2017/8/6 使徒の働き4章23-5章11節「神はだませません」
1.最初のほころび
「使徒の働き」の四章23節以下にあるように、信じた者の群れは心と思いを一つにして、持ち物を共有にしていて、助け合っていました。特に、バルナバと呼ばれたヨセフが自分の畑を売って、教会に捧げた、という喜ばしい出来事もありました。しかし五章、アナニヤとサッピラ夫妻が財産を売りながら、その
「ある部分」
だけをさも全額献金したかのように持ってきた。この偽善はアナニヤとサッピラとがその場で息絶えて死んで葬られるという結果になり、
11…教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
と結ばれます。ドキッとする出来事です。誤解しないでほしいのですが、決して当時は、洗礼を受けたら財産を全部差し出したわけではありません。それぞれが自主的に必要に応じて捧げ、乏しくて困る人がいないようにしていたのです。だからこそバルナバのささげ物は特筆されました。アナニヤとサッピラも売却した全額を持って来なかったと責められたのではありません。
4それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になった」
のです。彼は持ち物を売らなくても良かったし、売った後も自由にして良い。むしろ、持ち物を売って全額を献金して、今度は自分が教会のお世話にならなければならないというよりも、自分の生活はちゃんと面倒を見つつ、必要以上は捧げる、というほうが遙かに現実的で良いはずです。ただ8節にある通り「値段」は誤魔化していました。一部なのに全額持ってきたように見せかけました。人を欺けると思っていました。しかしペテロは4節で言います。
4あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
二人は、バルナバの献金を見て格好良いなぁと思ったのでしょうか。バルナバをみんなが誉めるので、「自分たちも持ち物を売り払えばバルナバに匹敵する尊敬を受けられる」と思ったのでしょう。しかしどこかで全額は惜しくなった。ならば正直に「全部でなく一部だけお捧げします」と言えば良かったのです。しかし、そういう真似はナゼか出来ませんでした。惜しみない献金をしたという評判も欲しかったし、代金を全部献金せず手元に残してもおきたかった。そこで彼らは、全部献金したことにしても分かるまい、虚栄心から嘘で名誉を買おうと行動したのです。しかし、この欺瞞をペテロは、いや神は小さな事とは思われなかったのです。
2.教会の自覚
この出来事は私たちに「教会とはどういう場所か」を改めて深く教えてくれているとつくづく思います。当時、弟子たちの中には貧しい人々も大勢いました。裕福な人は財産を捧げて、生活を支援した-それは良い事です。しかしその良い事が一人歩きして虚栄心をくすぐって、見せかけで献金をするアナニヤとサッピラのような行動が起きました。その最後に11節に
「教会全体と」
という言葉が出て来ます。実は「使徒の働き」で「教会(エクレシヤ)」と言う言葉が出て来るのはこの五章11節が初めてなのです。今までは「兄弟たち」[1]「信じた者の群れ」[2]とか「弟子」[3]「一同」[4]と言っていたのが、初めて「教会」となるのです。その理由はハッキリしませんが、私はここで生じた主への恐れが教会を教会とする自覚だと思うのです。人が増え、不思議が起こり、多くの献金で、社会貢献をしている。でも、そういう上辺の活動には見えない所で、心まで見られる神への恐れがない…自分を良く見せよう、さも惜しみなく仕えているように見られたい、という見栄で動いているなら、教会ではない。サタンは教会が「善人の集まり」で「生き生き活動し」「世間体」で満足して、その動機が自分たちの見栄や虚栄心であるような大教会などちっとも恐ろしくない。むしろそういう教会、外側で活動している裏で、自分たちの見栄や損得で動く、どこにもあるような集団にしたくて巧妙に働くのです。
