聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/2/13 マタイ伝27章27~44節「裸の王さま」

2022-02-12 11:45:31 | マタイの福音書講解
2022/2/13 マタイ伝27章27~44節「裸の王さま」

 説教題を「裸の王さま」としました。よく知られたお話は、「愚か者には見えない服」を着たフリをしてしまう笑い話です。今読みましたマタイ27章27~44節では何度もイエスが「王」と呼ばれます[1]。最初、総督の兵士たち全部隊(六百人)が服を脱がせたり着せたりして、イエスを

「ユダヤ人の王様、万歳」

とからかい、最後は裸にして十字架に磔ました[2]。十字架の多くの絵は気が引けてどうにか腰を覆いますが、実際は「裸の王様」とされたイエスでした。

  1. からかい、嘲り、罵る人々
28…緋色のマントを着せて、…茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。[3]

 兵士たちは、「ユダヤ人の王と自称している」と訴えられて十字架に決まったイエスを、王様ごっこで辱めます。鞭で打たれた後、服を脱がされ、またマントを着せる、棘の食い込む茨の冠、唾を掛け、葦の棒で頭を茨の冠の上から何度も叩いて、またマントを脱がせて、元の衣を着せ…。こうした拷問も決して見過ごしには出来ません。しかしそのイエスの苦しみ以上に、それを与える周りの人間たちの罵り、イエスの姿を嘲るほか無かった人間たちが伝えられます。

32兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。

 十字架の横木を背負わせて刑場まで行くのは十字架刑の常でしたが、イエスはその横木を運べないほど憔悴していたのでしょう。兵士たちから、十字架を担えないほど情けないと思われたイエス。そしてそれを背負わされたシモンは、北アフリカの町クレネの人、恐らく黒人と思われています[4]。黒人だから、兵士たちに目をつけられて、十字架を無理やり負わされたのかもしれません。逆に、イエスが十字架を負うことも出来ないほど弱って、黒人に助けられている情けない姿だ、とこれまた一層、イエスへの嘲り、からかいに拍車がかかったでしょう[5]。



 その先に到着したゴルゴタの丘での肝心な十字架も、ともすれば読み飛ばすぐらいサラッと、

35彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。

と、兵士や通りすがりの人たちの行動をメインに伝えます。祭司長たち、両脇の強盗たち、周りの人々が罵り、「王だなんて」と笑った。しかしそのイエスこそ王だと伝えているのです。

2.イエスが王であるとは?

 マタイの福音書のテーマは「王であるイエス」です。ダビデ王の系図から始め、東方の博士たちが「ユダヤ人の王はどこにおられますか」とやって来た最初から、イエスを王としていました。その王がどういう王かというと、低くなり、疲れた人、重荷を負っている人に近づき、仕える王。最も謙って、そのために卑しめられる事も厭わない王。誰も王だとは思わず、からかわれ、嘲られた王。その局地が、この十字架につけられた「王」という今日の箇所です。使徒パウロはこの事を言います。

…私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24…召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。[6]

と言っています。これは
 「十字架につけられてしまった
あるいは
「十字架につけられたままのキリスト」
というニュアンスです[7]。確かにその日の内にイエスの亡骸は十字架から下ろされて、三日目に復活されて、今は神の右に座しておられます。でも、それは十字架につけられたキリストでもあるのです[8]。またこの箇所の「くじ引き」「神のお気に入り」などの欄外に詩篇22篇やイザヤ書53章が言及される通り、多数の旧約の言葉が下敷きにあります。これこそ神が旧約の昔から語っていた救いです[9]。その一つ、イザヤ書53章では、こう言います。

イザヤ書五三5しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

 イエスが人間社会の最も低い十字架に、傷つき、嘲られ、裸にされたこと。差別される黒人に助けられ、犯罪者の間に立たれたこと。それが、私たちの傷、罵り、冷酷さを癒やすのです。キリストが十字架につけられた。それは、イエスがどんな王か、私たちが宣べ伝えられ、宣べ伝えているのはどんな救い主なのかを現しています。それは私たちのために痛みを引き受け、罪のために悩み、この世界を背負って、苦しみも裸も厭われない王なのです。

