2020/8/16 テトス書3章4~6節「神は信仰もくださいます」ニューシティカテキズム35
神は信仰も下さいます。「も」というのは、これまで夕拝でお話ししてきたように、聖書の教えや、イエス・キリストも神が下さったものでした。神は私たちに、罪の赦しも下さり、救いも下さいます。この救いを神からいただくのに、私たちは良い行いとか、何か条件を求められることはありません。ただ、信仰だけでいただけるのです。信仰だけで。では、その信仰は、私たちが一生懸命信じなければならないのでしょうか? いいえ、その信仰も、神が下さるのです! 今日はその事をお話しします。
第三十五問 私たちが恵みのみ、また信仰のみによって贖われたのであれば、この信仰はどこからくるのですか?
答 私たちがキリストから受けるすべての贈り物は、信仰も含め聖霊を通して受け取るのです。
信仰のみでもらえる、と言っても、その信仰だって、神が私たちに下さった贈り物。だから、私たちは「神様が信じるだけで救ってくださるって言っても、その信じる信仰が自分には足りないなぁ」なんて考えなくていいのです。また、「イエス様を信じるだけでいい」って言っていながら、その最後の信仰を自慢したり、強制したり、信仰が足りないって責めたりすることも、しなくていいんです。だって、信仰も神様が下さる贈り物なのですから。私たちが、救われたい、イエスを信じたい、この福音に預かりたい。そういう思いそのものが、人間が自分で持つことは出来ません。救い主であるイエス・キリストとの出会いそのものが、神からのプレゼントなのです。
テトス三4しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、5神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。6神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
神が現れたとき、私たちが救われるのは、私たちの正しい行いではなく、聖霊なる神が、私たちの中で、再生(もう一度、生きるようになること)と刷新(すっかり新しくしてくれること)をなしてくださるのです。これは、神がイエス・キリストによって成就した贖いを、聖霊によって私たちの心や生き方に届けてくださる出来事です。只管、神の御業です。そうでないと、私たちは救いを求めることも、信じることも、罪を認めることも決して出来ません。いくら神が素晴らしい救いや、慰めに満ちた言葉や、励ましや喜びに満ちたお祝いを約束してくださっても、それを信じるかどうかはあなた次第ですよ、となったら、私たちの心に任されてしまうなら、私たちは神よりも自分を求めようとしてしまうでしょう。聖霊が私たちの心に命を吹き込んでくださって初めて、私たちの心は神との和解、神の子どもとしての生き方を踏み出すことが出来るのです。
そして、私たちはだんだん年をとれば、頭も働かなくなって、聖書の御言葉も、イエスの名前も忘れるかもしれません。自分が誰かさえ、分からなくなることがあります。信仰どころではなくなります。それで私たちが神との関係も保てなくなるのだとしたら悲惨です。でも、救いは、信仰まで含めてすべて、聖霊のお働きです。すべてを下さる神は、私を救おう、と願って下さったのです。「信じたら救おう、信じなかったら残念でした」ではなく、信じる心も力も贈り物としてくださるのです。もし年をとったり病気になったり、脳死になったりして、信じる力を失っても、それでも神は決して私たちを諦めたり手放したりはなさらないのです。聖霊が私たちを確り捉えてくださるのです。
「猫の法則と猿の法則」ということを教えてくれた先生がいました。猿は、赤ちゃんを運ぶとき、こどもがお母さんにしっかり捕まります。子どもが手を離したら、落ちてしまいます。お母さん猿がどんなにしっかりしていても、子どもがよそ見をしたりしたら一巻の終わりになります。子どもが一生懸命捕まっていても、最後の最後で手を離してしまうかもしれません。油断は出来ない、安心できない関係です。
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これと同じように、神様の救いが大きくても、それを信じるあなたの努力も必要、という考えは、多くの宗教に、そして、キリスト教の中にもあります。もう一つの「猫の法則」はどうでしょう。
猫の赤ちゃんは、お母さんが首を加えて運びます。赤ちゃん猫がいくら暴れたりよそ見をしたりうっかりしても、お母さんはますます首をしっかり加えるでしょう。お母さん猫が子ども猫に協力を求めたり、しっかり捕まってなきゃダメよと脅したりすることはありません。お母さんは、子どもではなく、自分を信頼します。勿論、お母さんですから、赤ちゃんを育て、しつけて教えます。子どもは段々成長し、たくましくなっていきます。いつまでも受け身で赤ちゃんのままでいるわけではありません。お母さんの大きな愛の中で、赤ちゃん猫は訓練されたり成長したりするのです。これが「猫の法則」です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/2b/78d163c7e62758ce641a2f6e806397ab.jpg)
神様の救いは、この猫の法則のように、神様の側にかかっています。私たちの信仰や努力次第、ではなく、信仰も努力も、神が父となって私たちを育ててくださる贈り物なのです。だから、私たちは最後まで安心できます。そして、その確りとした神との関係の中でこそ、思い上がることなく、謙虚に、そして安心して成長していくのです。
このような救いを強調するのは、私たちの教会の特徴です。鳴門キリスト教会は「日本長老教会」の教会ですが、長老教会の立つ「改革主義」という神学の特徴は「神の主権」の告白です。神に100パーセントの主権がある。99が神で、最後の1はあなた次第、では決してない。神様が100なのです。そういう信仰が、私たち長老教会の特徴の一つです。神が私を救ってくださる。私たちに信仰を下さったのも神様。すべての良いものは神様から来る。そして、神は私たちに、すべての良いものを惜しみなく下さる、良いお方です。すべては神様の恵み、すべては聖霊が私たちに届けて下さっている贈り物。これからも信仰も、知恵も、忍耐も、喜びも、どうぞ神様私たちにお与え下さい。そう告白しながら、私たちは、神様を礼拝し、神の子どもとして生きていくのです。
「聖霊なる神よ、罪過と罪との中に死んでいたためあなたを求めることができなかった私たちを、あなたは追い求めてくださいました。信仰はあなたからの賜物です。石の心を肉の心に造り替えられる主の救いの恵みがなければ、私たちは誰一人として信仰を持つことはできませんでした。受けるに値しない憐れみを私たちは得たのですから、どうか私たちが誇ることのないように助けてください。アーメン」
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