聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記三〇章(11-20節)「あなたのごく身近に」

2016-07-17 20:22:41 | 申命記

2016/07/17 申命記三〇章(11-20節)「あなたのごく身近に」

 20年前に、依存症の問題に関わり、アルコールやギャンブル、摂食障害などで苦しむ方々と出会いました。ある方がこんな言葉を紹介してくださいました。「回復とは元に戻ることではない。それは変化を言う」。忘れがたい言葉で、その後も、折々に私を支えてくれました。

1.立ち返り、元通りにし、連れ戻す(1-10節)

 今日の三〇章の前半には「回復」が予告されています。立ち返る、元通りにし、連れ戻す、再びあなたを栄えさせる、などなどの言葉は、元は同じヘブル語で、七回もこの「回復する」という言葉が使われるのです[1]。二八章には、主に逆らって、主に従わなければ、その契約違反にはどれほどの呪いがあるかと延々と述べる言葉が連ねられていました。前回の二九章でも、主に従おうとしない末は荒廃と異邦人の笑いものになることが書かれていました。しかし、そうした面もありつつも、この三〇章は、その裁きや荒廃の先にさえ、回復があることが語られています。神に背き通して、怒りを招いて、遠い国に追い散らされた、というのが1節です。そこで主に立ち返り、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、

 3あなたの神、主は、あなたの繁栄を元通りにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。

 4たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。

 主に逆らったから、罰せられて、異国の地で野垂れ死んでいくだけ、ではないのです。そこで、主に立ち返り、主の声に聞き従うことをもう一度始めるならば、それが主の回復の始まりとなるのです。どんなに遠くでも、主はそこから連れ戻す、というのです[2]。何とありがたく、尊い約束でしょうか。遠くの流刑地に追っ払って、あとは知らない、ではない。そこで人が立ち返り、生き方を改めるのを、じっと待っているかのようですね。遠くにやったのも自分の間違いに心底気づいて、立ち返るためであったようですね[3]。この主でなければ、彼らは滅んで、異国に骨を散らすしかなかった。そう思うと、この異国での回復自体が、人間が心を入れ替えるという以前に、主が彼らを導いて、回復させてくださったからに他なりません。

 6あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。

 こう言われるように、主が、心を包むものを切り捨ててくださるのです。心を尽くし、精神を尽くし、主を愛するようにしてくださるのです。主の恵みが先行しての立ち返りなのです。

2.みことばはあなたのごく身近にある(11-14節)

 こういう回復の約束をした上で、11-14節には、主の命令が難しすぎないし、遠くに掛け離れてもいないし、天の果てや海の彼方にあるのではない。

14まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。

と言われます[4]。でも、「行うことが出来る」と言っても、さっきは行えなくて呪いを招くことが言われたのです。そして、そこから回復され、今度こそ主を愛し、主に心から従うようになる、と言ったばかりですね。ですから、ここで「御言葉は、難しすぎず、遠く掛け離れた所にあるのでもない。あなたはこれを行うことが出来る。」というのも、他の聖書の言葉と同様、聖書の規則は頑張れば誰でも守れる、というような意味ではないはずですね。そういう表面的な規則遵守を神は求めておられるのではないのです[5]。むしろ、そういう形式的なことだけを考えて、本当に神を愛し、心から神に従うという関係が抜け落ちていた民が、神の怒りを受けて違法の地に追いやられ、そこで自分の深い間違いに気づいて、神を慕い求めるようになる。いいえ、主が民のうちに働いてそうさせてくださる、のです[6]

 主は私たちに、ただ規則を求められ、「やれば出来る筈だ」と仰って、出来なければ最後には怒って滅ぼす、という方ではありません。そういう方ではないことが最もハッキリするのが、この申命記三一章です。主は、私たちが主を愛し、心を尽くして主に従うようにさせる。その動機にあるのは、主への心からの信頼ですね。「呪われたくないから従おう」とか「怒られない程度に従っておこう」。そんなふうに、神を卑しく、詰まらなく考えていた考え自体をひっくり返すのが、神の裁きと赦しです。キリストの十字架と復活です。神ご自身が、私たちの心の中にある、御言葉に従えない限界をご存じです。頑なな罪から、忘れっぽさまで、また過去に受けてきた傷やどうしようもなくネガティブに神を考えてしまう考えまで、神はご存じです。しかし、その私たちを全て知り尽くした上で、神は私たちとともにおられます[7]。私たちの身近におられます。キリストは、私たちのそばに来てくださったのです。

 その事に気づく時に、私たちの生活そのものが深い所から違うものになっていくのです。恐れや孤独や、思い上がりや人を排除する生き方が変えられていくのです。御心に従わなければならない、そうしなければ神に怒られる、という事でさえありません。神が私たちを愛され、私たちの人生に深く働いて、失敗や痛みを通りながらでも、神への信頼に立った生き方をさせてくださる。そうしてここで、家族や他者との関わりも新しくされる[8]。そういう「身近」さです[9]

3.あなたはいのちを選びなさい(19節)[10]

