聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/2/7 マタイ伝16章13~20節「この岩の上に」

2021-02-06 12:38:33 | マタイの福音書講解
2021/2/7 マタイ伝16章13~20節「この岩の上に」

前奏
招詞  イザヤ書57章15、18節
祈祷
賛美  讃美歌8「聖き御使いよ」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交読  詩篇100篇(24)
賛美  讃美歌191「いとも尊き」①②
聖書  マタイの福音書16章13~20節
説教  「イエスという岩の上に」古川和男牧師
賛美  讃美歌194「栄えに満ちたる」
献金
感謝祈祷
 報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌542「世を挙りて」
*祝祷
*後奏

 今日の舞台のピリポ・カイサリアは、現在イスラエルの北にある、滝や泉がある自然豊かな観光地です[1]。町の名前も、ヘロデ大王の息子ピリピが皇帝カイザルに献上したからで、それに相応しい絶景の地。美しい景勝地でした。
 マタイの福音書の流れで言えば、主イエスの旅が最もエルサレムから遠い場所に来られて、この後17章の後半からエルサレムでの十字架に向かって下っていく、その折り返しのクライマックスでもあります。その時に、イエスと弟子が、
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」…「あなたは生ける神の子キリストです。」
という会話をします。ここに、この福音書の旅も、山場・峠を迎えたのです。
 他の人々は、イエスのことを
「洗礼者ヨハネだ」
「(預言者)エリヤだ」
「エレミヤだ」
「他の預言者だ」
と言っていました。イエスの先、旧約聖書の時代から神は多くの預言者を遣わして、やがて私たちを救い、治めてくださる王(メシア、キリスト)を遣わす約束を語り、その方を迎えるに相応しい生き方をするよう命じました。イエスがおいでになった時、人々はイエスが神から遣わされた特別な方だと思いつつ、約束の王その方本人とは思いませんでした。メシアはもっと高貴な方、強く、威厳のある方、疑いの余地のない方だと思ったのです。けれどもイエスのそばにいた弟子たちは
「あなたは生ける神の子キリストです」
と告白したのです。
 イエスがキリスト、神から送られた王だという告白は、このマタイ福音書一章一節からの主題です[2]。この福音書の、そして新約聖書、聖書全体の中心がこの告白です。それが、ここで遂に告白されました。私たちとともにいて、神を父として信頼しきり、どんな人にも分け隔て無く関わり、こんな辺鄙な地にまで連れて来た「あなたは神の子キリストです」と。直前まで弟子たちはイエスに呆れられるほど鈍感でした。今まで弟子たちのしてきたことは何をやってもとんちんかんでした。弟子の言葉がイエスに認められたのはここが初めてです。ですから、
17すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
 「血肉」は欄外に「人間」という別訳があります。シモン自身の人間性とか、父ヨナの子として受け継いだ血のおかげではない。天にいます父、イエスの父が明らかにして、ペテロに授けられた告白です。イエスは天の父の子としていつも歩んでいました。洗礼の時は天から、
「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」[3]
と言われました。その父が、今シモンにもイエスをキリストと告白させてくださいました。私たちもそうです。私たちがイエスをキリストと告白するようになったのは、私たちが立派だからとか優秀だからではありませんね。天の父なる神の不思議な働きかけによることです。
18そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。
 ペテロとは石、イエスがシモンにつけた渾(あだ)名(な)です。頑固さ、鈍さ、良くも悪くもペテロらしさです。それに続く「岩(ペトラ)」は大きな巨石です[4]。それは天の父が小さなペテロに与えて下さった分不相応な告白です。イエスはキリストと告白する上に、イエスはご自身の教会、神の民の集まりを建てる[5]。それは、よみ(死者の世界)の門、死の力も打ち勝てない、主の民です。
19わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。
 この「鍵」とは閂のことだともされます[6]。つなぐ解く、開ける閉めるを大胆に現すイメージです。イエスの教会は、よみも天の御国の門も開き、今ここで神の国の民としての歩みを与えるのです[7]。しかし、ペテロや教会に絶対的な権力が与えられたわけではありません。直後21節以下、ペテロはイエスの十字架予告を否定して
「下がれ、サタン」
と厳しく窘められてしまいます。ペテロも教会も様々な間違いを犯してきました。イエスを否定するような考えがまだまだ染みついていたり、イエスの恵み以外のものにしがみつこうとしたりする私たちです。ただ、神によって私たちはイエスを告白し、天の御国が今ここで始まっているとさえ言えるのです。イエスの言葉に教えられ、間違っては育てられ、主の憐れみに与りながら、教会として歩ませていただけるのです。この告白は天の父からの贈り物。その上に主イエスご自身が教会を建てます。そこにペテロも、私たちも、加えられ、神の教会として歩んでいるのです。

