聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/10/31 マタイ伝4章17節「ルターが書いたこと」 宗教改革記念礼拝2021年

2021-10-31 12:58:24 | マタイの福音書講解
2021/10/31 マタイ伝4章17節「ルターが書いたこと」

 10月31日は、1517年にルターが「九十五箇条の提題」を貼り出した日です。「九十五箇条」は当時の「免罪符(贖宥状)」販売を批判するものでした[1]。罪の赦しと救いをお金で買えるとしたら、いくら出しても惜しくはない、という気持ちも、分かる気がします。しかし、それはキリストが語り、なさったこととは違うのですね。「九十五箇条の提題」はまだ色々と未整理な文書ですが、しかしこれが宗教改革のきっかけになった文書です。特に、第一はこれです。

私たちの主であり師であるイエス・キリストが「悔い改めよ…」(マタイ4:17)と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。

 この一文から始まっているのです。
 ここで引用されているのが、今日のマタイ4:17です。

この時からイエスは宣教を開始し,「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。

 これがイエスの宣教の始まりでした。今までマタイの福音書をじっくり読み「天の御国」を教えられてきました。この福音書に、宗教改革との、切っても切り離せない関係があるのです。

 ルターは、続けて、「悔い改め」とは、当時の儀式としての告解(懺悔)とか、罪を悔いて悪かったと心の中で思うという以上のことだ、と言います。聖書の「悔い改め」とは「回心」です[2]。罪の後悔や「ごめんなさい」と謝る以上に[3]、神が私たちの神であるという事実に、心の考えを変えることです。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
の「御国」は「王国」という言葉で、王である神が治めておられる国です。そしてイエスは、この福音書で
「天の御国とはこのようなものです」
と色々な譬えで、神の御支配がどんなに憐れみ深く、驚くべきもので、王である神ご自身の謙りや犠牲によるかを教えてくださいます。イエスご自身、王なる神のひとり子、王子が、人となって人間に、罪人や軽んじられていた人々に近づいてくださいました。イエスが近づかれた事こそ、
「天の国が近づいた」
なのです。そのイエスを私たちが受け容れる。日々、生涯、自分が王や神になったり、神のあわれみとは違う考え方をしたりする生き方を、方向転換し続ける。それがキリスト者の全生涯なのです。だから、キリストがまだ遠くて、罪の赦しには何か足りないかのようにビクビクしたり、それをお金で売り買いしたりするようなことは、キリストが仰った事とは全く違うのだ、と言い放ったのですね。

43、貧しいものに与えたり、困窮しているものに貸与している人は、贖宥を買ったりするよりも、よりよいことをしているのだと、キリスト者は教えられねばならない。

 これも「貧しい人や困った人を助ける善行で、罪の赦しや天国に入る」ではないのです。それが良いのは、愛の行動そのものが人の心、生き方を良く変えてくれるから「良い」なのです。

44、なぜなら、愛のわざによって愛は成長し、人間はよりよくなるからであるが、贖宥によっては人間はよりよくならず、ただ罰からより自由となるにすぎないからである。

 まだここでルターは完全に贖宥とかカトリックの神学を否定している自覚はありません[4]。それでも、「贖宥状を買わなくてもキリストの恵みによって信じるだけで救われるのだ」という以上のことを言っています。私たちが生涯、神の憐れみ深い御支配に立ち戻り続ける。そういう福音を『九十五箇条』は打ち出したのです。第51提題ではこんなことを言います。

教皇は(もし必要ならば)聖ペテロ聖堂を売ってまでも[5]、あの人々に、─その大多数のものから、贖宥の扇動家たちが金銭をまき上げているのであるが─自分の金のうちから与えるべきであるし、またそのように欲している…[6]

 将にキリストはそうしてくださいました。罪の赦しのために、私たちに償いとか謝罪という犠牲や出費を求めたりせず、ご自身がその栄光を売り払って、ご自分の支払いで私たちに、罪の赦しを与え、神の国を与えてくださったし、そう欲してくださいました。そればかりか、生涯掛けて、神の恵みに養われて、主イエスを王とする生き方へと招いて下さった。それを卑しめて、どうしたら罪が罰せられず、死んだら天国という場所に入れるか、という方法に引き下げてしまっていたのが、当時の教会です。宗教改革は、その目的そのものを改革したのです。

