストミンスター小教理問答48「いつも主が見ておられる」 詩篇十六篇8~9節
今年の初め、フランスで新聞社が襲われて、13人の方が亡くなるテロ事件がありました。イスラム教の開祖ムハンマドの漫画を描いたのですね。イスラム教にとっては、ムハンマドの顔を描くことは禁じられていて、冗談でもしてほしくないことです。テロは断じて許されませんが、人が嫌がることをして、困らせて楽しむことも決してしてはなりません。イスラム教徒にとっては、ムハンマドの顔は神聖な顔なのです。そして、私たちキリスト者にとっては、神様の顔が、この上なく神聖な顔です。
問 第一戒の「わが顔の前に」ということばによって、私たちは特に何を教えられますか。
答 第一戒の「わが顔の前に」というこのことばは私たちに、すべてのことを見ておられる神は、何かほかの神を持つという罪に特に目を留め、これを非常に不快に思われることを教えています。
第一戒で主は、「わたしの顔の前に、他の神々があってはならない」と仰いました。「わたしの他に神々があってはならない」とだけ言ってもよかったでしょうに、わざわざ、「わたしの顔の前に」と言われるのですね。でも、神の顔がどんな顔か、私たちは描いたりしません。ムハンマドは人間でしたから顔を見た人もいるのですけど、それを絵に描いたら礼拝することになるから、と描くことを禁じたのです。でも、聖書の神様は、人間ではありませんから、その顔を見ることは出来ません。もし、栄光の神様の顔を人間が観たら、太陽をまともに観る以上に耐えられなくて、死んでしまうでしょう。ですから、神の顔を私たちは見ることも描くことも説明することも出来ません。けれども、神は「わたしの顔の前に」と仰るのです。
神の御顔を見ることは出来ませんが、見えない神はいつもおられるのです。私たちは、いつも、見えない神の御顔の前に生きています。いつも、私たちはその神の御顔の前にあるのです。そして私たちは、神の御顔の前にあることをいつも覚えて、仕事をし、食べたり飲んだりし、勉強をし、生活し、ご飯を作り、運転をし、遊んだり、喧嘩をしたり、眠ったりするのです。いつ何をするにしても、そこに神がおられ、神がすべてを見ておられる。そういう神として私たちは神を告白し、またその神の顔の前に生きます。
詩篇十六8私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
こう言うのです。これが、キリスト教信仰です。特に、私たちはそのような意識を強調する教会の伝統に属しています。そして、その神様の顔は、聖なる御顔です。悪を憎み罪を見ておられ、同時に、弱い者を憐れみ、罪を悔い改めて悪を捨てるよう力強く憐れまれるのが、正しい神の眼差しです。ですから、私たちは、神の顔の前で、正しく、まっすぐに生きることを励まされます。喜びや希望、きよい思いを励まされます。
けれども、神様に喜ばれない罪の思いを持ったままでは、神の顔の前に生きることは居心地が悪すぎますね。神に見られないよう、隠れたくなります。本当の神は、いつでもどこにでもいらっしゃるのですよ。決して隠れることなど出来ない筈です。
詩篇一三九7…私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
8たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
それが神様です。神様から逃げることは誰にも出来ないほど大きなお方です。でも、聖書には、神様から隠れようとした人の話がたくさん出て来るんですね。アダムも、エデンの園で、食べてはならないと言われていた木の実を食べてしまった後、
創世記三8…神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
とあります。その息子カインが弟アベルを殺したときも、主から恵みをいただきながら、
創世記四16…カインは、主の[顔の]前から去って、…
しまいます。預言者のヨナは、神様の預言者で、ニネベに神様の言葉を伝えなさいと言われていながら、それは嫌だと逃げて行き、
ヨナ一3…主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、…
ました。
神の顔から逃れられるとか逃れたいと思うのは、人間が自分の心から神を追い出してしまった証しです。神ならぬものに心が支配されているから、そんなふうに考えるのです。毎日仏壇でお参りをする人が、夫婦喧嘩をするときに仏壇の扉を閉める、という話は笑えますが、それと同じように世界を作られたほどの偉大な神のことも考えてしまうのです。
教会では神が見ておられるけれど、普段は神のいない生活だと考えてしまいます。
日曜日だけが神の前での生活で、あとの月曜から土曜日は、仕事・遊び・勉強・お金・何をするにも、神抜きで考えるようなところがないでしょうか?
神は、そんな小さな神、隠れるほどの小さな顔の方ではありません。
…すべてのことを見ておられる神は、何かほかの神を持つという罪に特に目を留め、これを非常に不快に思われることを教えています。
神が全てのことを見ておられることを忘れ、神の顔の前にあることを忘れてしまう時は、人は神ではないものを神として生き始めた時でした。そのような私たちが、もう一度、神とともに歩み、神の顔の前で、生きるようになる。それが、私たちの救いです。
私たちが回復されるとは、神との関係が本来の関係に戻ることです。そのために、主イエス・キリストは来てくださいました。イエス様を見るときに、私たちは、イエス様が、どんなお顔だったか、イケメンだったか、髭はどんなだったか、と似顔絵を描けるように知るのではありません。そうではなく、イエス様の愛の顔、人を見つめ、小さい者を顧み、誰をも蔑まず、罪を憎まれて、悔い改めを語ってくださったことを知っています。そのイエス様の顔こそ、神の顔です。そして、イエス様は地上の最後で仰いました。
マタイ二八18見よ。わたしは、世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。…
イエスはいつも私たちとともにおられます。ですから、この方以外の何ものをも神として崇めたり恐れたり、それに縛られることは偶像崇拝です。神以外のものを恐れて振り回される生き方は不自由です。本当の神はもっと素晴らしく、恵みに満ち、私たちを愛して、助けて、私たちを通して、本当に価値あることをこの世に与えようとされるお方です。小さな私たちを通して、本当の神が働かれるのです。ですから、希望をもって歩みましょう。いつも、この神に祈り、頼り、知恵と力をいただきながら進みましょう。
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