聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ二三章26~31節「希望のある覚悟」宗教改革記念礼拝

2015-10-25 20:44:37 | ルカ

2015/10/25 ルカ二三章26~31節「希望のある覚悟」宗教改革記念礼拝

 

 土曜日、10月31日は、教会のカレンダーでは「宗教改革記念日」ですが、「ハロウィーン」だと答える人も多いでしょう。ハロウィーンのラッピングをした商品もやたらと目立つようになりました。翌11月1日が「諸聖人の日(万聖節(ハロウマス))」というカトリック教会の記念日で、聖人(ホーリー)たちを記念する前夜祭(イブ)から、なまってハロウィーンとなったそうです。昔からの迷信ともごちゃ混ぜになって、死者の魂が帰って来る日だと信じられ、日本のお盆のようでした。一五一七年、当時の大司教がこの日に当て込んで、免罪符を大々的に売りだそうと聞きつけたマルチン・ルターが、それに抗議をして「九十五カ条の提題」を公開したのです。キリストの尊い十字架の御業を差し置いて、罪を嘆く悔い改めも神に従う信仰もなしに、お金で救いを買い取れるような当時の宗教的な教えに対する、根本的な抵抗(プロテスト)がプロテスタントの始まりでした。

 今日の箇所、イエスがいよいよ十字架にかけられるために、十字架を背負ってカルヴァリへ行かれる道で、そのイエスの後についていった二種類の人々が出て来ます。ここには、宗教改革が「宗教と信仰との違い」を問いかけたのにも似た二つのあり方が見て取れます。一つは、26節の

「クレネ人シモン」

です。聖書に出て来る人物でも、最も「運が悪かった」人の一人かも知れません。北アフリカのクレネからエルサレムまで、祭りのために出て来て、そこにいたのでしょう。弱り切ったイエスの代わりに、十字架を担がされます。重くて苦しく、屈辱で、血で服も宗教的にも汚れて、この後の祭りの行事への参加も諦めざるを得ない出来事でした。せっかくの巡礼がぶち壊しになった。偶々(たまたま)そこに居合わせただけなのに、「なんで俺がこんな目に遭わなければならないのだ」と怒りや疑問や後悔が心中に渦巻いたことでしょう[1]

 しかし、ルカはこの出来事を不幸ではなく、ここに記すに値する出来事としました。抑(そもそ)も、彼の名前やクレネ人という出自や「いなかから出て来た」事情を知っていたのは、彼がいつからか教会に加わり、名前が知られていたからでしょう。マルコ十五21[2]やローマ十六13[3]などを合わせて、シモン家族が信徒となったと想像されています[4]。この時シモンは、最悪だと思ったでしょう。けれど、そのことを通して、主イエスに出会いました。なんで十字架など自分が、と思ったでしょう。しかし、今この十字架を担いでいたナザレのイエスこそ、最も十字架など負う必要のない方でした。十字架を担って歩けないほど憔悴しきっておられるのに、なお主は呪ったり呟いたりせず、嘲笑い敵対する民衆を見つめ、憐れみ、向き合っておられました。そのお姿について十字架を担ぎながら、シモンはどうにかして信仰を持つようになったのです。

 反対に、27節以下に出て来る「女たち」には逆のことが言われます。この女性達は、イエスに向かって胸を叩き、嘆きを現していました。しかし、イエスを十字架に着けよと叫んだ民衆に混じっていた訳ですから、それは本当にイエスを愛していたからというよりも、大袈裟なパフォーマンスだったのでしょう。いずれにしても、イエスは言われました。

28…「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。

29なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』という日が来るのですから。

 これは直接には、この後、四〇年ほどでエルサレムをローマ兵が陥落して、多くのユダヤ人が命を落とす出来事を指しているのでしょう。それは本当に大変な混乱と苦難の時です。この母としての深い嘆きは、小さい子を連れて逃げるのが大変だ、という以上に、大きくなった子どもも戦争に行き、殺されたと知った時の嘆きでしょう。子に先立たれる親の辛さの方が沢山あったはずです。山に向かって「崩れてきてくれ」と願うのは、もう生きていたくない、わが子達が死に、もう希望を持つことも出来ない、心が絶望してしまった叫びです。