 諄いですが、この

「いのちを選ぶ」

とは私たちが主の命令に頑張って従うことではなく、

16…あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るよう…

と言われる通り、根っこにあるのは主の愛です。誤解を恐れずに言えば、たとえ主の命令に私が背き通して、勝手な生き方をし、欲に目が眩んで人を裏切ったり騙したりした挙げ句、その報いが全部自分に返ってきて、人生が滅茶滅茶になったとしても、それでもそこでこそ、主は、自分の愚かさに気づかせ、再び主に従うよう立ち上がらせてくださり、喜びと祝福を惜しみなく与えて下さるお方だ。だからこそ、今ここで、私にとって最も身近な助けであり、唯一のいのちの道として、主の言葉を守る。そういう選択なのですね。

 しかし、こう言われても、聖書の民は主から離れて、御言葉に背いて止みませんでした。ひと言で言えば、こう

「いのちを選びなさい」

と単純に割り切れるものではないのが人生だからです。初めから、「いのちよりも死を選ぼう。祝福よりも呪いの方が良い」と御心に背く人などまずいないでしょう。正直であるよりも嘘を言った方が苦しまないで済みそうだとか、人から笑われたくないから悪いとは分かっているけど同じ事をするとか。そういう時は、私たちは、神への信頼ではなく、恐れに囚われています。失うことを恐れて、守りに入って、選択を誤るのです。でも、それはますます私たちの心をカサカサにしてしまいます。信仰は、決して人生を単純にはしません。人生が単純ではなく、複雑だからこそ、あえて

「あなたはいのちを選びなさい」

と言われるのですね。主が私たちの身近にいることを見失って、その時の愚かな判断をするのでもないし、主を冷血漢や暴君のように恐れ怯えて、表面的な正しい行いをするのでもないのです。天地を造り、私たちを愛し、私たちのいのちと祝福を願い、私たちがボロボロになってもなおそこから、心を神に向けて立ち返らせ、共に歩んでくださる神。その神への信頼をもって、御言葉に聴きながら、いのちの道を歩ませて戴くのです。この私たちと、主イエスはともにいてくださいます。主の言葉は、私たちにとって、本当に身近なものです。私たちの生活を、恐れや守りから、嘘や打算から守ってくれます。人の声を気にしたり期待に応えなきゃと背伸びをすることから自由にしてくれます。毎日にいのちを、喜びを吹き込みます。[11]

「主よ、あなたの恵みによって、私たちの心を取り戻してください。あなたとともに過ごす時間を持ち、感謝と信頼をもって、御言葉に従わせてください。私たちが祈る以上に、あなたが私たちに祝福を願っておられます。ともにおられ、語り掛けておられます。その声に安らいで、主の愛をいただいた者として出て行きます。私たちの人生を通し、御栄えを現してください」

 

今日は「徳島宣教協力会」の定期集会、「ゲーム&フェローシップ」が、鳴門キリスト教会を会場に行われました。

かき氷タイム、ゲーム、メッセージ、よいひとときでした~
写真は、賛美のリハーサルです。 



[1] 「戻って来る」がキーワード(Thomas W. Mann, Deuteronomy, (WBC.) p.50) 七回:1(心に留め)、2(立ち帰り)、3(元通りにし)、8(再び…する)、9(同)、10節(立ち帰る)。

[2] 現代の「イスラエル共和国」がこの成就だとみるひとも少なくないが、悔い改めや従順ではなく、単なる民族主義・政治的な建国でしかないと思う。

[3] なぜ悔い改めるのでしょうか? 自分たちの非を認め、心から主を慕い求めるから、でしょう。ただ「災いが恐ろしいから、怒りを避けたいから」ではないはずです。しかし、もし私たちの悔い改めも「あのやり方はまずかった。失敗した」というレベルでの「悔い改め」(後悔、反省)であれば、それは聖書が示す「悔い改め」とは全く違います。そうではなく、「本当に自分が悪かった」と生き方を大転換するものである。最初に戻り、やり直すではなく、全く新しい心持ちで主を慕い、従うようになる。そのためには、私たちは、痛みや挫折、行き詰まりが必要な事が多い。それは、神の意地悪や裁きである以上に、恵みであり、必要なステップなのだ。

[4] 「ごく身近にある」のは、神の愛の証しです(四6-8、詩篇十九7-11、一一九篇)。

[5] それが「あなたの口にある」のは、ただ口先で唱えられるだけではなく、「蜜のように甘い」(詩篇十九篇)であり、「あなたの心にあって」も、ただ知識としてあるだけでなく、心を燃やす(ルカ二四章)言葉としてあるのである。

[6] この部分は、ローマ書十6-8でパウロが引用しています。「しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。7また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。8では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ここでは、「御言葉が近くにある」が「キリスト(ロゴス)が私たちの近くにまで来てくださった」ことに直結して展開されています。神が遠くにおられるように考える事は、キリストが私たちの近くにまで来てくださって今も共におられることを否定することになる…と。

[7] 人間にどれほど愛を注いでおられ、私たちの心の罪を悲しんでおられ、そのために御自身の究極の犠牲をも惜しまないほど、私たちの心と生き方が変わり、神を愛し、また互いに愛し合うように導かれるか、に気づくのです。

[8] 「いのちを選びなさい」 自分のいのちを殺さないような選択、ということもあるが、聖書からすると「いのち」は愛。憎む者、殺す者にいのちはない、とⅠヨハネが繰り返す。「いのちを選びなさい」も、自分にとってだけでなく、他者とともにあるいのち、共同体的ないのちの回復、自分の豊かさや好みを時には捨ててでもいのちを生かす道を選び、建て上げていく、ということでもないか? 決して個人主義的に理解しないこと。