命題95 そしてキリスト者は、平安の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって、天国にはいることを信じなければならない[使徒14:22]

 これも、天の御国はイエスが与えるともう約束しておられます。でもそれを、自分の平安(楽・保証)の延長のように考えるのではない、生涯毎日、神に立ち帰り、罪を捨て、苦しみを通して神に依り頼んだり、心を打ち砕かれたり、限界に気づかされながら、作り変えられていく。そういう歩みであると聖書が語っている。これが『九十五箇条』の結びです。

 ルターはこの文書を「宗教改革を起こそう」と思って書いたのではありませんでした。これはキリストの言葉と違う、おかしい、公に討論したいと、当時の習慣通り、この紙を貼りだしただけです[7]。ルターを勇敢な改革者だと美化するのは神話で、既に他にも多くの改革の動きは既にあったのです。そこに、この『九十五箇条』が貼り出されたのです。それが予想外の反響を呼んで、誰かがドイツ語に翻訳して、まだ新しいグーテンベルクの印刷術で大量印刷され、二週間後にはヨーロッパ中に広まりました。確かに、宗教改革の大きな転機になったのです。

 この事実自体が私たちにとっての励ましです。無名のルターの小さな誠実な行動が、まだまだ整理の不十分な文章が、大きな働きになりました。イエスが語ってくださった御国も将に、天の御国は芥子種のようだ、と言われていました。
 今も主がここに働いておられます。主イエスが求められたように、生涯、主の恵みの支配に立ち帰り続けましょう。罪赦された喜びと、御国の恵みへの驚きをいつも覚えて、私たちを捧げていきましょう。その時、小さな私たちの喜びや献身が、小さくない価値をもって、主の福音を届けて、神の国を始めていくのです。

「教会の主よ、今日、宗教改革記念日に、教会も恵みを忘れ、貶めやすいこと、しかしあなたが福音へと、みことばにより立ち戻らせて、生ける信仰を与えて、教会を新しくし続けてくださることを覚えて御名を賛美します。主が私たちのために罪の赦しをすっかり買い取ってくださった恵みを感謝します。あなたの恵みに信頼し、立ち帰り続ける生涯とさせてください。苦しみや困難の中でも、消えることのない喜びと希望を点し、御国を証しさせてください」

参考資料:『九十五箇条の提題』本文[8]

[1] ローマのサンピエトロ大聖堂を完成させるため、教会は「贖宥状」を大量に売りさばいて、収入を得ようとしたのです。

[2] メタノエオー 考えを変える、方向転換する。懺悔、後悔、謝罪ではない。マタイに五回、マルコに二回、ルカ九回、使徒5回、パウロ1回。名詞メタノイア、マタイ2、マルコ1、ルカ5、使徒6、パウロ4回。

[3] 第二箇条「この言葉が秘跡としての悔俊(すなわち、司祭の職によって執行される告解と償罪)についてのものであると解することはできない。」第三箇条「しかし、それは単に内的な悔い改めだけをさしてはいない。否むしろ、外側で働いて肉を種々に殺すことをしないものであるなら、内的な悔い改めはおよそ無に等しい。」

[4] 『九十五箇条の提題』は、贖宥の効力を完全に否定はしておらず、限定的に認めています。煉獄の存在も認めており、これらをルターが撤回したのは後のことです。この意味でも、本文書は内容的には未熟で「宗教改革の最初」と呼ぶだけの内実はありません。

[5] 実際は教皇レオ十世こそが、贖宥状の販売で儲けようとしていたのですが…。この辺りの詳しい事情は、Wikipediaなどをご覧ください。Wikipedia 95箇条の論題 https://ja.wikipedia.org/wiki/95%E3%81%8B%E6%9D%A1%E3%81%AE%E8%AB%96%E9%A1%8C

[6] また、命題81「贖宥についてのこのような気ままな説教は、信徒のとがめだてや、あるいはいうまでもなく鋭い質問から教皇への敬意を救ってやることが、博学の人たちにさえ容易でないようにしている。」、命題82「すなわち、「もし教皇が、大聖堂建設のためのもっとも汚れた金、すなわち、もっともいやしい理由によって無数の魂を贖うとすれば、なぜ教皇はもっと聖なる愛や魂が最大に必要とするもの、すなわち、すべてのうちでもっとも正しい理由によって煉獄をからにしないのであろうか」。

