2020/2/23 Ⅰペテロ1章3-9節「苦難の火をくぐり ペテロの手紙第一」
今月の一書説教はペテロの手紙第一を取り上げます[1]。全部で五章の短い手紙です。パラパラと見ても、交読した2章21~25節のような詩文体が多くあることに気づきます。当時の教会に既にあった、洗礼式での式文・賛美だとも言われます。近年、ペテロの手紙は元々、洗礼の時の説教をまとめたという説もあるようです。初代教会で既にこんな詩が造られ歌われ、洗礼が祝われていたと考えると、初代教会の生き生きした姿を想像して、嬉しくなってきます。
この手紙を書いたのはペテロ[2]。イエスの第一弟子、ガリラヤの漁師で本名をシモン。十二弟子のリーダーとして、頑固者でおっちょこちょいで、無学な普通の人、あのペテロが、晩年にローマから書き送ったこの手紙。それもまた、本書を読む醍醐味でもあるでしょう。
洗礼式での説教、と言いましたが、それは洗礼を受けて、キリスト者として生きていく上での困難を予告する説教でもありました。この手紙は
「苦難」
が沢山出て来るのも特徴です[3]。
「信仰の試練」
について何度も言及されています[4]。キリスト者として生きることが、厳しかった現実を踏まえて書き送られた手紙です。イエス・キリストを信じたら、苦しみや悩みに遭わずに済むのではないか、そういう期待は昔も今もあることですが、ペテロの手紙には特に
4:12愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
とあって、キリスト者として苦しむことについて繰り返して語っています。その試練を通してこそ、神が下さった祝福がますますハッキリさせられる、と語るのです。ちょうど、火によって金が精錬されて、不純物が取り除かれて、純金となっていくように、苦しみという火は、どんな苦しみによっても朽ちることのない、キリストの祝福を明らかにするのです。今日読んだ、最初の部分でも、この事は力強く語られています。この言葉をよく味わってください。
1:3…神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。4また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
神の御業によって守られ、朽ちない資産を受け継ぎ、必ず救いを頂く。これが、ペテロが手紙で語ることの土台です。私たちの我慢や信仰心によって、苦しみに耐える、試練をも喜ぶ強い信仰心を持て、ということではないのです。その真逆です。それは、ペテロ自身がかつて誤解して、砕かれて、目が開かれた歩みを振り返れば、はっきり分かることです。
イエスと共にいた時のペテロは、弟子たちの中で一番えらく、一番信仰が強いのは自分だと思いたがっていました。イエスが最後の晩餐で、ご自分の逮捕や弟子たちも散り散りになることを告げた時、ペテロは真っ先に
「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。…たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
と屈しなかった[5]。その数時間後イエスが逮捕された時、ペテロはイエスが予告された通り三度ハッキリと、イエスとの関係を否定してしまいました。この時、イエスもペテロに「試練に耐えよ」とは命じませんでしたし、「たとえ殺されてもあなたを知らないなどとは申しません」と言ったペテロを誉めたり励ましたりはしませんでした。イエスは、ご存じでした。人の力や頑張りなど吹き飛ばすような出来事こそ試練ですし、人の力など当てにならないものです。だからこそ、イエス・キリストの尊い血によって、私たちは新しくされたのです。ペテロはその事を味わい知っています。苦難に頑張って耐えよ、ではなく、どんな試練によっても朽ちないキリストの御業に信頼して、喜びなさいと覚えさせています。
また、2章21節以下の詩文、洗礼式での讃美歌と思われる言葉では、
22キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
と歌われていました。自分がイエスを裏切って呪っても、イエスは私に罵り返さず、見捨てず、試練に耐えろと脅すこともせず、私たちのためにご自分を献げてくださった。それは、ペテロの生き方や価値観を引っ繰り返した経験でした。自分の力を誇り、人といつも張り合っていた価値観がすっかり崩れ去りました。そしてキリストが自分に良くしてくださったように、自分も人に善を行う[6]。そのように変えられる救いを、ペテロは読者に分かち合っているのです。この詩文の前後には、
「しもべたちよ、敬意を込めて主人に仕えなさい」[7]
とあり、
「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。…夫たちよ、妻を理解し、尊敬しなさい」
とあります[8]。キリストの苦しみは私たちの身近な関係一つ一つを新しくする模範です。9節にはこうあります。
「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」[9]
祝福を受け継ぐために召されたのだから、苦難や侮辱をまともに受け取って傷ついたり腹を立てたりする必要はない。仕返しに人を侮辱する必要もない。私たちは只(ひた)管(すら)祝福を受け継ぎ、侮辱する人にも祝福を差し出す。それがキリストにあって生きる、新しい生き方なのです。
ペテロはこの手紙で「私は」という言い方を殆どしません[10]。しかし5章1節から「私は」と宛先の教会の長老たちに呼びかけます。これがまた、驚くほどに謙虚な言葉です。
私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。2あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。3割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。[11]
「イエスの一番弟子」「大使徒」としてではなく
「同じ長老の一人として」
語ります。自発的に、心を込めて。そして、
「支配するのではなくむしろ群れの模範となりなさい」。
偉そうにするリーダーではなく、自分自身が模範を示す。口で言うほど簡単ではない在り方を、自分自身が示す。人に要求することを、自分自身がしてみせる。それはイエスご自身がペテロや弟子たちに仰っていたことであり、イエスご自身のやり方、神の方法でした[12]。かつて、この言葉で窘められたペテロは、それでもまだ理解できず、自分は違う、自分は頑張って、一番弟子として尊敬されたいと思っていました。そういうプライドは、ここで言われる
「卑しい利得」
の一つかもしれません。そのペテロが大きく変えられて、この手紙を書いています。「私が、私が」と背伸びすることなく、イエスが仕えてくださったことを土台に、謙虚な模範となる生き方を勧めています。ここに至るまでにペテロ自身が、裏切りや挫折や失敗や苦難の火をくぐり抜けてきたことでしょう。苦難の火に精錬されたペテロが、苦難を通してもますます輝くキリストの御業を証しして、ここで苦難の中にある教会に、良い業に励むよう勧めるのです。自分の気合いや頑張りで耐えるのではなく、キリストの苦難を思って、出来る善をし続けたらいい。それを喜べば良い、という口調です。そんな謙虚な証しを牧師や長老もして、それに育てられた人たちが、社会に散らされていき、それぞれの場所で苦難の火を通して、どんな試練でも消えない主の約束を信頼して、善を行う。キリストに与えられた新しい生き方の確かさ、苦難の意味、そして、ペテロという一人の人の円熟した姿をペテロの手紙第一から教えられます。