[9] 8節「主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行うようになる。」は、<行うから祝福される>ではなく、聞き従い行うことそのものが祝福であり、神のわざである、という文章になっています。

[10] 15-20の中心テーマは「いのち」です。(いのち:四回、生きる:二回)

[11] 神への慕わしさと信頼、心からの従順へと導かれ、それが隣人関係・共同体形成に繋がっていく。それこそが、神のご計画である。

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問22-3「私は信じます」Ⅰコリント一五章1-2節

2016-07-10 17:53:46 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/07/10 ハイデルベルグ信仰問答22-3「私は信じます」Ⅰコリント一五章1-2節

 

 世界には沢山の教会があります。クリスチャンは二〇億人いると言われています。鳴門の教会にも、今、六つの国の人たちが一緒に礼拝をしています。言葉ややり方はとても違っているでしょうが、みんな同じ信仰を持っています。キリスト教の基本的な信仰は一つです。そして、その世界中のキリスト者たちと一緒に私たちが告白している信仰について、今日から学んで行きましょう。

問22 それでは、キリスト者が信じるべきこととはなんですか。

答 福音においてわたしたちに約束されていることすべてです。わたしたちの公同的な、確固たるキリスト教信仰箇条がそれを要約して教えています。

問23 それはどのようなものですか。

 それは「使徒信条」なのです。

使徒信条「我(われ)は天地(てんち)の造(つく)り主(ぬし)、全能(ぜんのう)の父(ちち)なる神(かみ)を信(しん)ず。我(われ)はその独(ひと)り子(ご)、我(われ)らの主(しゅ)、イエス・キリストを信(しん)ず。主(しゅ)は聖霊(せいれい)によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦(くる)しみを受(う)け、十字架(じゅうじか)につけられ、死(し)にて葬(ほうむ)られ、陰府(よみ)にくだり、三日目(みっかめ)に死(し)人(にん)のうちよりよみがえり、天(てん)に昇(のぼ)り、全能(ぜんのう)の父(ちち)なる神(かみ)の右(みぎ)に坐(ざ)したまえり、かしこより来(きた)りて、生(い)ける者(もの)と死(し)ねる者(もの)とを審(さば)きたまわん。我(われ)は聖霊(せいれい)を信(しん)ず、聖(せい)なる公同(こうどう)の教会(きょうかい)、聖徒(せいと)の交(まじ)わり、罪(つみ)の赦(ゆる)し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信(しん)ず。      アーメン。」

 朝の礼拝では、この「使徒信条」を毎回最後にみんなで言っていますね。それはただ呪文のように唱えているのではありませんよ。これこそ、私たちの信じ、告白している内容なのです。意味も分からないまま、ただ唱えるのではないように、これがどういう事なのか、知っていくのは大切な事です。これから、ハイデルベルグ信仰問答では、この使徒信条を問24から問58まで解説しながら、神が私たちに下さった福音がどんなことなのかを説き明かしていきます。一つずつ、見ていきましょう。前回お話ししたように、それは、ただの知識だけではなく、私たちに、天の神への「心からの信頼」を与えてくれるような素晴らしい約束です。分かれば分かるほど、私たちの心は、神様への信頼と、慰めや喜び、希望、勇気を持てるようになるのです。

 使徒信条は、聖書にそのまま書いてあるわけではありません。今読みました

Ⅰコリント十五1兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。

 3私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

 4また、葬られたこと、また、聖書の示す通りに、三日目によみがえられたこと、

 5また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

とありました。初代教会でもこのように簡潔に「福音」をまとめた告白を持っていたわけです。その後、何百年かかけて、教会が色々な問題や課題に取り組む中で、まとめ上げていったのが、この「使徒信条」です。昔は「使徒」たち十二人が、一言ずつ持ち寄って出来た信仰告白だから、「使徒信条」というのだと考えられていたそうです。でもそうではないことはハッキリしています。それでも、この内容は、使徒たちが聖書で告白している内容と一致していますし、簡潔に教会の信仰を言い表していますから、これは「使徒信条」と呼ばれたまま、世界中で用いられているのだそうです。他にも、教会の最初の数百年で定まった「信条」にはいくつかあるのですけれど、この「使徒信条」が一番短いので、使いやすいのでしょう。鳴門の教会で、「使徒信条」を告白する事は、一千年以上教会が告白してきた信仰に繋がっていくことでもあるのです。

 この「使徒信条」では「我は信ず」と言います。「私たち」ではなくて、「私は信じます」と言います。一人一人が、自分の事として、信じます、とハッキリ言うのです。しかもこれは、ただ

「天地の造り主、全能の父なる神がおられることを信じます」

「そのひとり子、我らの主イエス・キリストがおられることを信じます」

というだけではありません。本当に信仰とは「心からの信頼」です。この「信じます」には、信じてお任せします、もっと言えば、「飛び込んでいきます」というぐらいの意味があるのです。天地の造り主、全能の父なる神がおられると信じるだけでなく、その方の中に飛び込んで、自分をお任せします。主イエス・キリストを信じて、自分を全部お任せしてお従いします。そういう「信じます」なのです。それぐらい、聖書の福音は、私たちにとって信頼するに足るもの、素晴らしく確かなものなのです。

 こんな譬えを考えてみました。皆さんは、どちらに乗りたいですか。

 一つは空飛ぶ絨毯です。空を飛んで、どこにでも行く事が出来ます。行きたい所に連れて行ってくれるのです。ただし、乗っているあなたが、この空飛ぶ絨毯を信じていることが必要です。疑い始めると、空を飛ぶ力が段々なくなっていくのです。だから、信じることが必要です。もう一つは大きな船です。この船は決して沈むことなく、必ず目的地に到着します。私たちが行き先を変えることは出来ません。また、嵐に遭えば、かなり揺れます。でも決して難破することはありません。大丈夫かなと思ったり、まだかなぁと待ち遠しくなったりする時もあるでしょうけれど、安心して任せていればいいのです。さて、どちらの乗り物の方が「信頼」できると思いますか。信頼しないと落ちてしまう空飛ぶ絨毯でしょうか。頑丈に出来ている大きな船でしょうか。

 私たちが「信じます」というのは、神が信頼できる方であり、福音が信頼するに足る確かな約束だからです。それを私たちがどれほど信じているか、で成功したり失敗したりするような事ではありません。だからこそ、私たちは

「我は信ず」

と言うのです。そしてこれほど信頼できるものは、この神の福音以外にありません。自分や人は当てになりません。でも、この私たちを天の父なる神と御子イエスと聖霊とが確かな約束をもって導いていてくださいます。人生は、揺れたり波にもまれたり嵐に襲われたり、色々なことがありますけれど、私たちはこの確かな信条の船に乗って旅を続けているのです。

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申命記二九章(10-18節)「未来を託す神」

2016-07-10 17:50:52 | 申命記

2016/07/10 申命記二九章(10-18節)「未来を託す神」

 先週は世界宣教週間でしたが、今日は日本の選挙です。日本の政治を選ぶ大事な決断です。そして今日の申命記二九章は実にタイムリーな箇所だと、数週間前から思ってきました。

1.主が私たちの神となられたから

 そうです。申命記では、諄いほどに繰り返して、神の言葉を守り、神だけを神として生きる事を述べてきました。その契約が、五章から二八章までの内容でした[1]。特に、前回の二八章では、契約を破った場合の呪いが長々と語られていました。契約を破った場合の呪いを詳しく記すのは、聖書の書かれた時代背景では当然のことで、申命記もそのやり方に則って書かれています。けれどもこの二九章ではもう一度原点に立ち戻って、語り直すのです[2]。2-8節で、もう一度、エジプトから今日までの四十年の間に、主がどのように力強く民を導き、養い、ここに至らせて下さったかを振り返るのです[3]。まるで「二八章ではのろいのことを長く述べたけれども、しかし『呪いが嫌だから主に従う』のではないのだ。『神の怒りが恐ろしいから契約を守る』、そういう動機ではないのだ。主が、私たちの神となって下さった。私たちを御自身の民として、本当に恵み豊かに導き、支えて下さった[4]。そして、この神こそ、唯一の本当の神であられるから、お従いするのだ」と確認するようです。決して「怒らせると怖いから」ではないのです。神の御業、恵み、養い、私たちをご自分の民としてくださった幸いに基づくのです。10-11節で言われるように、かしらから庶民、女子ども、在留異国人や奴隷たちに至るまで、すべての人々を等しく、御自身の宝としてくださった神です。また、この契約は、

15きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。

と言われるような、この先にも続いていく、歴史的な繋がりも持っています。本当に広く、豊かな、大きな契約を戴いているのです。だからこそ、そのような神に対する人間の応答が大事なのです。神の恵みと真実を受け止め、神の民として生きる。それをあえて踏みにじる無礼を選ぶなら、どんな呪いも甘んじるのが人間として当然だと、もう一度確認されるのです。

2.神は、私たちに未来を託される

18…あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。

 面白い表現ですが、聖書でしばしば使われる言い方です[5]。心の中に出て来る、毒のような、苦(にが)く拗(ねじ)けた、歪んだ思い。神に対してさえ高ぶって、自分も人も毒すだけの心。それは、

19こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある」と心の中で自分を祝福するものがあるなら、

20主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう。

という無責任で、思い上がった態度に現れますし、それに対する徹底的な裁きがずっと書かれています[6]。24節以下にはそういう荒れ果てた地を見た外国人の会話が書かれています。外国人の目から見ても、「本当によくしてくださった自分たちの神を捨てるなんて、彼らは全く愚かだ」という語調です。「彼らの神は厳しくて血も涙もないなぁ」とではないのです。