ペテロがここで見せたのは一つの覚悟です。アナニヤとサッピラは全額と言っても疑われない程、相当額の献金を持ってきたはずです。細かい事は言わずに、そのまま有り難く受け取ることも出来たでしょう。また、折角得ていたよい評判も、こんなスキャンダルを公にすれば、台無しです。外からの迫害には耐えたのに、内側に偽善が入っていた、とは恥です。しかし、どんなに多額の献金、実際の慈善活動、教会が世間体に隠して、自分たちの偽善を伏せることはしませんでした。神の子イエスが十字架の苦しみと死さえ受けて、私たちを罪から救い出して神との関係を回復してくださった。それなのに、その主の痛みに私たちは鈍感になって、まだ自分が善人だと見られたい、そのために嘘をつき、神も騙せるかのように思う、そういう闇をまだ持つ私たちなのだ。活動や世間体や自己満足よりも、神の前にある。私たちの本心、実際、隠れた思いや行動も全てご存じで、決してだませないお方の前にある。自分たちの弱さ、闇を認めなければ教会は教会ではなくなっていく。そういう「覚悟」ではないでしょうか。
Ⅰヨハネ一5神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。
6もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。
3.欺けない神、という恵み
誤解されがちかと思いますが、決してここでは「神を欺くなら直ぐに罰せられて死ぬ」という教訓が人々を非常な恐れに陥れた、わけではありません。そんな恐怖の神なんて、恐ろしくて信じたくありません。アナニヤとサッピラだけではありません。虚栄心に駆られ、人から誉められたくてささげ物をしたり、秘かにお金を握りしめていた人は大勢いたのではないでしょうか。そういう人がみんな息絶えたのではありません[5]。今でも私たちは、全く見栄や虚栄心から自由でしょうか。嘘や言い訳がましさで、自分を善人に見せようとすることは、意識するとしないとに関わらず絶えずあるのです。しかし、それで罰せられないのは神も欺けるからでしょうか。「地獄の沙汰も金次第」、神の目も節穴なのでしょうか。いいえ違います。神は私たちの偽善も胡麻菓子も、本心も打算もご存じです。神を信じると言いながらあれこれ手放せない不安も、人に隠しておきたい軽蔑されるような実際の姿も、完全にご存じです。神は光であって、決して欺かれる方ではありません。しかしその私たちの罪を怒って罰し、滅ぼすのでなく、その私たちを憐れみ、主イエスは私たちのところに来て、ともにおられます。
イエスが見ているのは綺麗事で覆う私たちではなく、その下に隠れずにはおれない弱く揺れてしまう私たちです。その私たちを解放するため、十字架に架かられました。それなのに、私たちはまだ自分が善人だとか愛があるとか思われたいと、実際は物惜しみや執着心だらけなのに見栄だけ張ってしまう。アナニヤとサッピラも、ふと魔が差したけれども、その事に気づいた時、耐えきれず、堪らずに息絶えるほどの良心があったのかもしれません。しかしそのような私たちさえなお忍耐し、ともにおられて、深く取り扱ってくださる。
この神を知るとき、立派なキリスト者だと見られたいと取り繕って何かをするのでもないし、神の罰を恐れる恐怖心から持ち物を捧げるのでもなくなります。そういう私の渇きや疑いや打算など心の底までご存じで、なお恵みを注ぎ、ともにいて下さる主への恐れ、畏敬、恭しさ、恐れ多さこそ、教会の土台なのです。
やがて永遠の御国では主の光が全てを明らかにします。人の見かけ倒しや嘘は全て露わにされ、教会の裏話も周知されます。恥ずかしさや屈辱で息が止まるでしょうか。いいえ、その私たちを愛され、ともにおられた主の憐れみに圧倒されるでしょう。ありのまま一切の虚栄を捨てて、恵みの神を心から称えるのです。恥ではなく至福です。私たちはそこへ向かっています。神を恐れ、背伸びのない正直な者にされながら、心から分かち合う教会としてくださるのです。
「光である主よ。あなたを告白し、頭で理解しているつもりで、お金や人の声やプライドでバラバラになってしまう私たちです。人を欺き、それが主を欺くことだと気づいてもまだ平気な私たちが、本当に虚栄を捨て、謙虚になり、十字架の主の憐れみに根差して、恐れつつ歩めますように。正直に、私たちのあるがままを差し出して、ともに歩む教会とならせてください」
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