3.十字架につけられたままの王

 十字架を見ていた人々は「こんな王などいない。もし神の子キリストなら自分を救ってみろ」と笑いました[10]。けれどももしイエスがここで神の力によって十字架から降りたとしたら、信じたのでしょうか。恐れおののいてひれ伏してイエスを認めたかもしれません。でもそれは、イエスが求める信仰ではありませんでした。力を見せつけたら信じる、そんな誘いをイエスは最初から誘惑として退けておられました[11]。イエスは罪に病んでいる世界のために心を引き裂かれて人となり、最悪の扱いをご自身の痛みとされました。十字架の激痛も、人間性を踏みにじる嘲りも、無防備に受け止められました。
 お話しの「裸の王様」はありもしない服を着ているふりをして笑われましたが、イエスはすべての栄光を人間のために惜しまず脱ぎ捨て、罪に病み、苦しむ世界で十字架にかけられてくださいました。
 「神の子の力があれば、こんな苦難から自分を救うのが当然」ではなく「誰であってもどんな人間でも、こんな扱いを受けていい人はいない」のです。神が作られた人間を、人間が貶め、嘲り、苦しめて笑ったり鬱憤を晴らしたつもりになる、そのあり方そのものが罪です。それは本当に私たちの心を痛めつけ、縛り付けている罪です。それを贖うのは、十字架につけられたイエスです。私たちは生涯掛けてこの十字架につけられたキリストを通して癒やされていくのです[12]。その姿に、私たちは罪を示されるとともに、ここまでして私たちとともに苦しんでくださる愛を示されないでしょうか[13]。

 キリスト教は、十字架につけられた(ままの)キリストの宣教です。
 一つ、聖書はイエスの苦しみにもまして、人間の冷たさ、残酷さを浮き彫りにします。それは神の赦しも憐れみも見えず、イエスや誰かを十字架にかけて笑う罪です。
 二つ、「イエスは王」というテーマの頂点がこの苦しみ罵られ、情けなくも助けて貰い、裸にされた姿です。しかしそれこそ、徹底的に低くなることを厭わない神の子の方法でした。
 三つ、この傷ついた主が私たちを癒やされます。私たちに必要なのは、罪人が罰せられることでも、誰かを罰して鬱憤を晴らすことでもありません。罪のもたらす悲惨さが十分に味わわれ、嘆かれて、傷が癒やされるために露わにされる以外ありません。そのために、キリストが来られました。私たちの苦しみを知り、私たちの罪に傷つけられる人々とともに傷つかれることによって、私たちを癒やし、罪のあり方から救い出されます。
 そのために今も主は苦しみを厭わず、私たちを運び続けてくださるのです。[14]

Ⅰペテロ二24
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

「十字架につけられた主よ。あなたの力を十字架に見ることが出来るよう、私たちの目を開いてください。裸の王として笑われた主こそ本当の王です。私たちを罪から救い、神の子どもとし、神の国をもたらしてくださる主です。愚かな思い上がりから救って、目を開いてください。人を笑い、貶める思いを覆して、罪を嘆いて恵みへと救う御心を教えてください。十字架も私たちをも恥じず、喜んで負われたあなたの深い御心のままに、私たちを新しくしてください」

脚注:

[1] 29、37、42。他の多くの語が、ここだけなのに対して「王バシリュース」は、マタイに22回も繰り返されるキーワードです。(マルコ12,ルカ11、ヨハネ16)

[2] 35節で、兵士は「くじを引いてその衣を分けた」とあります。ヨハネの福音書でははっきりと「さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。」と伝えます(19章23節)。つまり、十字架の主は裸でした。これは当時の十字架刑の通例で、肉体の激痛もさることながら、裸、さらしもの、放っておかれる精神的苦痛こそ、十字架刑の特徴とも言われます。イエスを描く十字架の多くの絵は気が引けて、イエスの腰はどうにか覆っていますが、実際は真っ裸だったのです。文字通り「裸の王さま」、あのお話し以上に本当に「裸の王さま」だったのです。