 聖書の神は、人間に応答をお求めになります。人間の応答次第で、将来が変わると言われるのです。言い換えれば、神は人間の選択に未来を託されるのです。神に

「私の人生はどんな人生になるのか。この先、何が起き、どんな事が降りかかるのか。神なら分かるでしょう、教えてください」

と聞けたとしても、神は

「あなたが、わたしにどう応えるかで、あなたの将来は変わるのだ」

とお応えになるのです。その時その時、私たちがどんな選択をするかで、人生は大きく変わるのです。歴史は決まったレールの上を辿って真っ直ぐ進むのではなく、人間の決断で大きく左右されるものです。神の御支配を人間が勝手に決めつけて「自分がどう生きようと神が決めておられる通りにしかならないのだから、好きなようにしよう」と言うのは間違いです。そうやって自分の責任を放棄し、神のせいにするなら、その態度そのものの責任を問われるのです。選挙も、投票に行きもせず、「なるようにしかならない」なんて考えたら間違いです。「自分の一票ぐらい、あってもなくても変わらない」。みんながそう思ったら、恐ろしい結果を引き寄せます。一票は何十万分の一でも、確かに私たちはその何十万分の一かの、自分の分の責任はあるのです。神は人間の応答を大事にされます。未来を変えることは出来なくても、未来に参加する自分の責任を果たしたかどうかは、一人一人が問われます。私たちが恵みに応えて自分の与えられた分を大切に受け止め、一票を投じ、御言葉に従い、礼拝を守り、祈りや献金を献げ、人を愛し、正しく憐れみある業をする。それが、歴史を紡ぐ神の方法です。

3.隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、…(29節)

29…しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。

 私たちには分からないこと、隠されていることも、神、主はすべてを支配しておられます[7]。しかし私たちは全てを隠されているわけではありません。神が、私たちに現して、託してくださった私たちの分もあるのです。それによって、私たちは

「このみおしえのすべてのことばを行う」

のです。自分の責任を棚に上げて、「神様にしか分からない」「全部神様が決めている」と逃げてはならないのです。勿論、聖書の教えに全ての事が記されている訳ではありません。何が御心か、「正解」を選ぶ、という意味ではなくて、自分で考え、祈り、悩んで、しかし主への信頼をもって選択するのです。主を神として選ぶなら、右か左か、進むか退くか、どっちが良くてもう一つは悪いということではありません。結果が裏目に出たり、反対にあったり、失敗になったとしても、「あの時の選択は御心ではなかった」という事でさえないのです。私たちの神は、そんな心の狭いお方ではありません。「正解」を選ぶよりも、神の愛への感謝や、人への共感、自分に与えられた責任への誠実さこそ、神の願われるご計画なのです。

 不思議なことです。これだけの力ある神が、人間の応答を求められるのです。ロボットのようにいっそ強制的に従うような存在を造ることも出来たでしょうに、神は、人間が心から応答することを求められます。私たちの選択を尊重され、神が造られた世界の歴史の行く末を、私たち人間に託されるのです。勿論、神には神のご計画があり、それを人間が挫いたり変更したり出来る訳ではありません。しかし、神のご計画そのものが、私たちが心から神を信頼し、神の御心を喜んで生きることなのです[8]。天地の神が「私たちの神」として信頼し、私たちを愛し、尊い責任を託されたことに感謝して、自分のなすべき分を果たしていくのです[9]

 イエス・キリストは、私たちを神の民としてくださいました。それは、ただ罪も赦すとか、神が最善をしてくださると言い訳して責任逃れをする、怠惰な宗教ではありません。神の恵みに気づかされ、神に感謝をもって応える信仰です。心の

「毒草や苦よもぎ」

皮肉や狡さや、信仰的なふりをした無責任を退けて、自分を捧げ、神の恵みに応えていく主体的な信仰です。社会的立場や国籍、年齢、様々な私たちが、ともに主の前に生かされていくのです。私たちに出来ることは僅かです。たった一票、焼け石に水、舌足らずの祈り、あってもなくても変わらないようでも、しかし神は私たちの毎日に未来を動かすほどの価値を与えられたのです。私たちの精一杯の応答を喜ばれます。それを用いて、未来を祝福されると信じて励まされるのです。

「私たちの神である主よ。あなたは私たちを治め、愛し、養い、あなたを愛することをお求めになります。どうか、与えられた価値を蔑み『自分一人ぐらい』などと思わぬよう、託された責任を軽んじないよう、お守りください。一人一人の今の生活でなすべきことを果たせるよう助けてください。小さな微笑み、愛の一言、ささやかな祈り、精一杯の決断を祝してください」



[1] 1節は、二八章の結び。「これ」は五章から二八章までの内容を振り返る言葉。

[2] 2節は、モーセの三度目の言及(一1、五1)。

[3] 2-8節、ナラティブのスタイルで契約にいたるプロセスを確認(命題的にでなく)するのは、古代近東の契約定式に即した叙述形式です。

[4] 6節の「私たちの神であられる」とは支配だけではなく、養い、憐れみ、責任、愛情を含む、人格的な関係です。神が私たちの神となり、私たちが神の民となる、という定式は、聖書の契約関係を表している重要な概念です。

[5] 「毒草や苦よもぎ」三二32、ホセア十4、アモス六12。

[6] 「23-その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである」は、申命記の中でも最も荒れ果てた滅びの状態です(McConvile)。

[7] 私たちが神に何かを隠すことも出来ません。

[8] それは、本当に私たち人間の理解を超えた神秘です。頭で理解しようと思っても無理です。分かりきることは出来ませんが、その測り知れないご計画と力をお持ちの神が「私たちの神」となってくださいました。

[9] そして、この「私たちの神」は、憐れみ深く、赦しに富んでおられます。「わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライム[イスラエル]を滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるから。わたしは怒りを持っては来ない。」(ホセア十一9)。神は、怒りをもって滅ぼす神ではなく、ご自分の民を何とかして正しく歩まそうとなさる、あわれみの神であります。