「主イエスよ、岩と呼ばれた頑固なペテロの晩年の手紙に、あなたの愛と御業を味わい知り、御名をあがめます。岩をも恵みに変え、困難の中でも祝福を分かち合わせてくださる主が、どうぞ今も、世界各地に散らされた教会、また私たち一人一人の歩みを通して、あなたの恵みの御業を現してください。今日の信徒総会を祝福し、この一年の歩みに御栄えを現してください」
[1] 「本書の一番の特徴は、キリスト者が経験する「苦難」の問題が多く扱われているという点にあります(1:6, 2:19, 3:14, 17, 4:1等)。その苦難はローマ帝国による熾烈なキリスト教迫害に拠りますが(4:12, 14, 16, 5:8)、そのような困難な状況の中にある信徒たちを励ます内容に満ちています。ローマ帝国によるキリスト教迫害の時期はネロ帝の時代(紀元62-66年頃)、ドミティアヌス帝の時代(紀元90-96年頃)、トラヤヌス帝の時代(紀元111年頃)の大きく三つに分けられますが、本書の背景となるのはローマ帝政きっての暴君であったネロの治世下であったと考えられています。これらの状況を知ったペテロが、主イエス・キリストの福音によって「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(2:9)とされたキリスト者たちを、熾烈な迫害の中にあっても御言葉に固く立って生きるようにと、自らの信仰の経験を踏まえつつ語っているのが本書の特徴と言えるでしょう。内容としては、信仰と希望と神の言葉による生活の勧め(1章)、聖なる国民として主に従う生き方の勧め(2章)、日々の実践的な教訓(3章)、信仰者の苦難の中での励まし(4章、5章)となっています。」 徳丸町キリスト教会聖書の概説
[2] 5章12節にはペテロ自身が「忠実な兄弟として私が信頼しているシルワノによって、私は簡潔に書き送り、勧めをし」と書いています。ペテロの書記をしたシルワノは、使徒15章22節などに登場する「シラス」と同一人物だと考えられています。シラスは、エルサレム教会からアンテオケ教会に派遣された、ギリシャ語に堪能で仲裁力のある弟子であったと想像できます。通訳としても文章を美しくまとめたのでしょう。ペテロの手紙の第二とはかなり文体が違います。それでも、ペテロが書いたという文章を否定するほどの理由はありません。
[3] 「苦難」:1:11「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。」、2:19「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。21このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。」、3:14「たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。」、3:17「神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。18キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。」、4:1「キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。」、4:13「むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」、4:15「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。16しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。」、4:19「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。」、5:1「私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。」、5:9「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」
[4] 「試練」:Ⅰペテロ1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、7試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」、4:12「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。」
[5] マタイ26:33-35。
[6] 「善を行う」もこの手紙の特徴です。「善を行う」ことで救われるのではありませんが、キリストの愛は、私たちがキリストからひたすら「善を行」っていただいたように、他の人にもひたすら「善を行う」ように変えていくのです。
[7] Ⅰペテロ2:18「しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。」
[8] Ⅰペテロ3章1~7節「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。2夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。3あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。4むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。5かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。
6たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。
7同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。」
[9] Ⅰペテロ3章8-9節「最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。9悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」
[10] Ⅰペテロ2章11節のみ。「愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」
[11] 続きは、「4そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。」です。
[12] マタイ伝20:26~28「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。27あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。これは、ヤコブとヨハネの母が、息子たちのためにイエスに、御国の左右の座(権威)を求めたのに対するイエスの答えとして述べられた言葉です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます