2016/07/17 申命記三〇章(11-20節)「あなたのごく身近に」
20年前に、依存症の問題に関わり、アルコールやギャンブル、摂食障害などで苦しむ方々と出会いました。ある方がこんな言葉を紹介してくださいました。「回復とは元に戻ることではない。それは変化を言う」。忘れがたい言葉で、その後も、折々に私を支えてくれました。
1.立ち返り、元通りにし、連れ戻す(1-10節)
今日の三〇章の前半には「回復」が予告されています。立ち返る、元通りにし、連れ戻す、再びあなたを栄えさせる、などなどの言葉は、元は同じヘブル語で、七回もこの「回復する」という言葉が使われるのです[1]。二八章には、主に逆らって、主に従わなければ、その契約違反にはどれほどの呪いがあるかと延々と述べる言葉が連ねられていました。前回の二九章でも、主に従おうとしない末は荒廃と異邦人の笑いものになることが書かれていました。しかし、そうした面もありつつも、この三〇章は、その裁きや荒廃の先にさえ、回復があることが語られています。神に背き通して、怒りを招いて、遠い国に追い散らされた、というのが1節です。そこで主に立ち返り、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、
3あなたの神、主は、あなたの繁栄を元通りにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。
4たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。
主に逆らったから、罰せられて、異国の地で野垂れ死んでいくだけ、ではないのです。そこで、主に立ち返り、主の声に聞き従うことをもう一度始めるならば、それが主の回復の始まりとなるのです。どんなに遠くでも、主はそこから連れ戻す、というのです[2]。何とありがたく、尊い約束でしょうか。遠くの流刑地に追っ払って、あとは知らない、ではない。そこで人が立ち返り、生き方を改めるのを、じっと待っているかのようですね。遠くにやったのも自分の間違いに心底気づいて、立ち返るためであったようですね[3]。この主でなければ、彼らは滅んで、異国に骨を散らすしかなかった。そう思うと、この異国での回復自体が、人間が心を入れ替えるという以前に、主が彼らを導いて、回復させてくださったからに他なりません。
6あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。
こう言われるように、主が、心を包むものを切り捨ててくださるのです。心を尽くし、精神を尽くし、主を愛するようにしてくださるのです。主の恵みが先行しての立ち返りなのです。
2.みことばはあなたのごく身近にある(11-14節)
こういう回復の約束をした上で、11-14節には、主の命令が難しすぎないし、遠くに掛け離れてもいないし、天の果てや海の彼方にあるのではない。
14まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。
と言われます[4]。でも、「行うことが出来る」と言っても、さっきは行えなくて呪いを招くことが言われたのです。そして、そこから回復され、今度こそ主を愛し、主に心から従うようになる、と言ったばかりですね。ですから、ここで「御言葉は、難しすぎず、遠く掛け離れた所にあるのでもない。あなたはこれを行うことが出来る。」というのも、他の聖書の言葉と同様、聖書の規則は頑張れば誰でも守れる、というような意味ではないはずですね。そういう表面的な規則遵守を神は求めておられるのではないのです[5]。むしろ、そういう形式的なことだけを考えて、本当に神を愛し、心から神に従うという関係が抜け落ちていた民が、神の怒りを受けて違法の地に追いやられ、そこで自分の深い間違いに気づいて、神を慕い求めるようになる。いいえ、主が民のうちに働いてそうさせてくださる、のです[6]。
主は私たちに、ただ規則を求められ、「やれば出来る筈だ」と仰って、出来なければ最後には怒って滅ぼす、という方ではありません。そういう方ではないことが最もハッキリするのが、この申命記三一章です。主は、私たちが主を愛し、心を尽くして主に従うようにさせる。その動機にあるのは、主への心からの信頼ですね。「呪われたくないから従おう」とか「怒られない程度に従っておこう」。そんなふうに、神を卑しく、詰まらなく考えていた考え自体をひっくり返すのが、神の裁きと赦しです。キリストの十字架と復活です。神ご自身が、私たちの心の中にある、御言葉に従えない限界をご存じです。頑なな罪から、忘れっぽさまで、また過去に受けてきた傷やどうしようもなくネガティブに神を考えてしまう考えまで、神はご存じです。しかし、その私たちを全て知り尽くした上で、神は私たちとともにおられます[7]。私たちの身近におられます。キリストは、私たちのそばに来てくださったのです。
その事に気づく時に、私たちの生活そのものが深い所から違うものになっていくのです。恐れや孤独や、思い上がりや人を排除する生き方が変えられていくのです。御心に従わなければならない、そうしなければ神に怒られる、という事でさえありません。神が私たちを愛され、私たちの人生に深く働いて、失敗や痛みを通りながらでも、神への信頼に立った生き方をさせてくださる。そうしてここで、家族や他者との関わりも新しくされる[8]。そういう「身近」さです[9]。
3.あなたはいのちを選びなさい(19節)[10]
諄いですが、この
「いのちを選ぶ」
とは私たちが主の命令に頑張って従うことではなく、
16…あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るよう…
と言われる通り、根っこにあるのは主の愛です。誤解を恐れずに言えば、たとえ主の命令に私が背き通して、勝手な生き方をし、欲に目が眩んで人を裏切ったり騙したりした挙げ句、その報いが全部自分に返ってきて、人生が滅茶滅茶になったとしても、それでもそこでこそ、主は、自分の愚かさに気づかせ、再び主に従うよう立ち上がらせてくださり、喜びと祝福を惜しみなく与えて下さるお方だ。だからこそ、今ここで、私にとって最も身近な助けであり、唯一のいのちの道として、主の言葉を守る。そういう選択なのですね。