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問21「心からの信頼」ローマ書4章18-20節

2016-07-03 15:05:42 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/07/03 ハイデルベルグ信仰問答21「心からの信頼」ローマ書4章18-20節

 

 「心からの信頼」。今日のタイトルは、ハイデルベルグ信仰問答21の答から取りました。では、「心からの信頼のことです」が答になる、問とはどんな問でしょうか。どんな問に対して、「心からの信頼」という答をするのでしょうか。

問21 まことの信仰とは何ですか。

答 それは、神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる心からの信頼のことでもあります。それによって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです。

 答が長すぎて分かりづらいので、分解しておきましょう。

  • 確かな認識   神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する
  • 心からの信頼  福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる
  • まことの信仰によって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられる
  • それは全く恵みにより、ただキリストの功績による

 ここでは、信仰が

「確かな認識」

ですよ、でもそれだけではありませんよ、

「心からの信頼」

のことでもありますよ。そういう

「まことの信仰」

によって、私たちには

「罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられる」

のですよ。そして、この「まことの信仰」とは

「全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです」

と、こう説明しています。

 このハイデルベルグ信仰問答が書かれたのは、16世紀、宗教改革の時代です。それまでのカトリック教会の考えでは、信仰とは、全部これと反対になっていたのですね。特に、普通の庶民にとっては、信仰は手が届かない。立派な聖人や司教などになれば、知識も増えます。よく聖書や神学もよく知っているけれど、民衆にはそんなものは手が届きません。だから、神を心から信頼することも出来ません。罪の赦しと永遠の義と救いとを戴くにも、信仰だけでは不十分で、善い業をしたり、献金をしたり、巡礼に出かけたり、何かしら埋め合わせをする必要があると考えられていました。そういう中で、当時の人たちが持っていたのは、

「まことの信仰」

とは何ですかと聞かれても、決して

「心からの信頼です」

という答は出て来なかったと思うのですね。私たちが神様を心から信頼する、というよりも、私たちはまだまだ足りない、自分の信仰じゃとても無理、と思ってしまいますね。そう思い込んでいた時代に、宗教改革が起こりました。そして、聖書をよく調べて、キリストの十字架と復活の福音は、どれほど大きいかを説き明かすようになりました。神様がどれほど大きく、聖いお方か、その約束がどれほど素晴らしいか、人間がただキリストの恵みによって救われるのであって、私たちが自分の行いとか何かを足したりする必要はないことを、教えるようになったのですね。

…神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のこと…

という部分は、まずその聖書の真理を私たちが受け入れることの大切さを教えていますね。ところが、教えや知識の勉強は、大事ですけれども、それが頭の知識だけで終わることもよくあります。宗教改革の時もそうでした。聖書の話を聞いて、福音を理解する人が増えていきました。これまでの教会の教えが間違っていたことを人に教えることが出来る人もどんどん出て来ました。けれども、それが「認識」(知識)や頭の中だけの事で終わっている。その人の心に、キリストに対する生きた心からの信頼がない。そういう問題が、ここで意識されているのだと思います。

…その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる心からの信頼のことでもあります。

 認識や知識だけではありませんよ。心からの信頼でもあるのですよ。それも、私たちが自分で神を信頼するのではなくて、聖霊が私のうちに起こしてくださる心からの信頼なのです。私たちが福音についてどれほど正しい知識を持って、ちゃんと理解しているか、以上に、福音とは、神が私たちを恵みによって贖い、私たちの神となって下さった、という知らせですね。その神に私たちは心から信頼するのであって、それをどれ程私たちが正確に分かっているか、どれほど心から信頼しているか、という私たちの側の完璧さを考えると、本末転倒になってしまうのです。私たちがどれほど

「心からの信頼」

をしているかどうか、ちょっとも疑っていないか、火事や交通事故にあってもビクともしない信仰かどうか、そんな私たちの側の足りなさは問題ではないのです。私たちは、まだ弱かったり分かっていないこともいっぱいあったりしますね。段々老人になれば、色々なことを忘れて最後は何にもボケて覚えられないかもしれません。それでも、イエス・キリストは私を忘れず、ずっとともにいてくださいます。私の間違いや足りなさでダメになる関係ではなく、大きな愛と真実で、私を御自身のものとしてくださったのです。そういう聖書の知識は、ただ頭で分かるだけではなく、私たちに心からの信頼を生み出すはずです。聖霊が福音の説教や聖書の学びを通して、私たちの中に、生きた信頼を起こして下さるのですね。そこには、

「罪の赦しと永遠の義と救い」

が与えられます。それは、私たちの知識や信頼とともに神が与えて下さる恵みです。決して、私たちの信仰や知識や心の純粋さによって勝ち取る、というのではないのです。

 …他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。…

 面白い表現ですね。他の人々のみならず、この私にも。でも、牧師をしていて、私もよくあります。他の人には、

「大丈夫ですよ。神様がいてくださいますよ」「イエス様の愛は、どんな人をも受け入れて下さいますよ」。

 そう言いつつ、自分の事となると、どこか不安だったり、恐れていたりします。人には罪の赦しと救いをお話ししながら、自分も本当にそうだと実感しているわけではない。

「僕は大丈夫かな、ダメなんじゃないかな」。

 そんな不安を持っていることに気づかされることが何度もありました。でも、そうやって、自分の勘違いや恐れに気づかされては、いや、神はもっと大きな方、本当に真実な方、心から信頼できるお方。これから先、何があろうとも、信頼できるお方なんだ。そう思えて生きていけるのは本当に幸せですね。