 ピリポ・カイサリアはエルサレムから遠く離れた町でした。皇帝が崇められ、異教の神話があった町です。ここで弟子たちはイエスを告白するだけでなく異邦人も見たでしょうし、偶像の神殿も見たでしょう。そしてその絶景、豊かな水源の美しい景色に目を見張ったでしょう。それはヨルダン川の源流の一つでした[8]。泉から湧き出た小川は曲がりくねり、滝になり、やがて他の川とともにヨルダン川に流れ、遂にエルサレムに届いたのです。
 私たちがイエスを告白したのが、神から遠い所やどんな所であっても、それは天の父が授けた始まりです。その後の歩みで流れを変えたり落ちたり、最初には考えもしなかった所に連れて来られ、別の流れと出会う。その導かれた場所々々で、ともに「あなたは生ける神の子キリストです」と主に立ち返り続けるのが教会です。この教会の主も、他の誰でもなく主イエスです。
 欠けだらけのペテロを愛し、最初の告白を与えて教会を建て、今も私たちを加えてそれを続けておられるのです。

「主イエス・キリストの父なる神よ。あなたは御子を喜び愛するだけでなく、その告白を私たちにも与えて、主を歌う流れに入れてくださいました。イエスが主、救い主、王でいてくださることに教会の土台があり、私たちの立ち戻る揺るぎない礎があります。あなたが私たちを支えてくださいます。遠い、回り道のような旅に戸惑い、恐れる時も、お支えください。よみの門より強く、天の御国も開かせる主イエスの教会として、今もここで主を告白させてください」


文末脚注


[1] 現在のイスラエルではパニアスが正式名称ですが、観光のためカエサレア・ピリピでも検索できます。イスラエルの観光サイトでは、ラフティングの様子が真っ先に紹介されています。https://israel.travel/upper-galilee/

[2] キリスト 1:1以来のマタイの主題。16回。1:1「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」、16「ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。17 それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」、2:4「王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」、11:2「さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じて」、16:16「シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」」、16:20「そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。」、22:42「「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」43イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、」、45「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」、23:10「また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。」、24:5「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。」、24:23「そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。24 偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。」、24:26「ですから、たとえだれかが『見よ、キリストは荒野にいる』と言っても、出て行ってはいけません。『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはいけません。」、26:63「しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」」、68「「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。」、27:17「それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」

