聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/4/2 マルコの福音書15章21~39節、イザヤ書53章「十字架のイエス」

2021-04-02 16:40:47 | 説教
2021/4/2 マルコの福音書15章21~39節、イザヤ書53章「十字架のイエス」

 神の子キリストは、今から二千年ほど前、人として生涯を過ごし、最後に残酷な十字架刑に処せられて、三日目に甦り、今も生きておられます。この告白を、世界が味わう受難日です。
 この十字架の苦しみは、両方の手首と、足を太い釘で打ち付けて磔にして、致命傷を与えないまま、気が狂うほどの激痛の中に放置する、という酷い苦しみです。その惨たらしさから、当時のローマ市民は十字架刑を免除されて、話題にすることもタブーとされていました。一方、ローマへの反逆者とされた人は、冤罪(えんざい)であっても十字架につけられて見せしめのさらし者にされて、道路の脇に見かけることは少なくなかったようです。当時のローマ帝国に住む人にとって十字架刑はかなり身近な恐怖でもありました。ですから、ここでも十字架がどれほど苦しいものか、という描写や説明はほとんどしていません。それを言うことは必要なかったし、また、説明しきれるものではない、想像を絶する苦痛だったのです。ただ、23節に短く、
「没薬を混ぜたぶどう酒」
という、一寸とした痛み止めをもお受けにならなかったことが書かれています。イエスが、十字架のあらゆる苦しみを漏らさず、逃げることなく飲み干そうとなさったことが分かります。そして、その後はイエスご自身の事は何も伝えられないまま、34節で、
34そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 十字架の想像を絶する苦しみでさえ、お受けになったイエスが、こう叫ばずにはおれないことが起きました。父なる神に見捨てられるという、十字架の苦痛以上の、神との関係の苦痛を、イエスはこの十字架の上で味わわれたのです。そして、主イエスがここで神に見捨てられる体験をなさったゆえに、私たちが神に見捨てられることは決してなくなったのです。
 こうしたイエスの姿へは言葉少ななのに対して、周囲の人間たちは饒舌です。イエスを罵って
「十字架から降りてきて、自分を救ってみろ」
と、通行人たちも、祭司長や律法学者も、両脇で十字架につけられた人たちも嘲ります。
「わが神、わが神、どうして」
という叫びを聞いても、そばに立っていた人たちは誤解をして、酸っぱい葡萄酒、喉を焼き付かせるような物でまだ死なせまいとしたのです。周囲の人たちは、苦しむイエスが「救い主だ」とは思わず、せめて「この人は冤罪だ」とさえ思わなかったのです。人々はイエスを理解できませんでした。
 受難週に必ず読まれる聖句の一つ、イザヤ書53章は預言していました。
イザヤ書五三1誰が信じたか。…だれに現れたか。…彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
 まさに、この預言の通り、十字架の周りの人はイエスを蔑み、顔を背けたのです。
 4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
 「あれほど酷い目に遭っているのは、きっと神に罰せられ打たれ、神に苦しめられているとしか思えない」。そう思う、というのです。そういう考えでは到底理解できない事を、神はなさるお方である。そうイザヤが預言したとおり、イエス・キリストは、苦しみと辱めの十字架にかかり、人々から全く理解されませんでした。しかし、その十字架の死の直後、
39イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」
 この、惨めに十字架にかかり、苦しんで、しかし誰をも恨まず、罵らず、ただ、神に悲しみと疑いを叫んで死んだ方を、負け犬や可哀想な愚か者ではなく、神の子だと告白する、驚くべき言葉です。しかも、この処刑を執行した、権力者の側の百人隊長がです。言わばこれは、この世界の権力者、人間の冷たく、見当違いな正義感の敗北宣言・降伏宣言です。
 5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
 私たちこそ、癒やしが必要なけが人、病人、罪人です。イエスが刺され、砕かれたのは、私たちのためでした。イエスは、私たちの持っている闇をご存じです。私たちの愛のなさ、恐れをすべてご存じです。その私たちの深い罪を、赦すだけでなく、癒やして回復させるために、神の子イエスが人となり、完膚なきまでに苦しみにご自分を献げて下さいました。そのイエスこそ、神の子である、この世界を治めるお方です。人間に仕えて、苦しみの局地も味わって、私たちの病も悲しみも知っているイエスこそ、神の子です。
 イエスの苦しみが神の子の究極の愛であることさえ分からない世界で、この方こそ神の子である、この方だけが私たちを癒やされるという告白を今私たちも与えられます。自分の罪や重荷などどんな問題も、恥じたり隠したりせずに主に告白して、赦しと回復をいただきましょう。そして、この私たちのために、主が十字架の死を遂げてくださった愛を、深く味わいましょう。そしてそれが死で終わらず、復活に続いたという希望に、私たち自身も、すべての人も、ともに生かされていくことが出来ますようにと願う、新しい心を戴きましょう。

「神の子イエス様。あなたの道は、人の思い描く道とは真逆でした。あなたが、十字架の死を通して、私たちに赦しと新しいいのちを下さった恵みを感謝します。今なお、人を裁き、コロナ禍という苦しみでも、責めたり罰したりする言葉を発する、病んだ社会です。どうぞ、私たちの罪や歪んだ正しさを、十字架の主の姿を通して照らしてください。あなたを救い主として賛美するだけでなく、あなたの恵みの光の中ですべてを見ていく者として新しくしてください」
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