[3] マントは薄汚れたものでしょうし、太くて長い棘のある茨をわざわざ編んだ冠も、葦の棒も、虐めでしかありません。

[4] 「使徒の働き」13章1節に「ニゲルと呼ばれているシメオン」が、アンテオケ教会の主要メンバーの一人として登場します。この「シメオン」と、クレネ人シモンが同一人物ではないか、という読み方も可能です(断言は誰にも出来ません)。それはともかく、「ニゲル(ニグロ≒黒人)」と呼ばれるとある通り、肌の色が違うことは、当時からも大きな差別だったのでしょう。ここでも、黒人であったシモンを、兵士たちがイエスの十字架を担う役割に無理やりあてがったのは、人種への偏見・蔑視であったことは筋が通ります。

[5] キリストの救いは完全だ。しかし同時に、クレネ人シモンにも助けられた十字架でもある。私たちの助けを必要とはされないが、私たちの働きもそこに関わり、私たちも巻き込まれて、キリストのわざは完成されるのだ。コロサイ書1章24節「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」という大胆ないい方さえ、パウロはしています。人の労苦は、キリストの苦しみにあずかり、確かな役を果たすことです。クレネ人シモンはそのような人の苦難の一面を思わせてくれます。そして、巻き込まれることによって、彼は恐らく、後にキリスト者となりました。だからこそ、名前が伝えられているのでしょう。

[6] Ⅰコリント1章23~24節。同様の表現は、ガラテヤ書3章1節「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。」にあります。文語訳では「十字架につけられ給いしままなるイエス・キリスト」と明確です。

[7] 昨年召天された、日本長老教会の教師、故村瀬俊夫氏が、この言葉を最初に教えてくれた恩師です。立川福音自由教会のHPで、同氏と「十字架につけられたままのキリスト」のことが触れられていたので、以下、引用します。「村瀬俊夫先生は、ガラテヤ3章1節の文語訳の「愚かなるかな哉、ガラテヤ人よ、十字架につけられ給いしままなるイエス・キリスト、汝らの眼前に顕されたるに、誰が汝らをたぶらかししぞ」という表現を見て、キリスト理解が変わったと言っておられました。それは、既に復活されたキリストが、同時に今も、「十字架につけられたままである」という途方もない逆説です。私たちはあまりにも働きの成果のようなもの(栄誉)に目が向かって、弱さや苦しみ(十字架)の中にある恵みを忘れてしまいがちです。しかし、キリストの苦しみは今も続いており、それによって世界が平和の完成へと導かれているのです。ですから私たちも、キリストとともに十字架につけられたままでいるべきなのです。それは、この世的には恥と敗北ですが、そこに真の神の力が働きます。パウロはキリストについて、「確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力ゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです」(Ⅱ13:4)という不思議なことを言っています。十字架につけられたままのキリストの「弱さ」こそが、弱肉強食の世界秩序を変える鍵なのです。私たちも自分の能力や力を誇るのではなく、私の中に生きておられるその方によって生きるのです。「全能の神を信じているのに、どうして、こんな目に会ってしまうの・・・」というのは人情としてはわかりますが、聖書の物語からしたら「愚問」です。私たちはキリストとも共に苦しむために召されたのだからです。」ゼパニア2章4節〜3章20節「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ……」

[8] 黙示録でもキリストは「ほふられたと見える小羊」として登場します。5章6節(また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。それは七つの角と七つの目を持っていた。その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった。)、12(彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」)