[7] 当時、学術論争を呼びかけるため、城の門扉にラテン語で貼り紙をすることは一般的。特に論争的だとか、勇気ある抵抗ではなかった。ラテン語のため、庶民には読めなかった。しかし、これがヨーロッパ中に印刷・送付された。ルターに先んじて、フスやウィクリフなどの改革者もおり、同時代のツヴィングリらの改革者もいた上で、ルターの文書は大きく教会と、ヨーロッパ社会を(意に反して)動かしていった。

[8] マルティン・ルター著/深井智朗氏訳『宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」』講談社学術文庫・2017年 

1 私たちの主であり、また教師であるイエス・キリストが「悔い改めのサクラメントを受けよ」と宣したとき、イエス・キリストは信じる者たちの生涯のすべてが悔い改めであることを願った。

2 その言葉が(司祭が職務上行う告解と償罪としての悔い改め、すなわち)サクラメントとしての悔い改めを指していると理解することはできない。

3 しかし、それはらだ内的な悔い改めだけを意図しているとは言えないし、それどころか内的な悔い改めが〔内的なものに対して〕外的なものである肉をさまざまな方法で殺すという帰結に向かわないなら、虚しいものになってしまう。

4 〔今ある〕自己を憎むということ(それは真の内的な悔い改めであるが)が続くかぎり、つまり天の国に入るときまで、罰は残る。

6 教皇は、神によって罪が赦されたと宣言すること、あるいはそれを承認すること以外には、どのような罪も赦すことはできない。また、自らに委ねられている責務に関する訴訟事項を赦すこと以外には(それゆえ、このような事項が見過ごされるなら、罪はなお残ることになる)、他のどのような罪も赦すことはできない。

7 神は、人間がどのようなことにおいても神の代理人である司祭に、謙虚に従っていないなら、誰の罪も赦すことはない。

12 以前は、教会法に基づく罰則は、真の痛悔を検証するために罪の赦しの後ではなく前に科された。

14 死を迎えようとしている者たちの癒しや愛が不完全であると、避け難いこととして大きな恐れがいつも付着してしまう。また、愛が小さければ小さいほど、恐れはますます大きくなる。

15 (他には何も語られなかったとしても)この恐れと慄きは、それ自体がすでに十分に煉獄の罰になっている。それは絶望という慄きに最も近いからである。

16 地獄、煉獄、天国の違いは、絶望、絶望への接近、救いの確かさの違いに対応している。

17 煉獄に置かれた魂にとっては、この慄きが軽減されるのに応じて愛が増し加わるのは当然である。

18 煉獄にある魂が功績を持つこと、愛が増し加わる状態にないことは、理性によっても聖書によっても証明されていない。

19 たとえ私たちが強く救いを確信しているとしても、煉獄にある魂が自らの救いについて確信し、また安心しているなどということは証明されていない。少なくとも〔そこに置かれている〕すべての魂がそのように確信しているということは証明などできない。

20 だからこそ教皇は、すべての罰についての完全な赦しを与えることで、それによって単純にすべての罰が赦されると理解するのではなく、それはただ自らが科した罰の赦しだけだと理解しているのである。

22 それどころか教皇が、この世で教会法の定めに従って解決されねばならなかった〔のに解決されなかった〕罰を、〔今は〕煉獄にある魂においては赦すことができる、などということはない。

23 あらゆる罰の完全な赦しを誰に与えるのかということになるなら、それは完全な人間に、ごくわずかなそのような人間にだけ与えられる。

25 教皇が煉獄に対してもっている権限と同じものを、その司教も、高位の聖職者も、それぞれの司教区、聖堂区に対して個別的にもっている。

26 教皇の鍵の権能(もちろん教皇はこの権限を煉獄ではもっていないのであるが)によってではなく、とりなしの行為〔代理の祈りとしての代禱〕によって魂に赦しを与えるのは最もよい行いである。

27 お金が箱の中に投げ入れられ、そのお金がチャリンと音を立てるや否や、魂が飛び立つ〔とともに煉獄を去る〕と教える人たちは、〔神の教えではなく〕人間的な教えを宣べ伝えている。

(以下、略)


ルターと宗教改革「95か条の提題」とは - - ドイツニュース

ルター95ヶ条の提題(日英対訳)500周年

宗教歌の原語演奏について ガハプカ奈美

九十五箇条の提題 Wikisource

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