2020/5/24 コロサイ1章21-22節「キリストの命だけが」ニュー・シティ・カテキズム24
イエス・キリストというと、皆さんはどんなイメージが思い浮かぶでしょうか。よく絵に描かれているような、白い服を着て、長髪でヒゲを生やしている? 優しい顔で微笑んでいる? それと、十字架にかかった姿。その三つが多いかも知れません。
特に、十字架での死は、教会のシンボルにもなっています。十字架は、イエスの死が十字架刑での磔だったことに基づいています。それは、イエスが立派な人だったのに、最後は逆恨みをされて、十字架に殺された、という悲劇ではありません。イエスは十字架で死ぬことによって、私たちに命を与えてくださったのです。死ななくて済んだはずなのに、ではなくて、イエスの死こそが、しなければならないことでした。そのことを今日は改めてお話ししましょう。
「ニュー・シティ・カテキズム」では、イエス・キリストが私たちの贖い主であることをしばらくお話ししています。キリストは、ただの立派な人、聖人や宗教家ではなく、私たちを、神のものとして回復して下さるお方です。イエス・キリストは、私たちに、神の子どもという新しい、でも本来の生き方をくださるのです。
第二十四問 なぜ贖い主であるキリストが死ななければならないのですか?
答 死が罪の罰であるがゆえに、キリストは私たちを罪の力と刑罰から解放して神に立ち返らせるために、私たちの代わりにすすんで死んでくださいました。キリストの代理的な贖いの死によって、彼だけが私たちを地獄から贖い出し、罪の赦し、義、そして永遠の命を与えてくれます。
私たちが神を退けたことは、死に値します。どんな罪も、相手の命を踏みにじることですから、それは死に値します。私たちは自分の罪を軽く考えて、なんとか言い逃れようとしますが、神を恐れず、愛さなかった事、神が与えてくださった人間関係を歪めることは、途方もなく由々しいことです。私たちは、「神が大目に見てくれればいいのに」とか「赦してくれたっていいじゃないか」などとは言えないのです。罪の罰は、死です。しかし、神は私たちを死刑にして、殺して罰することで、罪を解決しようとはしませんでした。ここが、人間の法律と神様の正義の違うところです。
人間の法律、特に刑法では犯罪をした人を罰します。罰金を取ったり、刑務所に適当な期間留置したり、極刑と言えば死刑にします。それは、本人に罰を与えることで解決するやり方です。しかし、神はそういう解決ではよしとしませんでした。加害者が罰を受ける。それで終わりでは、神が願う正義とは到底なりません。実際、私たちだって満足できません。誰かあなたが信頼していた人がいたとしましょう。けれどもその人が、あなたから一万円を盗んだとします。そうしたら、警察が犯人を捕まえて、犯人のお金から一万円を取り戻したら、あなたの心は癒やされるでしょうか。一万円に罰金を加えて、二万か十万か百万円にしたら、あなたの心は癒やされるでしょうか。その人を刑務所にしばらく入れたらどうでしょう? その人を殺してしまったら? いいえ、どんなに罰しても、大事な人から裏切られたという傷、罪が心に与えたダメージが癒やされることはありません。むしろ、罰が重すぎれば、その分、私たちの心は恐怖や不安で病むことになってしまいます。罰だけでは、罪の償いは出来ないのです。
神は、人の罪を罰する代わりに、神の子イエスを遣わしてくださいました。神の子イエスが、私たちの身代わりに死んでくださる。そうして、イエスが私たちに命を与えてくださることによって、神に対して死んでいた私たちの心に、命が吹き込まれて、罪の力と刑罰から解放される。そうして、私たちが心から、神を恐れ、愛するようになる。ただ、罪の罰を恐れたり、なんとか罰を軽くしようとか考えるのではなく、心から、神を恐れて、自分の罪が悪かった、本当に申し訳なかった、そう思うようになる。
そのキリストの命が注がれる時に、私たちはお互いにも、関係の回復が出来ます。あなたから一万円を取った人があなたに、お詫びの手紙を書いてくるかもしれません。「私は、あなたから大切なお金を盗ってしまいました。私は、一万円を盗っただけでなく、あなたの心に、取り返しのつかない傷をつけてしまいました。私はあなたのいのちを、大きく損なってしまったことが、今分かりました。それがどんなに深く、怖く、暗い影をあなたにつけてしまったか、私には想像がつかないことを、私はようやく気づいて、本当に申し訳なく思っています。どうか、赦してください。お金をお返しして、私に今できる精一杯のお詫びも送ります。これからも、あなたの悲しみに必要なことを出来るだけしたいと願っています。本当にごめんなさい」。
こういうお手紙をもらっても、あなたはまだ悲しく、怖い思いがあるかもしれません。その人の言葉が信じられて、心が前よりも強くなって、安心して、世界を信頼できるようになるには、長い時間がかかるのです。でもそういう重さを深く弁えて、加害者が本当に申し訳なかったと心から変わる時、罪で傷ついた交わりが、本当の意味で修復されるのです。これが、神の義です。
21あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、22今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。
神と私たちの間に、キリストが来て、私たちの罪の罰を代わりに受けてくれました。神の側から、脅しや罰ではなく、和解が差し延べられました。その間にある罰を、キリストの死は見せてくれました。イエスが、私たちのために、命を捧げてくださった。この事だけが、私たちの罪に対して、神がなしてくださった、唯一の解決方法なのです。
教会のシンボルである十字架は、かつて処刑の道具、残酷で見るも汚らわしいものでした。しかし、その最も忌まわしい死を、最も聖なる神の子イエスが引き受けてくださったことで、十字架はイエスの死、私たちのための身代わりの死を思い起こすしるしとなりました。神は私たちを罰せず、聖なる者、傷のない者、責められる所のない者として御前に立たせてくださいます。なぜなら、イエスの命が十字架に捧げられたからです。
「贖い主、わが救い主よ、私たちを見捨てず、十字架の死とそれ以上の苦しみに耐えてくださったその御業に感謝します。あなたの死によって、私たちはとこしえに生きるいのちが与えられました。どうかあなたの死を覚え、私たち自身の死に直面する時、勇気と信仰と希望を持つことが出来ますように。アーメン」
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