 本来、子どもを持つことは、当然祝福です。今もそれは変わりません[5]。しかし人間が、自分達の人生の土台や幸せの基準を子どもでも何でも具体的な祝福そのものに置いてしまうと、それは、いつかは破綻する間違った生き方になります。
 でも私たちは、なかなかそうは思いません。幸せと禍とを光と影のように考えて、
 「自分達は幸せの側にいるから不幸は来ない」
とか
 「禍にあってしまったから、もう死んでしまったほうがましだ」
と考えてやすいのではないでしょうか。この女たちは、イエスのために嘆きつつ、自分に禍が降りかかるとは思っていません。イエスは、嘆きの日が来ることを思い起こさせなさったのです[6]。いいえ、ここだけでなく、主イエスも聖書全体も言います。神を蔑ろにして「いつまでも自分達の好きにやって平気だ、大丈夫だ、神も守ってくださる」と嘯(うそぶ)く人々に言うのです。

「神に背いたまま、自分の幸せ、人生、生き甲斐だと思っているもの。それは全ていつか必ず失われる。自分のために生きるのを止めて、神を神として崇め、神に従い、互いに愛し合う確かな人生に帰りなさい」

と。

 イエスは、この時確実に迫っていた厳しい現実への覚悟を突きつけます。でも、それ自体、主イエスの彼らに対する愛からでした。嫌みや強情さからではありません。ご自分が歩くのもやっとの極限状態で、しかも今正に十字架に釘付けにされるという恐ろしい苦しみを前にして、なおご自分のことよりも、あなたがた自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい、と言われるのです。厳しさの根っこには、愛があります。人生の現実への覚悟をさせたいのは、その先にある希望を、キリストに従う道にある確かな希望を持たせたかったからです。

 クレネ人シモンは、まさにそのイエスを間近に見たのでした。そのお姿を後ろから見ながら、イエスについて行きました。十字架を押しつけられ、失ったことは多くあったでしょう。しかしそれによって初めて、主イエスのお姿を間近に見ました。自分が十字架に掛けられる苦しみよりも、人々の苦しみや不幸、滅びを嘆かれるお方でした。

 そして、シモンの助けを必要となさる方でした。ご自分に代わって十字架につくことを求められたのではありませんが、シモンにもその十字架を担う助けを求められたのです。

 イエスが私たちを招かれる道は、自分の安全や幸せを追い求める道ではありませんし、人の役に立つことを証明する生き方でもありません。私たちを愛して十字架に掛かられた主に従うことは、私たちも痛みや恥や悲しみから逃げずに、愛をもって生きることを第一とすることです。禍や不幸や不運な出来事が降りかかっても、そこで嘆いて絶望して終わるのではなく、その中でなお私たちが助けたり助けられたり、ともかくともに歩んでゆくのが、神が招かれている人生の旅です。自分の幸せを第一に求める広い道から、主イエスに従う旅路へと導かるのです。幸せな将来を追い求め、傷や恥や損や苦しみを遠ざける生き方から回れ右をして、キリストの測り知れない愛を既にいただいている者として、自分を差し出していくのです。自分が出来る事も、自分が助けを必要としている弱さも含めて、自分を差し出す生き方を、イエスご自身が示しておられます。この主イエスを仰ぎ続けるから、私たちは最悪の出来事を通してさえ、私たちを招かれる主の導きを信じることが出来るのです。

 

「主よ。生きるからには覚悟が要ります。あなた様は、それを希望とともに与えてくださいます。どうぞ私たちを、この群れを、自分のためでなく、あなたのため、仕えるために存在させてください。あなたがすべてを私たちのために捧げられたように、あなたに従う事ですべてを失うとしても、そこでも私たちを担い、愛し続ける主の永遠の愛がありますから感謝します」

 



[1] 北アフリカから来たシモンは恐らく黒人ですが、群衆の中から彼を選んだことには、ユダヤ人やローマ兵にとっては、人種差別的な理由もあったのかもしれません。

[2] 「アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が」。

[3] 「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく」

[4] 実際、「26…この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。」という書き方は、以前イエス様が言われた言葉をそのまま使っています。「九23…「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」「十四27自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」

[5] 現代の少子化には「子どもを産んでも将来は暗くなるだろう。子どもも大変だし、自分達も育てる自信がない」という発想があります。それは、間違いです。キリスト者は、どんな時代の暗さにあっても、福音による希望を与えられてきました。今こそは、子どものいのちを、幸いとして確信する信仰が求められています。諦めや絶望は、決して今日の箇所から引いてくるべきメッセージではありません。

[6] この時のここでだけ、将来の禍(わざわい)を予告されたのではありません。同じ言葉は二一23でも仰っていましたし、エルサレム崩壊も二一章で予告されていたのです。また、30節の「山に向かって」は、旧約聖書のホセア書十8の引用です。

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