 もし不安や恐れがあっても、自分が何かをすることで心を埋めようしてはダメです。静かにゆっくり御言葉に聞き、それを味わい、心の信頼にまで深めるように、思い巡らしましょう。主の一方的な、大きな愛を知ることで、心からの安心と力を戴きましょう。

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マタイ二八章16-20節「あらゆる国の人が」 世界宣教週間

2016-07-03 15:02:22 | 説教

2016/07/03 マタイ二八章16-20節「あらゆる国の人が」

 「世界宣教週間」にあたり、日本長老教会の海外宣教の働きを覚えます。お配りした「海外宣教報」にありますように、中国やタイに遣わされている宣教師、バングラデシュやインドの長老教会との協力関係、そしてここにいる諸外国の方々の母国を特に覚えたいと思います。

1.イエスには、天地のいっさいの権威がある(18節)

 今日のマタイ二八章、マタイの福音書の最後の数節は、「大宣教命令」とも言われて、世界宣教の根拠としてよく読まれる言葉です。この部分を読みますと、私たちの宣教がとてもユニークなものであることに気がつきます。ここでイエスは、

二〇18…わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

と仰っています。権威が与えられています、と宣言しておられます。世界における権威はイエスにある、と事実を述べておられます。決して、「世界におけるわたしの権威が奪われている」と仰ったのではありません。「この世は悪の権威が支配していて悔しい。あなたがたに、わたしの権威を授けるから、世界に出て行って布教活動をしてきなさい」と命じられたのでもありません。イエスは天地における権威を既に与えられています[1]。イエスは、天地における権威であられます。キリスト教を知らない人、信じようとしない人に対してさえ、イエスは権威を持っておられます[2]。言い換えれば、イエスは天地の造り主なる神ご自身であるということです。

 先週お話ししましたように、聖書の最初の創世記では、世界の造り主なる神が、神に背いて悪を計るようになった人間の中にさえ働いておられることが語られています。アブラハムを選び、その子孫を通して世界を祝福され、神のご計画を絶妙に果たされる、と確信するのです。

 イエスが弟子たちを遣わされたのは、この、世界を創造された神の、祝福のご計画に基づいています。神が世界に権威を持っておられ、祝福なさるご計画に基づいて、それを告白するために弟子たちが派遣されました。キリスト教という思想や信条を広め、自分たちのシンパを増やすとか「教勢を拡大する」、或いは「世界を支配しよう」という野望で動いたのではありません。むしろ、既に天地のあらゆる権威をお持ちであるお方の、祝福の約束に根差して、宣教は始まるのです。イエスを、世界の主なるお方として告白するから世界宣教をするのです。

2.弟子としなさい(19節)

 ですから、イエスが弟子たちを遣わしてしなさいと言われることも、ただ入信させなさい、信じさせなさい、ではなくて、

19…弟子としなさい。

なのですね。「弟子」とは「見習い、生徒」と言い換えても良いでしょう[3]。イエスの権威の下に謙り、教えに従い、その示して下さった歩みを示して生きる人です。すべてのクリスチャンは弟子でもあります。弟子というと特別な人を指すように思われがちですが、私もみなさんも主の弟子なのです。この言葉はそう教えますね。「福音を伝えて、信じた人の中から、特に熱心な人を弟子にしなさい」ではない。

19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。…

なのです。主が弟子たちに命じられたことをすべて守るように教えられる。それが「弟子とする」ということですね。あらゆる国の人々を「弟子」として生み出していく事こそ、主が命じられたことなのです。私たちはみな主の弟子です。教会の看板には、

マタイ十一28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

とあります。「休めたらいいのであって、弟子になるなんて遠慮したい」と思うとしたら、

29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

なのです。この「学ぶ」が元になったのが「弟子」という言葉です[4]。イエスが下さる「休み」とはイエスに学び、イエスと共に軛を負い、イエスが下さる軽い荷を担う生き方から与えられる「休み…安らぎ」です。つまり、イエスの弟子となる時に「安らぎ」が来るのです。なぜなら、イエスは全ての権威を持っておられ、心優しく謙った主だからです。イエスの教えとは無理難題や高尚な生き方ではありません。重荷を増し加えるのでなく、私たちの魂を自由にしてくれるのです。イエスという心優しきお方が、この世界の権威を持っておられ、その方がともにいてくださる。そう知って、それまで私たちの心を縛っていたあらゆるもの、迷信とか地位とか勝ち負けとか、人を支配したいとか、あらゆる間違った権威から解放されるのです。主の権威を受け入れ、自分を明け渡し、喜んで主の弟子となり、深く安らげるのです。主は、私たちの心や私の人生、毎日の行動においても、本当の権威をお持ちです。そして心優しく謙っておられ、私たちを愛し、聖書の言葉により従う道を教えて、安らぎを下さる良き羊飼いです。

3.世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(20節)

