2020/2/23 エペソ5:5~11「永遠のように今を生きる」ニュー・シティ・カテキズム18
夕拝では「罪」や「偶像礼拝」についてお話ししています。罪とは神に逆らう事、神への不服従です。そして、私たちが神以外のものを、神のように大事にして、拠り頼んだり、従ったりしてしまう時、それは「偶像礼拝」になります。エペソ書の言葉でも、
エペソ5:5…淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。
淫らな者、汚れた者、貪る者。それは、自分の欲を偶像にしている、欲望を神にしている。それでは、キリストと神との御国じゃなくて、欲望の国を生きることです。そのままでも大丈夫だという言葉に騙されてはイケマセン。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに降るのだ、とハッキリ言っています。
罪とは、本当の神を神としないこと。救いとは、罪や偶像崇拝を捨てて、本当の神が、本当に神となってくださる、という事です。その事を、私たちはよく誤解してしまいます。少しぐらい罪を楽しんでもいいじゃないか、神様は愛のお方なら、自分の罪に目を瞑ってくれてもいいのに、と考えてしまうのです。そういう思いに対して、どう答えるのでしょうか。
第十八問 神は私たちの不服従と偶像礼拝を罰せずにおられますか?
答 いいえ、全ての罪は神の主権、聖さ、善性、そして神の正しい律法に反しています。神は正しく私たちの罪を怒られ、神の義なる裁きにより、この世において、そして来たるべき世において罪を罰せられます。
神が罪を大目に見て下さる、という考えは一蹴されます。でも、それは、神が心が狭いから、ではないのです。全ての罪は、神の主権、聖さ、善性、正しい律法に反しています。それを神が怒るのは正しいことですし、また、私たちにとっても、神が罪を怒って下さることは有り難い、そうしていただかなければ私たちにとって不幸な事です。神が私たちを本当に深く愛しておられるからこそ、神は私たちが少しでも、罪を楽しみ、握りしめていることを容認は出来ないのです。この事も私たちは誤解しがちです。
これは私たちの人間関係でもよくあることでしょう。だれかが嘘をつく、物を盗む、いやもっと小さな間違いをした時、それを見て注意したらどうでしょう。言われる方は「ああ、悪かった」と思う気持ちと、「注意するなんて嫌な奴だなぁ。あいつに見られないようにコッソリやろう」と思う気持ちと、両方出て来るのではないでしょうか。本当に、ひどい犯罪や破壊的な行為だったとしたら、言う方はそれだけ声を荒げ、厳しい言い方をして、なんとかして止めさせよう、としたくなる。でも、それを言われる方は、自分がしたことが問題じゃなくて、ガミガミ怒ってくる人の問題にすり替わってしまう。
神が人間の罪を罰するのは、神の主権、聖、善、正しい律法に反しているからです。それを神が怒るのは、正しいことです。神様に「そんなに怒らなくても良いのに」という問題ではなくて、神が怒らないほうがおかしいことです。神が、神を愛し、互いに愛し合いなさいと仰ったのに、自分の欲や狭い考えのまま生きても、決して幸せにはなれず、自分をも他の人をも、世界をも傷つけ、害さずにはおれないことなのです。決して私たちには、神を直接傷つけることは出来ません。神は、何によっても汚されることのないお方です。しかし、神が造られた世界を傷つけるとき、それは神にとって、ご自身に対する侵害として受け止めます。最も小さい人が虐げられ、名もない赤ん坊が見殺しにされ、難民が飢え死にする時、イエスはそれをご自身の事として苦しみ、嘆き、叫ばれます。平気ではないのです。また、人が自分の人生を、神でないものを神として生きることも、神は深く、大いに悲しみ、激しく怒ります。神ご自身が勝手に怒るのではありません。神は、この世界の造られた者の中で、不法や暴力が行われるのを、必死で止め、本気で怒り、罰することも厭わないのです。それを止めないことを神に求めるのは、無理な話です。しかし、神は、怒って罰するだけで終わりません。神が怒るのは、人を愛されるからこそです。罰するのも、人が向きを変えて、神を神として生きるためです。罪を罰しますが、罪人を滅ぼすのではなく、罪人を罪から救うのが神です。
5:8あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。9あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。10何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。11実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。
不品行や貪りは偶像礼拝だ、でエペソ書は終わっていません。あなたがたは光なのだ、光の子らしく歩みなさい、暗闇の業に仲間入りせず、むしろそれを明るみに出しなさい。そういう積極的な勧告です。私たちに必要なのは、罰で脅されることではありません。神が罰するから罪を捨てる、ではなく、罪はそれ自体が罰でしかないことを認めて、神はもっと素晴らしい生き方に私たちを入れて下さることに心を向けることです。
罪は、いずれ報いを受けます。必ずその刈り取りをすることになります。でも罪は囁きます。「一度ぐらいいいじゃない」「だれも見ていないよ」「みんなやってるさ」「バレなければ大丈夫」…。でもそんなコソコソした行為も、いつかは明るみに出るのです。一度でもやったことは、いたずらでコンクリートに残した足跡のように、永遠になります。誰も見ていないようでも神は見ています。
ある意味では、私たちの行為はすべて、永遠に残ります。一日一日をどう生きるかは、明日を決めます。有り難いことに、間違いに気づけば、いつでもどこからでも、正しい道に引き返すことは出来ます。神はそれを喜んで助けてくださいます。でも、間違った道を選んだ時間を巻き戻してなかったことには出来ません。今日という日は、罪で無駄にしては勿体ない、折角の一日です。「少しぐらいの罪なら大丈夫」などと自分を騙さず、永遠のように生きる価値がある今日です。勿論、罪や過ちはまだまだ避けられません。でもその罪を、知っておられる神に差し出し、罰を報われるに相応しい罪から救い出し、光の子として生かしてくださいと明るみに出せば良いのです。神が私たちの心から、一生涯かけて、罪の思いや偶像礼拝を完全に拭い去ってくださる。それは、私たちにとって、恐怖ではなく希望です。
「義なる主よ、もし私たちが自分自身を善だと言うなら、それは偽りの言葉です。私たちはあなたの怒りを受けるべき者です。私たちはあなたの戒めに背き、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたを愛する事が出来ません。私たちは、キリストの義を懇願し、あなたが私たちの罪の罰をキリストに負わせて下さる事をただ願うばかりです」
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