聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問80-81「残る弱さも」Ⅰコリント11:26-32節

2017-08-06 20:17:28 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/8/6 ハ信仰問答80-81「残る弱さも」Ⅰコリント11:26-32節

 

 順番から言いますと、今日はハイデルベルグ信仰問答80です。しかし実は、問80は、ハイデルベルグ信仰問答が造られた真っ最中に、当時のカトリック教会との論争を色濃く反映しています。プロテスタントもカトリックも、お互いのミサ理解を否定します。ハイデルベルグ信仰問答問80では、ミサを

「呪われるべき偶像崇拝」

と口汚く非難します。本文の主旨は賛同しますが、それは既に他でも十分学んできた内容です。そして問題は、聖餐理解が正しいとしても、そこに来る人間の心が間違っていることがあります。その肝心な点を、今までも確認してきましたし次の問81で確認することにします。

問81 どのような人が主の食卓に来るべきですか。

答 自分の罪のゆえに自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死によってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ自分の生活が正されること切に求める人たちです。しかし、悔い改めない者や偽善者たちは「自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。

 「どのような人が主の食卓に来るべきですか。」この言葉は、明らかに先のⅠコリント11章にあった

「ふさわしくないままで」

「自分を吟味」

「みからだをわきまえないで」

といった言葉を意識しています。つまり、誰が聖餐に来る事が出来るか、という問題です。多くの方はこういう言葉を読むと、「自分は先月も大きな間違いをしてしまった。神の前に罪だと分かってやってしまった。そして自分の心には今も、そういう罪を求めている汚れがある。憎しみや残酷な思いが心にある。だから、自分は、聖餐に来るには相応しくないに違いない。そう考えてしまうことがよくあります。こんな自分が来ても、主は嫌悪されるんではないだろうか。本当は、主は天で、渋い顔をしておられるんではないだろうか。しかし、この81ではこう答えるのです。

答 自分の罪のゆえに自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死によってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ自分の生活が正されること切に求める人たちです。しかし、悔い改めない者や偽善者たちは「自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。

 自分の罪のゆえに自己を嫌悪する。つまり、私たち自身は罪があります。自己を嫌悪せずにおれない罪が行動や心にあります。自分で自分に愛想を尽かしたくなる。しかし、その私が

「キリストの苦難と死によってそれら(罪)が赦され」

ることを信じる。キリストは、私に愛想を尽かさず、私のために十字架の苦難を引き受け、死んでくださいました。それゆえに、私は受け入れられると信じて、主の食卓に行くのです。キリストは私たちを招いて、パンと杯に託して、私たちにご自分の命を受け取るよう、救いを受け入れるよう、強く命じます。それを私たちが、「自分のようなものは、ふさわしくないだろう」「もっとふさわしくなるよう、努力してから行こう」などと考えるのは、キリストの思いとは全く違うのです。病人が、もっと健康になったら医者に行こう、という勘違いです。自分ではどうしようもない罪のために、キリストは来られました。自己嫌悪するしかない私を、キリストは受け入れ、愛してくださいました。その最大級の表現が十字架であり、それを現す聖餐です。更にそれは「ここまでの罪は勘弁してやろう」でもありません。

「残る弱さも覆われることをなおも信じ」。

 私たちの中に、弱さは残っています。まだこれからも、失敗をするでしょう。自分が嫌になるでしょう。あるいは、赦された恵みの感謝を忘れたり、失敗して痛い思いをしたことに懲りたりせず、調子に乗って過ちを繰り返す。そういう弱さも残っているのです。しかし、そうした「残る弱さ」も覆って下さる。これからも色々な弱さを見せるとしても、イエスはずっと私から離れず、その弱さにも働いて下さる。そう信じるのです。

 しかし、かといってそれが甘えや現状容認になるかというと違うのです。

 …さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ自分の生活が正されること切に求める…

 罪は赦されるし、これからも弱さは覆われるのだからいいや、ではありません。やっぱり、罪に縛られた生き方より、自由になり、信仰も生活も成長する生き方こそ、切に求めるに値します。そして、イエスの恵みは、私たちをただ罪の罰から救い、神の子どもという身分を与えるだけのものなんかではありません。イエスは私たちを養い、私たちを恵みの中で生かして、イエスの命を与えてくださいます。ここが微妙ですね。

 私たちはただ、イエス・キリストの恵みによって罪を赦され、救われます。そして、私たちは恵みの中で、神の律法に従って歩んでいきます。ところが、私たちはそれを両極端に誤解しがちです。片方の極端は

「律法主義」

です。自分で律法に従う事で救われるし、頑張り続ける、と考えます。その反対は

「無律法主義」

です。恵みによって救われるのだから、律法なんかいらない、自由にして良い、という生き方です。それを見越して、「律法主義」には、救われるのは恵みだけれど、後は神の恵みもありつつ、自分で努力しないと行けない、と教えるタイプもあります。無律法主義になって怠けないよう、頑張って聖書を読みましょう、献金しましょう、奉仕をしましょう、そうでないと成長せず、誘惑に負けますよ。そういうプレッシャーをかけるのです。

 しかしそれは恵みを低く見過ぎています。キリストは私たちを愛しておられます。どんなに罪を犯そうと、どんな罪の可能性を秘める心の闇を持っていようと、私たちを愛され、御自身の命という犠牲さえ惜しまれませんでした。しかし、愛すればこそ、私たちを成長させ、罪に縛られていた生き方から、自由な生き方へ、そして、互いに愛し合い、神の愛に生きる共同体に入れてくださるのです。そして、律法的にではなく、恵みに押し出されて、成長させて、新しい生き方を与えてくださるのです。そしてこれを現すのが聖餐です。

 聖餐は、主イエスが私たちのために御自身の肉を裂かれ、血を流され、罪が赦されたことだけを覚えるのではありません。その主の恵みによって生かされ、変えられ、互いに分かち合い、ともに生かされることのエッセンスがあるのです。そのように私たちが成長すること自体がイエス・キリストの恵みなのです。

 聖餐は私たちが自分を吟味する機会です。パンを裂き、杯を分け合う聖餐に照らして、私たちはキリストの測り知れない恵みを覚えます。その恵みを本当に豊かに味わう事から、私たちが新しくされます。お互いに、

「残る弱さ」

がありながらも、律法主義の脅しやプレッシャーではなく、恵みによってともに歩みます。弱さを通して恵みを戴き、ますます感謝し、聖書の恵みの言葉によって養われ、祈る恵みを味わい、仕えて生きる喜びを知るようになります。

 主イエスが下さるのは罪の赦しだけでなく、キリスト御自身です。私たちを、ますます神の恵みに頼る生き方に成長させてくださる主イエスです。

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