[9] ここだけではありません。このマタイの記事には、旧約聖書の言葉が鏤められています。彼らがぶどう酒を飲ませたこと、衣をくじ引きしたこと、罪人と並べたこと、頭を振りながら嘲ったこと、「神のお気に入りだろう」とあざ笑ったこと…。これらは詩篇22篇(7 私を見る者はみな 私を嘲ります。 口をとがらせ 頭を振ります。8 「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。 主に救い出してもらえ。 彼のお気に入りなのだから。」、18 彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします。など)や69篇(21 彼らは私の食べ物の代わりに 毒を与え 私が渇いたときには酢を飲ませました。)、イザヤ書53章(3 彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。)など、旧約の昔から神が語っていた、冷たく残酷な人間社会の一面です。そうした人間の冷たく、壊れた現実を掬い取り、なめ尽くされるイエスこそ、王、キリストなのです。

[10] 40~43節の人々の言葉、「もし神の子なら、自分を救え」は、最初の四章でサタンが荒野の誘惑でイエスに再三呼びかけた誘惑と通じます。あの時もここでも、神の子ならその力を見せてみろ、もっと楽な道、自分を救う道を選ばないなんて愚かだ、と言う声が付きまといました。

[11] また、今ここでも、「イエスが十字架から降りようと思えば降りられたのだ。しかし、私たちのために十字架に留まってくださったのだ」と言ったところで、その「申し訳なさ」から私たちのうちに生じる思いも、イエスが私たちのうちに造ろうとする信仰とは全く別物です。イエスは、力・栄光によって威圧する神ではなく、無力・無防備さ・裸によって私たちに近づかれることで、初めて生まれる関係、すなわち、愛を求められるお方です。恩着せがましい神ではなく、本当に惜しみない神です。

[12] 英語で苦しみをpassionパッションと言いますが、その派生語が「ともにcon苦しむpassion」から来たコンパッション(思いやり、あわれみ)です。特にキリストの受難はthe Passionと言いますが、それはthe Compassionとも呼べる、私たちとともに苦しむ、あわれみの受難でした。正確には、ラテン語でcompatioの過去分詞から、英語になったもの、だそうです。

[13] その変化がここにも見られます。36節はなぜわざわざ書かれたのでしょう。一つは、これも詩篇22篇7節とダブらせるためでしょう。もう一つは、54節への伏線です。イエスを見張っていたこの兵士たちが、十字架にかけらたイエスとその後の出来事を見て「この方は本当に神の子であった」と言います。復活を見て、ではなく、十字架につけられたキリストを見て、「この方は神の子だった」という告白をしたのです。もう一人は、クレネ人シモンです。わざわざ名前が挙げられるのは、後に彼がキリスト者となり、あの十字架を担ったのは私ですと知られたからでしょう。彼は決してイエスの十字架の贖いを助けたわけではありません。しかし、シモンが十字架を運んだことは、その時は無理矢理な災難としか思えなくても、確かにそれはイエスとの出会いとなり、苦しみがイエスとともに苦しむ新しい意味を持つ始まりとなりました。

[14] このテーマに関して、今週いただいたのが、上沼昌雄氏の記事「ウイークリー瞑想「福音派はニーチェと無関係ではないのか?」2022年2月7日(月)」でした。お許しをいただいていないので、全文の転記は出来ませんが、「私たちが如何にだめなものであるのかを強調して、神の恵みを説くやり方です。私たちの罪意識を駆り立てて、キリストの十字架による救いを説くやり方です。その背後にはニーチェが指摘するように、どこかでどうにもならない自分の方がよいのだという思いが動いていると言えます。それゆえに神が負い目を取り除いてくれるといういやらしい思いです。それに対してニーチェは嫌悪感を持っています。しかし2千年の教会にとって当たり前のことになっています。 さらに信仰を持って一生懸命にやっているのに実際には惨めな思いに苛まれていて、どこかで神に対しての怒りを積み重ねていることがあります。表面的にはクリスチャンらしく寛容に振る舞っているのですが、思い通りに行かないで後悔と反感を内側に深く抱えているのです。ルサンチマンの感情です。そのようなクリスチャンの働き人の姿を結構身近に感じます。どこかで自分のことのように思わされます。ニーチェの批判するキリスト教が自分のうちに宿っているのです。」という指摘は、熟考する必要があります。

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