聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2013/01/13 ローマ書八1―4「御霊に従って歩む私たち」

2013-02-27 10:28:26 | ローマ書
2013/01/13 ローマ書八1―4「御霊に従って歩む私たち」
エレミヤ書三一31~37 イザヤ書三八10~20

 ローマ書八章に入ります。いくつもの、有名な言葉があります 。また、この八章の素晴らしさを歌い上げる言葉も沢山あるようです。私自身、この八章最後の言葉を愛唱聖句としてきたこともありますから、一節々々に取り組むことを楽しみにしています。
「 1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
 こういうわけ、とはどういうわけかと言いますと、やはり五章、六章、七章で展開してきた福音を受けて、でしょう 。こういうわけで、と今まで語ってきたこと。しかし、パウロは改めて、もう一度言います。
「 2なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
 人間の中に働いているのは、「罪と死の原理」です。罪を犯そう、何でも自己中心に考えよう、神にだって自分の生活を明け渡したくはない。そういう「原理(法則)」が重力のごとくに人間を支配しています 。そこで、いくら律法や道徳を与えられたところで、それさえも罪と死の原理は取り込んでしまうだけでしょう。しかし、そうした人間が、キリスト・イエスにあって、「いのちの御霊の原理」に支配されるようになります。御霊が私たちを支配し、いのちへと導いてくださる。まだ罪や死の残党は残っているのですけれども、その全てを通しても、御霊が私たちを御心に適う者へと整えてくださる。それは、万有引力の法則のように、それ以上に確実に私たちを導くのです。
 もちろん、それは私たちが何もしなくていい、ということではありません。罪や頑なさを握り締めたままでも大丈夫、というのではなく、いのちの御霊の原理は、私たちの罪を悔い改めさせ、頑なな心を砕かれた心へと導かれるのです。罪と死を握り締めたままでも永遠のいのちもいただける、ということはあり得ません。私たちの両手を開き、すべてを主の手に委ねるようにされていく。それが、救いの恵みです。しかし、私たちが何かをする、という以前に、まず、キリスト・イエスにあって、なされた救いの御業に私たちの土台を確(しっか)りと据えなければなりません。
「 3肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」
 ここで注意したいのは、「肉によって無力になったため、私たちにはできなくなっていることを、神はしてくださった」と言っているのではない、ということです。律法が出来なくなっていること、です。私たちが無力になっていることは、ここまででも散々述べられてきました。ですから、律法という本来素晴らしいものさえも、罪を処罰することは出来ませんでした。いくら人間に律法を与え、努力して罪から救われよ、と発破をかけたところで、人間の罪ある性根(しょうね)を叩き直すことは不可能です。この場合の「肉」とは、悪いこと、不道徳なこと、という意味ではありません。むしろ、パリサイ人やガラテヤ教会に宛てて言われているように、人間が神様に百パーセント頼るのでなく、自分の力を頼みとして生きることを、「肉」と言っているのですね。神様の恵みに委ねるのではなく、自分を誇り、真面目に正しく生きていれば良い、それが肉の思いであり、それは結局、無力で、神様を喜ばせることが出来ようはずがないのです。律法でさえ、そんな人間を生まれ変わらせ、罪を処罰することは出来ませんでした。
 しかし、神がひとり子イエス・キリストを私たち人間と全く同じように、肉体を持つ存在としてお遣わしになり、その肉において、罪を処罰してくださいました。それは、勿論、イエス様の十字架を第一に指しています。罪がもたらす処罰を全部御自身に引き受けてくださったのです。それによって、逆に罪を処罰し、無効化されました。しかし、それだけではありません。イエス様は、その肉体において歩まれた三十年余りの生涯において、完全に律法に従われ、罪の誘惑に完全に打ち勝たれたのです。そういうイエス様の聖なる歩みにおいて、罪の罰をすべて引き受けるという消極的面と、律法を守り抜くご生涯を歩まれたという積極的面と、両方で、イエス様は罪を処罰されたのです。それは、律法にはなし得なかったことでした。
 なぜそのようなことをクドクドというのかと言いますと、4節にこう纏められている言葉を、今日特に覚えたいからです。
「 4それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
 この、御霊、聖霊、という言い方を、パウロはこれまで4回しか使っていませんでした 。しかし、この八章では19回も、聖霊が登場します。この後、九章以下で使われる回数よりも多いのです。それは、それだけこの八章の内容と御霊との関係が深いことを物語っているのでしょう。そして、言うまでもなく、
 「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たち」
というのも、この肉体を離れて死んだとき、あるいは、この世界とはなるべく関わらずに生きる、という意味ではなく、イエス様が肉体を取られたように、私たちもまた、この肉体の中にありつつ、肉の思いに従うのではなく、御霊に従って歩む、ということです。それが大事でないなら、イエス様もわざわざ肉体を取ってご苦労されることはなかった。イエス様が肉のからだを取られたのは、人間がこの肉の体において、罪に打ち勝ち、神に従うようにならせるためであった。この事を深く心に留めたいと思うのです。
