2019/8/11 Ⅱサムエル記7章8~17節「永遠のダビデの王座 聖書の全体像23」
ダビデは、旧約聖書に出て来る最も有名な王です。聖書で、イエス・キリストに次いで詳しく生涯や言葉が記されているのは、このダビデです。そして、イエス・キリストご自身が「ダビデの子」と呼ばれますし、ダビデと重ねて語られる王です。それほど聖書において、ダビデという人物は大切な役割を与えられています。特に、今日のⅡサムエル七章では主がダビデに大事な契約を与えています。この「ダビデ契約」を巡って、数回お話ししたいと思います。
このⅡサムエル記七章は、ダビデが先の王サウルから命を狙われて逃げ続けた生活が終わり、エルサレムに自分の家を建て、落ち着いた生活が出来るようになった時に当たります[1]。
2…「見なさい。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中に宿っている。」
自分が杉材の家にいるのに神の箱はテント住まいでは…と神殿建設を考えたのですが、主はそれを気にするどころか、ダビデのためにもっと大いなる家を備えると言われるのです。
11…主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。
それは、ダビデの子どもがダビデの後継者として王となり、王国を確立する。それが永遠の王座となる。「ダビデの家」が永遠の王家となる、と主は約束されたのです。
13彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
16あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」
これは本当に恐れ多い、ダビデにとっては思ってもいなかった主の言葉でした。ダビデの子孫から永久の王座が出る。やがてダビデの子孫からイエス・キリストが生まれるのです。ダビデはイエスの時代から千年前の人ですが、聖書の長い大きな物語の中で、キリストが来る千年前から、永遠の王である方が来る事を予告していたのです。しかし、ここにはその「王」に伴う大切ないくつかの事も書かれています。まず、8節以下、ダビデを
「羊の群れを追う牧場から取り、わが民イスラエルの君主とした」。
主がダビデとともにいて、敵を断ち滅ぼし、一介の羊飼いで親からも軽く見られていたダビデを、他の王たちと等しい王としてくださいました。その事と、10節では、イスラエルの民全体が安心して住むこととが並べて語られています。
10わが民イスラエルのために、わたしは一つの場所を定め、民を住まわせてきた。それは、民がそこに住み、もはや恐れおののくことのないように、不正な者たちも、初めのころのように、重ねて民を苦しめることのないようにするためであった。
11それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。…
ダビデやサウルに先立つさばきつかさ(士師記の時代)以来、400年以上、民は不安定な生活をしてきました。恐れ戦いて、不正な支配者たちに苦しめられて来ました。そのような中で民が王を求めましたけれど、最初の王サウルは王という立場に執着して、神から退けられてしまいました。それがようやくダビデの統治により、民全体が落ち着いた生活をし始めたのです。ですから、この8~11節では、主がダビデを個人的に導かれたことと、ダビデの統治がイスラエルの国全体を
「もはや恐れ戦くことのないように…不正な者たちも…重ねて民を苦しめることのないようにするため」
民全体の安息のため、という公の面とが両面言われています。ダビデ個人が神に贔屓(ひいき)されて、思い上がって、民の生活が脅かされたり不安定な生活を余儀なくされることが放って置かれたり、不正な支配者と同じ道に走ってはならなかったのです。
ですから、主がダビデの家を堅く立てて、永久の王座を約束したのは、ダビデの個人的な栄誉という以上に、国民全体にとっての安心、永久の幸せの約束でもありました。特に、
14わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
とあるのは、主がダビデに約束するのが、暴君になっても良い、という免許ではない証しです。王や支配者というと、特権をもって、犯罪に手を染めても目を瞑ってもらえるとか、訴えられない立場になりやすいものです。「王様は誰だ」というゲームがありますが、「王様」になった人の真似を皆がする。王にはそんなイメージが付き物です。実際、ダビデも王の立場で多くの間違いをしますし、その子たちは職権乱用をしてしまいます。そして、主は確かにその罪を見逃さずに報いるのです。言い換えれば、主はダビデを永久の王座を約束された家としますが、本当の王は主であって、ダビデもダビデの子らもその主の下にいる王に他なりません。絶対君主とか「王権神授説」とか特権階級ではない、主の恵みに生かされている自分だと深く弁えた王です。自分が主の目の前にあることを覚えている王です。この言葉は、永久の王も不義を犯すかも知れない、というよりも、永久の王だからと言って威張って暴君になることが許されることは決してない、と安心させるものだったでしょう。だからこそ、ダビデの子のソロモンが王になって、民を踏みにじったり、多くの妻を娶ったりして、最終的には偶像崇拝に流されていった時、主はソロモンの罪をハッキリ指摘しましたし[2]、その後でも王たちの不義は預言者たちによって責められるのです。それでも、15節ではこうも言われています。
15しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。
16あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」
主はダビデの家から恵みを取り去ることは決してないと約束し、永久に堅く立つのだ、と言い切られています。この言葉は最終的にはイエス・キリストがダビデの末裔として来て、永遠の王となってくださったことで成就しました。新約聖書の一頁目、マタイの福音書一章には長々と系図が記されていますが、ここにはイエスが
「ダビデの子」
として紹介されています。また1章6節以下はダビデ王朝の名前がずっと記録されています。ですからこの系図は、イエスがダビデに約束された「永久の王」であることを教える大事な系図です[3]。同時にそれは、人の罪、神の民やダビデの王家に祝福された者たちさえ、罪や背信を重ねてきた歴史です。その罪は当然報いを受けますが、しかしイエスは決して民を見捨てません。恐れ、間違い、疑いが蔓延している社会だからこそ、イエスは来られて、私たちを治めてくださるのです。今、イエスは私たちの王です。主は私たちを治めて、永遠に私たちの王でいてくださいます。その事に私たちは安心して良いのです。でも教会やキリスト者の「不義」-過ち、問題、傲慢は主が見逃さず、真剣に取り扱われます。それでも、決して主が私たちの王であることを止めず、恵みを取り去ることはしない。永久に私たちの王として、神の国の生き方に育てて下さるのです。
私たちは「王」と言えば、庶民とはかけ離れていたり、服従することを求めたりする王を思い浮かべ、不正な支配者も沢山思いつきます。恐れ戦き、民を苦しめ、失敗も重ねればいつか契約も打ち切られる、そういうもんだと思い込んでいたりする。だからこそ、ダビデへの主の語られた「永久の家を立てる」という契約は、驚くべき内容ですし、イエスはその「永久の王」として来て下さった。私たちの恐れ揺れる心も治めてくださる。罪には何としてでも悔い改めと赦しを与えて、恵みにますます信頼して晴れやかに生かしてくださる。私たちの失敗や足りなさや弱さもご存じで、私たちの人生を導き、神の御心を行ってくださる。私たちには、恵みに満ちた王がいる。私たちの人生を支配するのは、私ではなく、私の罪でもなく、誰かや何かでもなく、主イエスです。それを主は聖書の昔から約束されたし、小さい羊飼いから王にされたダビデを通してハッキリと示してくださいました。その王が私の主であるのです。
「私たちの王であり、ダビデの末から生まれた主イエスよ。世界を治めるあなたが、私たちの永久の王ですから感謝します。私たちの支配者が、あなた以外の何かであるかのように思うとしても、あなただけが王であり、私たちを愛し、慰めと希望と新しい生活を下さる王です。どうぞ私たちの心も、この世界も治め、あなたの恵みと正義と喜びを高らかに表してください」
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