2022/1/30 ヘブル書12章1~3節「イエスがいてくださるから 一書説教 ヘブル人への手紙」
「ヘブル人への手紙」と呼ばれますが[1]、手紙というより説教だと言われる内容です。誰が、誰に宛てて書いたのか、ハッキリ書かれていないので分かりません[2]。しかし、旧約聖書の引用が戸惑うほどに多く、著者も読者も旧約聖書に精通していたと窺えます。旧約からの聖書の民ユダヤ人は、ヘブル人とも呼ばれて、ヘブル語を話し、旧約聖書も殆どがヘブル語で書かれています。ユダヤ人で、キリストを信じた人々が読者なのでしょう。そして、本書には、「牢に入れられた」とか「財産を奪われ」といった言葉も出て来ます[3]。苦しみ、訓練という言葉も目立ちます。この手紙はユダヤ人キリスト者たちが困難な状況にある中で、書かれたのでしょう[4]。そしてキリストについての説明を、詳しく書いて、キリスト論を発展させた書です。
1. キリストは大祭司
本書の最初には、御子イエス・キリストの偉大さ、特別さについて詳しく書かれています。一章では「御使いたち」と比べていますから、まだこの時代にはイエスを天使と同列に考える人たちもいたのかもしれません。ヘブル書は、御子が御使いよりも遙かに優れたお方であり、御使いよりも偉大な業、即ち低く、私たちと同じ人となって、私たちを救い出す、尊い救いをなしてくださることを説き明かしていきます。そうしてイエスを「大祭司」として紹介します。キリストが大祭司だと明言するのは新約でここだけです。これが前半十章までの要約なのです。
八1以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。
祭司は、神と人間との間に立って結びつける存在です。大祭司はその長です。キリストは神と私たちの間をつないでくださる唯一の方です。旧約時代モーセが立てた律法の制度も、祭司やその儀式を詳しく定めていましたが、それは不完全でした。それはやがて完全な大祭司が来られるまでの制度でした。その唯一の大祭司として、イエスがおいでになりました。罪のない完全な大祭司であり、動物の生贄という借り物ではなくご自身を捧げた本物の大祭司でした。御使いや人と同列ではない、確かな執り成しを、ヘブル書は説き明かしてくれるのです。
2. 大祭司がおられるのだから
キリストが「私たちの大祭司」として説き明かしながら、それは私たちの生き方に直結するものとしてヘブル書は適応します。
「大祭司のことを考えなさい」[5]
「大祭司がおられるのですから」[6]
という言い方を繰り返すのです。イエスが偉大な大祭司だ、というと、私たちは自分には遠い、恭しくしなければならない恐れ多い方、と思うかもしれません。しかし、
二17…神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。18イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。[7]
大祭司は、神と人間との間を取り持つため、すべての点で私たち人間と同じようにならなければならない。本当に人間になって、自ら試みを受け、苦しみを知り、ただ耐えただけで無く心から私たちの辛さや悲しみを知る、本当に憐れみ深くあるからこそ、私たちと神とを繋いでくださる大祭司であられる。そういう方が私たちにいてくださるのです。
言わばキリストは神と私たちとの間に立つだけでなく、私たちの手をギュッと握ってくださっている大祭司。勿論、父なる神の手も離すことはなく、私たちの手をも優しく、確りと握りしめて、決して離すことはない大祭司です。そのような大祭司がいてくださる。それはヘブル書を受け取る読者に、救われるかどうかがあやふやな生き方から、もっと高く確かな生き方をもたらします。[8]
「ヘブル人」とは元々、「川向こうの」「流れ者」という意味で、自分たちで名乗るより、「あいつはヘブル人だ」というような呼び名、もっと言えば蔑称だったようです[9]。主は、得体の知れない流れ者のアブラハムやイスラエル人、「ヘブル人」と一括りにまとめられるような人々の神となりました。「ヘブル人への手紙」は、人の目には非力で得体が知れず、迷いやすい者に御子が大祭司となってくださったことを丁寧に歌い上げていきます。それは、救いだけでなく、遙かに高く積極的な生活、仕事、結婚、教会の集会に対する姿勢をもたらすのです。
3. 多くの証人に囲まれて
十二1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
「こういうわけで」という直前の12章には、
「信仰によって…信仰によって…信仰によって」
と22回も重ねて、聖書の登場人物たちの生き方が想起されていました。神は私たちの目には見えないけれども、私たちが見える以上、考える以上のことを確かにしてくださるお方です。その神からの信仰を戴いた人たちが、地上で誠実に歩みました。ノアは箱舟を作り、モーセの両親はファラオの命令を恐れずにモーセを匿いました。見えない神を信頼して、大胆に生きた多くの証人が、雲のようにいます。またヘブル書以来、教会の歴史においても私たちの今の世界においても、信仰に生きた人々の尊い証しは数え切れません。
どの人も完璧な聖人でも完全な信仰でもありませんでした。11章には直ぐに神を疑うイスラエルの民や[10]、不完全なヤコブ、サムソン、ダビデらも含まれています。それでも神が下さる信仰によって人は一歩を踏み出し、良い業を行ってきました。
キリストが私たちの大祭司としておられる。だから、私たちは今見える現実だけに囚われずに、希望をもって生きることが出来ます。苦しみや死があっても、その苦しみや試みをも味わい知って、私たちとともにいてくださるイエスがおられます。だからもう私たちは罪の完全な赦しと神の祝福を信頼して、愛の業を踏み出していけるのです。[11]
今日はヘブル人への手紙を、三つのポイントから概観しました。
一つ目、ヘブル書はキリストの偉大さを「大祭司」という表現から教えてくれる、新約で唯一の書です。
二つ目、ヘブル書は、大祭司が私たちと同じ人となり、私たちと同じように苦しまれた、言わば私たちの手を握るほど確りと私たちと神とを結びつけて下さる、憐れみ深い大祭司として伝えます。私たちには、大祭司イエスがいてくださる。だから、私たちの生き方は新しくなるのです。
三つ目、その見えない神を信じる信仰によって生きた人は、雲のように大勢います。困難や諦めそうな現状の中で、神からの信仰によって状況を切り開いた人々は大勢います。だから、ヘブル書の読者たちも、私たちも、目の前の見える状況がどうであれ、励ましを戴いて、信仰と希望を持って歩めます。そうさせて下さるのも大祭司イエスです。このイエスがいてくださるのです。
「主よ、ヘブル人への手紙を感謝します。御子が私たちの大祭司であると知らされました。人であるとはどういうことか、私たちと同じく、いえ私たち以上にご存じの主が、私たちを愛し、憐れみ助けてくださいます。ご自身のいのちを捧げて、私たちの罪を赦し、祝福に預からせてくださる主が、苦難の中で忍耐や希望をも与えてください。あなたがいてくださることに勇気づけられ、互いに励まし合わせてください。この礼拝も教会も、大祭司なるあなたのものです」
永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。 (ヘブル書13章20-21節)