 面白い事に17節には、この時の弟子たちの中にも

疑う者

がいたとあります。この時のイエスは、弟子たちの疑いを一掃するような輝かしく眩いお姿ではなかったのですね。そして、主は疑う者をもそのままお遣わしになりました。「疑わず信じなければ伝道は成功しない」などと脅迫したり従順を強いたりしてコントロールしようとはなさいません。そして最後には

「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

と言い切ってくださいました。疑いも、悲しみも、障害や限界、喪失など、抱えているのが弟子たちです。その人生には、困難な時、真っ暗闇の時、単調で物足りない時、もあるでしょう。そうした日々、どんなときも、主は決して離れることなく、ともにいてくださる…。この約束を戴いているのが、「弟子」なのです。私たちとともにいる、とこう宣言して下さる主は、本当に心優しく謙ったお方ではないでしょうか。この深く大きな主の約束に私たちも押し出されて、主の弟子として歩むことが出来るのです。こういう恵みの主が、天にも地にも、世界の国々にも、私たちの人生にも権威を持っておられる。そう気づかされて、本当に深い安らぎを持つのです。

 イエスが弟子たちを遣わされたのは、その恵みの権威を知らないで、恵みならざるものに縛られて生きている人々の回復のためでした。世界中、民族や言語や文化は違っても、疲れたり絶望したり苦しむ人を愛おしまれたからです。ただ何とか言いくるめて信じさせて洗礼を授けたらお終いとか、沢山の改宗者を造るとか、そういう宣教ではないのです。また、西洋の伝統とか自分たちのやり方を押しつけて、「キリスト教化」したと思うのでもないのです。オセアニアのある島国では村ごとキリスト教に入信しました。建てられた教会はどこも犬が繋がれていて、理由を聞いたら、「最初の宣教師が犬を飼っていたから、教会とは犬を飼っていなければならないのだろう」と答えたそうです。そういう「改宗」から、彼らの言葉に聖書が飜訳され、学ばれていった時、イエスとはどんな方かを学び、心に喜びが溢れる回心が起きたのです。

 犬を飼うとか、クリスチャンらしくするとか、あれをせずこれをするではないのです。心がキリストを主とする恵みによって変えられるのが宣教です。主ご自身が、私たちが何かをすること以上に、主とともに歩むあり方を願っておられます。深い安らぎと喜びとを持つ生き方に、心から変えてくださるのです。世界のあらゆる国々の人も、ここにいる私たち一人一人の心の底においても、イエスが崇められますように。世界の反対側で宣教が推し進められることと、私たち一人一人の心がまだイエス以外のものに囚われている問題は、等しい大問題なのです[5]。同時に世界宣教の様子を知り、宣教師たちの苦労や証し、そこでの回心のドラマや大変さを知ることで、私たち自身が励まされ、教えられます。主が本当に天地のいっさいの主であることを、鮮やかに知らされます。世界宣教のために、祈り捧げ、私たちも主の弟子とされましょう。

「天と地、一切(いっさい)の主権者なる主よ。疑い迷う私たちをも養い、愛する弟子として成長させたもうのは、あなただけです。ここ日本で、私たちが礼拝の民として集められ、今、世界の弟子たちとともに礼拝を捧げている不思議に、あなたを崇め、私たちの心も人生も捧げます。主よ、どうぞ世界において、主の弟子とされる祝福を推し進め、そこに私たちも加えてください」



[1] これは、マタイが最初から宣言してきた「権威者イエス」のテーマです。七29「というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」、八9(百人隊長のイエスに対する台詞)「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」(だから、イエスの言葉には尚更権威があるので、ただおことばを下さい、という繋がりになっています。)、九6「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。7すると、彼は起きて家に帰った。8群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」、十1「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」、二一23「それから、イエスが宮に入って、教えておられると、祭司長、民の長老が、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」24イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを話しましょう。」(27節まで参照)。このように、イエスの権威は、十字架に掛かる前から明らかであり、論点であったことが分かります。十字架と復活によって帯びた権威ではなく、十字架と復活へと至るような権威であった、とも言えます。それは、四章の「荒野の誘惑」で悪魔が「この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ四8-9)」と誇示した権威とは根本的に異なる権威です。

[2] このことは、マタイでは五46(天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです)などの、民族や選民の枠を越えた広い視座に通じます。

[3] ダラス・ウィラード『心の刷新を求めて』(あめんどう、中村佐知、小島浩子共訳、2010年)、435頁。今回の説教では、同書の第一三章「地域教会の霊的形成」がマタイ二八・一八以下を解説していますので、大いに参考にさせていただきました。

[4] 「学ぶ」(マンサノー)はマタイで三回使われています。九13「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」、二四32「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。」。この言葉から「弟子」(マセーテース、マタイで69回)、「弟子とする・弟子となる」(マセーテューオー、十三52、二七57、二八18)が生まれます。

[5] 私たちの中で、まだこのイエスを「主権者」と認めていない思いがある。世俗の政治家や権力者のような虚勢、お金や名誉や恋愛がもたらす欺瞞の恍惚感を追い求めるところがある。そのようなままでは、私たちは「キリストの弟子」ではなく、ただの「信者」でしかない。それはまだ失われた状態であり、疲れ、迷い、渇き、何かがあれば信仰を捨てかねない状態。

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