しかし、こう言われても、聖書の民は主から離れて、御言葉に背いて止みませんでした。ひと言で言えば、こう
「いのちを選びなさい」
と単純に割り切れるものではないのが人生だからです。初めから、「いのちよりも死を選ぼう。祝福よりも呪いの方が良い」と御心に背く人などまずいないでしょう。正直であるよりも嘘を言った方が苦しまないで済みそうだとか、人から笑われたくないから悪いとは分かっているけど同じ事をするとか。そういう時は、私たちは、神への信頼ではなく、恐れに囚われています。失うことを恐れて、守りに入って、選択を誤るのです。でも、それはますます私たちの心をカサカサにしてしまいます。信仰は、決して人生を単純にはしません。人生が単純ではなく、複雑だからこそ、あえて
「あなたはいのちを選びなさい」
と言われるのですね。主が私たちの身近にいることを見失って、その時の愚かな判断をするのでもないし、主を冷血漢や暴君のように恐れ怯えて、表面的な正しい行いをするのでもないのです。天地を造り、私たちを愛し、私たちのいのちと祝福を願い、私たちがボロボロになってもなおそこから、心を神に向けて立ち返らせ、共に歩んでくださる神。その神への信頼をもって、御言葉に聴きながら、いのちの道を歩ませて戴くのです。この私たちと、主イエスはともにいてくださいます。主の言葉は、私たちにとって、本当に身近なものです。私たちの生活を、恐れや守りから、嘘や打算から守ってくれます。人の声を気にしたり期待に応えなきゃと背伸びをすることから自由にしてくれます。毎日にいのちを、喜びを吹き込みます。[11]
「主よ、あなたの恵みによって、私たちの心を取り戻してください。あなたとともに過ごす時間を持ち、感謝と信頼をもって、御言葉に従わせてください。私たちが祈る以上に、あなたが私たちに祝福を願っておられます。ともにおられ、語り掛けておられます。その声に安らいで、主の愛をいただいた者として出て行きます。私たちの人生を通し、御栄えを現してください」
今日は「徳島宣教協力会」の定期集会、「ゲーム&フェローシップ」が、鳴門キリスト教会を会場に行われました。
かき氷タイム、ゲーム、メッセージ、よいひとときでした~
写真は、賛美のリハーサルです。
[1] 「戻って来る」がキーワード(Thomas W. Mann, Deuteronomy, (WBC.) p.50) 七回:1(心に留め)、2(立ち帰り)、3(元通りにし)、8(再び…する)、9(同)、10節(立ち帰る)。
[2] 現代の「イスラエル共和国」がこの成就だとみるひとも少なくないが、悔い改めや従順ではなく、単なる民族主義・政治的な建国でしかないと思う。
[3] なぜ悔い改めるのでしょうか? 自分たちの非を認め、心から主を慕い求めるから、でしょう。ただ「災いが恐ろしいから、怒りを避けたいから」ではないはずです。しかし、もし私たちの悔い改めも「あのやり方はまずかった。失敗した」というレベルでの「悔い改め」(後悔、反省)であれば、それは聖書が示す「悔い改め」とは全く違います。そうではなく、「本当に自分が悪かった」と生き方を大転換するものである。最初に戻り、やり直すではなく、全く新しい心持ちで主を慕い、従うようになる。そのためには、私たちは、痛みや挫折、行き詰まりが必要な事が多い。それは、神の意地悪や裁きである以上に、恵みであり、必要なステップなのだ。
[4] 「ごく身近にある」のは、神の愛の証しです(四6-8、詩篇十九7-11、一一九篇)。
[5] それが「あなたの口にある」のは、ただ口先で唱えられるだけではなく、「蜜のように甘い」(詩篇十九篇)であり、「あなたの心にあって」も、ただ知識としてあるだけでなく、心を燃やす(ルカ二四章)言葉としてあるのである。
[6] この部分は、ローマ書十6-8でパウロが引用しています。「しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。7また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。8では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ここでは、「御言葉が近くにある」が「キリスト(ロゴス)が私たちの近くにまで来てくださった」ことに直結して展開されています。神が遠くにおられるように考える事は、キリストが私たちの近くにまで来てくださって今も共におられることを否定することになる…と。
[7] 人間にどれほど愛を注いでおられ、私たちの心の罪を悲しんでおられ、そのために御自身の究極の犠牲をも惜しまないほど、私たちの心と生き方が変わり、神を愛し、また互いに愛し合うように導かれるか、に気づくのです。
[8] 「いのちを選びなさい」 自分のいのちを殺さないような選択、ということもあるが、聖書からすると「いのち」は愛。憎む者、殺す者にいのちはない、とⅠヨハネが繰り返す。「いのちを選びなさい」も、自分にとってだけでなく、他者とともにあるいのち、共同体的ないのちの回復、自分の豊かさや好みを時には捨ててでもいのちを生かす道を選び、建て上げていく、ということでもないか? 決して個人主義的に理解しないこと。
[9] 8節「主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行うようになる。」は、<行うから祝福される>ではなく、聞き従い行うことそのものが祝福であり、神のわざである、という文章になっています。
[10] 15-20の中心テーマは「いのち」です。(いのち:四回、生きる:二回)
[11] 神への慕わしさと信頼、心からの従順へと導かれ、それが隣人関係・共同体形成に繋がっていく。それこそが、神のご計画である。