2014/12/28 ルカ20章19~26節「神のものは神に」
先週はクリスマス礼拝で、ルカの二章の冒頭から、皇帝アウグストゥスの勅令の中で、イエス・キリストが、お生まれになった出来事が起きたことからお話ししました。ローマ帝国を支配している皇帝(カイザル)と、飼葉桶にお生まれになったイエス様とは、喩えようもないような違いがありますが、しかしその飼葉桶こそ世界の主なる神の御業であり、この世の権力に対する挑戦があるのです。今日の「デナリ銀貨」にカイザルの肖像と銘が刻まれていたとあります。当時の日当として出回っていたデナリ銀貨には、「神なるアウグストゥスの子、ティベリウス、カイザル・アウグスト」と刻印され、裏には女神の姿に描かれた王母リビア像と「大祭司」の銘がありました[1]。皇帝は神の子を自称し、その母は大祭司と呼ばれている、そういう時代でした。
ユダヤ人たちは、そのような状況の中で生きていました。ただ税金を納めるのが嫌だ、というだけの子どもじみた不満ではありません。異教徒のローマ帝国に税金を払わなければならないという屈辱がありました。彼らにとっては、像を彫ることは偶像崇拝でしたし、大祭司や神を名乗ることも、とんでもない冒涜でしかありません。そういう罪を平気で堂々とやってのけるローマの皇帝に、税金を納めなければならない現実は、大変な問題であったのです。
しかし、この質問は、真剣に答を求めたからではありません。イエス様の言葉尻を捉えようとしたからに過ぎません。税金を納める必要はない、と言わせる事が出来れば、ローマ総督に「このナザレのイエスは、納税の拒否を唆している」と突き出すことが出来ます。逆に、「税金を納めることは良い」と答が返ってきたら、ローマを憎み、重税に喘いでいる民衆はイエス様に失望しきることでしょう。どちらに答えても窮地に陥ることになります。そういう難問を仕掛けて、律法学者、祭司長たちは、イエス様を追い詰めようとしたのです[2]。
これに対するイエス様の答が、カイザルの銘が刻まれたデナリ銀貨を示しての25節でした。
25すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
26彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。
難問で追い詰めたつもりの彼らは返す言葉が見つかりませんでした。イエス様のお言葉は、いくらローマが憎いと言っても、使っている貨幣がカイザルのものである以上、自分たちがローマ帝国の恩恵に肖(あやか)って生活している事実を浮き上がらせました。税金を納めることを拒否する権利があるかどうかを論ずる以前に、返すべきもの、相手のものであるという原則が示されました。しかし、何でもカイザルに従う、というのでもありません。カイザルのものはカイザルに、ですが、カイザルのものではないものは返さなくてよいのです。それ以上に、「神のものは神に」という、もっと大きな原理があります。神のものはカイザルに渡す必要はありませんから、偶像崇拝まで容認されたのではありません。いいえ、もっと言えば、カイザルもまた、神の大きな御支配の中に含まれているものだと位置づけられています。カイザルのものと神のもの、その二つを綺麗に色分けすることなど出来ません。全ては神様のものです。この答によって、イエス様は、非の打ち所のない答を示されました。
勿論、彼らが返答に窮したのは、彼らの目的がイエス様の揚げ足を取ることにあったからです。結果としては、彼らはこの答を聞いてもまだ心を開くことをせず、ますます頑固になってしまうのです[3]。だからといって、そうやって相手を黙らせること、律法学者たちとの論争に勝つことがイエス様の目的ではなかったのですね。言い負かしてしまうために、上手い答をなさった、ということではありませんし、私たちもまた、イエス様のお答えに感心して終わってはなりません。この言葉に従って歩むことこそ、イエス様の願いであります。
最初に申しましたように、イエス様はカイザルの勅令が世界を動かす時代にお生まれになりました。この時も、人々はカイザルに税金を納め、カイザルの像が刻まれたコインを使って生活していました。そういう中で、カイザルのものはカイザルに返し、神のものは神に返す、という言葉は、本当に彼らの生活そのものに与えられた言葉でした。ルカが、この福音書に続けて記す「使徒の働き」では、パウロがユダヤからローマ帝国に出て宣教をしていく中で、「カイザル」という言葉がもっと頻繁に出て来ます[4]。教会の歩みにおいて、国家との関わりをどうしていくか、緊張も出て来るのです。そこでの原則は、イエス様が示されている通りです。
…カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。
キリスト者は無政府主義者ではありませんし、信者ではない政治家に対しても相当な敬意を払い、為政者のために祈り祝福するように言われています。税金を納め、国民としての義務を果たすことにやぶさかであってはなりません。為政者は、神が立てられた権威だ、という視点があるからです[5]。しかし、では権力や上司を何でも神の代弁者として崇めて従うかというとそうではありません。権力が、神のように道を外して、服従や礼拝を求めたり、正義に反して命を踏みにじったりする時、言い換えれば、「神のもの」まで要求してくる時には、従うのではなく抵抗するのです。そして、そのように、国家の権力が間違いうることを見抜いている故に、キリスト者が「非国民」と非難されることもある。実際、ここでイエス様は、納税を禁じたわけではないのに、この数日後に捕まって、ローマ総督ピラトの下に連れて行かれた時、
二三2…「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」[6]
という罪状で訴えられます。いいえ、イエス様の宣教の最初、荒野の誘惑においても、国々の権力を見させられながら、サタンは自分に平伏すことを要求しました。イエス様は、神である主だけを拝み、主にだけ仕える、と答えられて、この誘惑の厳しさ、大きさを示されていました[7]。実際、初代教会の多くの人々が、皇帝礼拝を拒否したことで殉教するのです。礼拝は、人や国家に返すべきものでは決してなく、ただ神にのみ返すものなのです。
この国や世界が、これからどう変わっていくのかは分かりません。権力はいつも、正しい振りをした巧妙な手段を使って、民衆を支配しよう、従わせようとするでしょう。他にも色々な場面で、私たちは恐れ、膝をかがめそうになります。しかし、イエス様の言葉は教えています。国家のものは国家に、神のものは神に返すべきだというだけではない。主は私たちに、神のものは、国家や何かが求めようとも、ただ神に返す歩みを下さる。私たちの生活において、神ならぬものを神とすることから解放してくださることも、神の、私たちに対する御心なのです。
世界を治めたもう神は、私たちにとってただひとり信頼すべきお方です。この方への恐れを忘れて、嘘や企みを抱えて、権力の座に着いている世界に、イエス様はおいでになりました。この主が私たちに、ご自身への深い信頼と、神ならぬものを恐れない勇気とを下さるのです。
「主よ。この一年の歩みも、あなた様は一切を支配し、私たちを慰め、あらゆる苦難や罪さえも、益となるよう導いておられます。そう心から信じる幸いを、感謝いたします。私たちの見える所や思いを遥かに超えて大きな主の御手を仰ぐゆえに、あなた様以外のものを恐れ崇める誘惑から救い出してください。そのようにして、本当の王なるあなた様を証しさせてください」
[1] 山中雄一郎『ルカ福音書瞑想 下』聖恵授産所出版部、168ページ。
[2] そういう彼らの本心は、前回の喩えで言われていたように、主人からあずかったものを返そうとせず、横取りしようという態度でした。ですから、今日の箇所の「神のもの」とは、直接的には、前回の「ぶどう園の収穫の分け前」に当たります。一般的に「すべてのものは神のもの」ですが、ここでは特に、指導者たちが神の民を自分たちのものとしてしまおうとしていることを非難されているのです。
[3] 20節の「引き渡そう」は、九44、十八32など、今まで繰り返されてきた「人の子は異邦人に渡され」への第一歩です。予告されてきたことが、いよいよここで、祭司長たちの実行に移されだしました。そして、次は二二4、6です。
[4] マタイでは2回、マルコでは3回、ヨハネは2回なのに対して、ルカは福音書で6回、「使徒の働き」では9回、この言葉を使用しています。「使徒の働き」も、十七7、二五8、10、11、12、21、二六32、二七24、二八19、と後半に集中しています。
[5] ローマ十三1「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。2したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。…」など。
[6] このほか、ルカでは、二1、三1でカイザルが登場します。
[7] ルカ四5-8、参照。
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