 御霊に従う。いのちの御霊の原理が私たちを解放した。こういう素晴らしい言葉を聞くと感心はします。けれど、いざ自分の現実生活が始まると、そんな綺麗事は言っていられないと私たちは思い始めるのではないでしょうか。礼拝と生活をわけて、諦めてしまうところがないでしょうか。しかし、パウロは言います。イエス様は、肉を取ってきてくださった、と。私たちのこの体と同じ体で、「…罪深い肉と同じような形でお遣わしになり…」とわざわざ言われるような形で、イエス様はこの世に遣わされました。その続きで、私たちが、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む、と言われるのは、私たちのこの体での生活-罪を犯し、神から離れてしまう、そのままでは本当に惨めに滅ぶしかない、この私たちのありのままの人生-の中に、「律法の要求が全うされるためなのです。」と言われているのです。
 しかし、ここでも注意してください。律法の要求を全うしなさい、と命じられているのではありません。以前にも言いましたように、このローマ書の前半、十一章までの間には六11から19節の間に出てくる命令以外、いっさい、命令はありません。ここでもそうです。私たちが律法を守らなければならない、律法の要求を全うしなければならない、ではないのです。それは私たちには出来ないことでした。しかし、そのような私たちを、キリストが肉体を取られて、御自身の生涯において罪を処罰されたことによって、いのちと御霊の原理に生きる者としてくださいました。御霊に従って歩む者、キリスト・イエスにある者としてくださいました。ただし、そこから引き離そうとするものがあるのです。神を忘れた肉の思い、罪と死の原理というものがこの世界にも、私たちのうちにもまだあります。自分で律法を全うできるとか、自分の生き方で神様を喜ばせることが出来るとか、一方的な恵みによる救い、ということを忘れたり小さく考えたりする原理が働いているのです。ですからパウロはこの手紙を書いているのですし、私たちにもこれが聖書という形で保存されて伝えられているのです。
 私たちは、この、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない、と言い切れる程の、いのちの御霊の原理の中に捉えられている事実を味わい、覚えるように、と呼びかけられています。まだ、罪の力は働いています。私たちも罪を犯すし、肉の思いを抱えています。それも、本当に心の奥に、自分でも気づかないほど、深く、広く、神に逆らう思いに病んでいる私です。それでも、どんなにボールを高く放り投げても、絶対に万有引力の法則の方が強くて、地面に戻って来るように、私たちは、いのちの御霊の原理に捉えられていて、何が起ころうとも、私たちがどんな者であろうとも、必ずやいのちへと導かれていく。御霊が導いてくださっているのです。
 私たちが、ではなく、主が、私たちの歩みの中に、律法の要求を全うしてくださる。私たちは自分で頑張ろうとか、人を批判したりとかしがちですが、私たちが欠けだらけであっても、そこに生きて働く主を信じるのです。人の願いや貧しい思いを遥かに超えた、主のみわざが必ず現される。そのように、この八章を通じてパウロが歌い上げていく声に、本当に深く励まされ、慰められ、希望をもって新しくされていきたいのです。

「私共は今、御霊に従って歩む者である、と教えてくださり、ありがとうございます。まだまだ不完全であり、肉の思いに囚われてしまう者ですが、いのちの御霊の原理は罪と死の原理よりも遥かに勝っていますから、平安を持つことが出来ます。どうぞ、主が私共の歩みの中に、この約束の御真実を現してください。真にそれを待たせてください」


文末脚注

1 たとえば、「11もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」、「14神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」、「26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」、「28神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」、「31では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。33神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。34罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。35私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。36「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」など。
2 元の文章では、最初に「決してない」が来ます。それだけに、パウロの言いたいことが、今までのことを全部受けて、キリスト・イエスにある者が絶対に、罪に定められることがないと確信を歌っているのだと覚えたいのです。
3 「今は」も時間的に取るよりも、キリストにある現在の現実を指す言い方でしょう。
4 シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』参照。
5 一4「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」、二29「…文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」、五5「…なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」、七6「…その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」

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