ヘブル書のことば ピックアップ
7:25したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。26このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
8:1以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、2人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。
11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
11:16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。
12:1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
12:3 あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。
13:1兄弟愛をいつも持っていなさい。2旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。
4結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。5金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。
8イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。
アウトライン:
1.イエス・キリストの至高性 1章~4:13
キリストは御使いより優れている。 1:1~2:18
モーセより優れている 3:1~4:13
2.大祭司キリストによる真の贖罪 4:14~10:18
3.希望の下にある信仰の道 10:19~13:17
4.結語 13:18~25
脚注:
[1] この呼称は、二世紀の教父テルトゥリアヌスが用いたことから定着しました。
[2] 著作年代も不明ですが、神殿破壊されたのであれば、9章などの記述が違ったでしょうから、紀元70年以前だと思われます。
[3] ヘブル人への手紙10:34(あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。)、13:3(牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。)
[4] 市川「執筆の動機・目的 キリストの十字架刑のつまずき、迫害の恐怖、再臨の遅延感など、信仰的失望や背教の危険性に直面していたヘレニズム世界のキリスト者に、キリストの贖いの全一回的、永遠的成就を旧約聖書との関連から論証し、終末的完成の希望とさばきの警告とを提示し、それによって彼らを牧会的に励まし、慰めるために執筆された。」『実用聖書注解』、1,378ページ
[5] 3章1節「ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。」、7章4節「さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。」、12章2節「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。3あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」
[6] 4章14節「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」、8章1節「以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。」、10章21節「また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、」
[7] 他にも、2章14節「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、」、4章15節「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。16ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」など。
[8] 大祭司として、神と私たちの間に立って下さる。しかし、その祭司を私たちがしっかり握りしめる、というならまだ弱い。この大祭司キリストが、私たちの手を握りしめてくださって、決して離すことがない、それゆえ私たちの生き方そのものもふらふらしたり、不安に駆られた者から、信頼をもって神に仕え、見えないものを確信しつつ、将来の約束に希望をおいて、生きるよう変えられた。そこにまで、大祭司キリストのもたらす知らせの偉大さがある。イエスを偉大な大祭司として発見することは、私たちが偉大な契約の中で神に結びつけられ、新しくされ、罪の完全な赦しと新しいいのちを与えられていることの発見である。
[9] 創世記9章14節「彼女は家の者たちを呼んで、こう言った。「見なさい。私たちに対していたずらをさせるために、主人はヘブル人を私たちのところに連れ込んだのです。あの男が私と寝ようとして入って来たので、私は大声をあげました。」、出エジプト記3章18節「彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』」などに、そのようなニオイが漂っています。
[10] 29節「信仰によって人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に吞み込まれてしまいました。」や、30節「信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。」の「人々」は、出エジプト記14章や、ヨシュア記6章を見ても、不平や背信に早く、ヘブル書3章4章8章で、不信仰の例として挙げられている人々そのものでもあります。人間を「信仰者」と「不信仰者」とに単純に二分することは出来ません。
[11] 大祭司がおられることが、愛と善行などの互いの生き方に結実すべきことも、ヘブル書で繰り返されている論理的帰結なのです。10章21節「また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、22心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。23約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。24また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。25ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」、13章16節「善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。」
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