[1] ガリラヤにいた時の予告としては、9章22節(そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。)と同44節(「あなたがたは、これらのことばを自分の耳に入れておきなさい。人の子は、人々の手に渡されようとしています。」)の二つが当てはまります。ルカではもう1カ所、18章31~33節(さて、イエスは十二人をそばに呼んで、彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。32人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。33彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」)も受難予告ですが、これはガリラヤではなくエリコ目前での言葉です。
[2] 23節「自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた」。
[3] そう決まっているからと渋々諦めて、十字架の死と復活を語っていたのではありません。
[4] 「必ずデイ」 ルカで18回(福音書の中では最多です。マタイ8、マルコ5、ヨハネ10。)2:49(すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」)、4:43(しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」)、9:22(そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。)、11:42(だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。)、12:12(言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」)、13:14(すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」)、16(この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」)、33(しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。』)、15:32(だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」)、17:25(しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。)、18:1(いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。)、19:5(イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」)、21:9(戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」)、22:7(過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。)、37(あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」)、24:7(人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」)、26(キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」)、44(そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」)
[5] 使徒の働き1:16(「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。)、22(すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」)、3:21(このイエスは、神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。)、4:12(この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」)、5:29(しかし、ペテロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。)、9:6(立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」)、16(彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」)、14:22(弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語った。)、15:5(ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。)、16:30(そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。)、17:3(そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。)、19:21(これらのことがあった後、パウロは御霊に示され、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言った。)、36(これらのことは否定できないことですから、皆さんは静かにして、決して無謀なことをしてはなりません。)、20:35(このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」)、23:11(その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。)、24:19(ただ、アジアから来たユダヤ人が数人いました。もしその人たちに、私に対して何か非難したいことがあるなら、彼らが閣下の前に来て訴えるべきだったのです。)、25:10 すると、パウロは言った。「私はカエサルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。閣下もよくご存じのとおり、私はユダヤ人たちに何も悪いことをしていません。)、24(フェストゥスは言った。「アグリッパ王、ならびにご列席の皆さん、この者をご覧ください。多くのユダヤ人たちがみな、エルサレムでもここでも、もはや生かしておくべきではないと叫び、私に訴えてきたのは、この者です。)、26:9(実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。)、27:21(長い間、だれも食べていなかったが、そのときパウロは彼らの中に立って言った。「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて[直訳:聞き入れるべきだった]、クレタから船出しないでいたら、こんな危害や損失を被らなくてすんだのです。)、27:24(こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』)、26(私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」)
[6] ルカ13章15節。
[7] ルカ15章32節。
[8] ルカ19章5節。
[9] 「使徒」は、ルカで6回出て来ますが、マタイ、マルコは1回ずつ。「使徒の働き」に繋がる、教会の歴史として、ルカは最初から「弟子」たちを(将来の)使徒と呼んでいます。6:13、9:10、11:49、17:5、22:14、24:10(24:11は意訳)。しかし、その使徒が最初の復活の知らせを信じず、最初の証人は女たち(当時、女性は証人として認められませんでした。)であった事実は、スキャンダルであり、教会を謙虚にならせる記述です。
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