[3] マタイの福音書3章16節。

[4] 欄外に「ペトラ」とあります。語呂遊びでありつつ、「岩」とは旧約聖書に多出する主のモチーフです。創世記49:24(…ヤコブの力強き方の手から、そこから、イスラエルの岩である牧者が出る。)、申命記32:4(主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。…)、Ⅰサムエル記2:2(主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。)、Ⅱサムエル記22:3(身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。)、32(主のほかに、だれが神でしょうか。私たちの神のほかに、だれが岩でしょうか。)、47(主は生きておられる。ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神。)、23:3(イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。『義をもって人を治める者、神を恐れて治める者。)、詩篇18:2(主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。わが盾 わが救いの角 わがやぐら。)、31(主のほかに だれが神でしょうか。私たちの神を除いて だれが岩でしょうか。)、46(主は生きておられる。ほむべきかな わが岩。あがむべきかな わが救いの神。)、19:14(私の口のことばと 私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。主よ わが岩 わが贖い主よ。)、27:5(それは 主が 苦しみの日に私を隠れ場に隠し その幕屋のひそかな所に私をかくまい 岩の上に私を上げてくださるからだ。)、28:1(主よ 私はあなたを呼び求めます。わが岩よ どうか私に耳を閉ざさないでください。私に沈黙しないでください。私が 穴に下る者どもと同じにされないように。)、31:2(私に耳を傾け 急いで私を救い出してください。私の力の岩となり 強い砦となって 救ってください。)、61:2(私の心が衰え果てるとき 私は地の果てから あなたを呼び求めます。どうか 及びがたいほど高い岩の上に 私を導いてください。2 神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。私は決して揺るがされない。)、62:6(神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。私は揺るがされることがない。7 私の救いと栄光は ただ神にある。私の力の岩と避け所は 神のうちにある。)、71:3(私の避け所の岩となってください。いつでもそこに入れるように。あなたは私の救いを定められました。あなたは私の巌 私の砦なのです。)、73:26(この身も心も尽き果てるでしょう。しかし 神は私の心の岩 とこしえに 私が受ける割り当ての地。)、78:15(荒野で 神は岩を割り 大いなる深淵の水を 豊かに飲ませてくださった。16 あふれる流れを 岩からほとばしらせ 水を 豊かな川のように流れさせてくださった。)、78:20(確かに 神が岩を打たれると 水が湧き出て 流れがあふれた。だが神は パンも与えることができるのか。民のために 肉を用意できるのか。」)、78:35(彼らは思い出した。神が自分たちの岩であり いと高き神が自分たちを贖う方であることを。)、81:16(しかし主は 最良の小麦を御民に食べさせる。わたしは岩から滴る蜜で あなたを満ち足らせる。」)、89:26(彼は わたしを呼ぶ。『あなたはわが父 わが神 わが救いの岩』と。)、92:15(こうして告げます。「主は正しい方。わが岩。主には偽りがありません。」)、94:22(しかし主は私の砦となり 私の神は 私の避け所の岩となられました。)、95:1(さあ 主に向かって 喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって 喜び叫ぼう。)、104:18(高い山は野やぎのため 岩は岩だぬきの隠れ場。)、105:41(主が岩を開かれると 水がほとばしり 川となって砂漠を流れた。)、114:8(神は 岩を水の潤う沢に変えられた。硬い岩を 水のあふれる泉に。)、137:9(幸いなことよ おまえの幼子たちを捕らえ 岩に打ちつける人は。)、141:6(彼らのさばき人たちが 岩の傍らに投げ落とされるとき 彼らは私のことばが どんなに優しいものだったかを知るでしょう。)、144:1(わが岩なる主が ほめたたえられますように。戦いのために私の手を 戦のために私の指を鍛えられる方が。)、イザヤ書17:10(あなたが救いの神を忘れ、あなたの力の岩を覚えていなかったからだ。それゆえ、あなたが好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさしても、)、26:4(いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。)。

  また、当然、マタイの福音書では7章の「岩の上に家を建てる」たとえが思い起こされるでしょう。7:24(ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。25雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。)

[5] 「教会」というのも福音書ではこことマタイの18章17節にしか出てこない言葉で、建物のことではなく、集会、集まりのことです。ギリシャ語エクレシアは、旧約聖書のギリシャ語訳では、ヘブル語カーハルの訳語として、申命記31章30節(32章1節)、ヨシュア記8章35節(9章8節)、士師記21章8節、Ⅰ歴代誌29章1節に用いられます。

[6] 加藤常昭『マタイによる福音書 3』

[7] この場合の「天の御国」も、「天国」いわゆる、「死後に救われていく幸福の場所」ではなく、天の父が王として治めたもう王国のこと。つまり、ここまでも語られてきた、イエスの福音の一員であることです。

[8] ヨルダン川の源流 バニアス http://hashim.travel.coocan.jp/israel/israel019.htm


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