聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

礼拝④「心を一新する礼拝」ローマ11章33節-12章2節

2016-10-16 14:26:54 | シリーズ礼拝

2016/10/16 礼拝④「心を一新する礼拝」ローマ11章33節-12章2節

1.それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です(1節)

 この説教シリーズの最初にも同じローマ書11章33節から12章2節を開きました。その時には、教会の礼拝は「私たちが礼拝」するに先立って、神ご自身の栄光、御子イエス・キリストの犠牲、聖霊なる神の派遣、という礼拝があることをお話ししました。人間が神を礼拝するに先立って、神が礼拝をされており、その礼拝に私たちが招かれて、今ここにあるのです。

 ではその礼拝をパウロはどのように表現しているでしょうか。

ローマ十二1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 私たちの体を供え物として捧げる。それこそが、私たちの礼拝。こう言うのですね。勿論、ホントに自分が火に飛び込むとか、命を捧げるということではありません。当たり前のことのようですが、仏教でも「即身仏」とか神道でも「人柱」とか、現代でも「自爆テロ」という、本当に命を捧げてしまうような儀式が持て囃(はや)される考え方は人間にあるのです。聖書はそのような意味での文字通りの自己犠牲を否定します。神は、そういう生贄(いけにえ)を喜ぶような、生き血を求める神ではないのです。むしろ神は、ご自身が御子イエスにおいて、私たちの身代わりに生贄をささげてくださり、もはや私たちがそうならなくても良いようにしてくださいました。私たちが、今ここにあるこのままで、

「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」

として生きるようにとしてくださったのです。自分の俗世の生活を捨てて、人生を棒に振って犠牲にすることを尊いとするような宗教から、今ある生活そのものを礼拝とする事こそが、神の御心である、という生き方がイエス・キリストによって与えられるのです。

「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として」

というのは、決して、私たちが自分の力や努力で、神に受け入れられるよう、聖い生き方をする、という事ではありません。11章までパウロが展開して来たとおり、キリストの福音は、まず神の側の一方的な憐れみ、恵み、キリストの死と復活による救いの御業があり、それを聖霊が私たちに届けてくださる、という底知れず深いご計画に基づきます。その福音に照らしてみるなら、私たちは自分の丸ごとが

「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」

だと知るのです。

2.心の一新

 そうです。イエス・キリストは、私たちのためにご自身を捧げてくださることによって、私たちを

「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」

としてくださいました。私は18歳で神学校に入る時、このローマ書12章1節から、自分の生涯を神に捧げるよう言われていると思いました。段々と聖書を読みながら分かったのは、この言葉は牧師になる人や、神が特別に選ばれた人だけに与えられる言葉ではなく、すべてのキリスト者に既に与えられている言葉である、という真理でした。11章までを読んできたすべての人が、同じように12章以降も、自分たちへの招きとして聴くのです。神の愛に与ったけれども、自分を捧げなくて良い信者などは一人もいません。いいえ、神の愛は、私たちを、神に受け入れられる聖い、生きた供え物とし、自分を捧げながら生かす愛です。福音による救いは、私たちが神に受け入れられた、聖なる者として、生きるようにする救いです。

「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝」

なのです。

 この礼拝とは「生贄を捧げる儀式」を特に指す礼拝の言葉です[1]。旧約時代で言えば、レビ記に書かれているような規則に従って、大祭司が捧げる儀式、つまり礼拝儀式そのものです。それは聖なる神にささげるに相応しく、傷一つあってはならず、大変厳かで慎重を要する、恐れ多い礼拝でした。ところがパウロはここで私たちに、自分のからだを捧げなさいと言い切るのです。あなたがたは

「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」

なのだ。だから、自分の体、生活そのものを神に捧げなさい。それこそが

「霊的な礼拝」

レビ記や神殿のあの生贄儀式が本当に言いたかった礼拝なのだ、と言うのです。[2]

 2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい[変えていただきなさい]。

 この

「心の一新」

とは、気持を入れ替えるとか心機一転という意味ではありません。考え方、思考、マインドが一新されることです。気持を新たにしよう、決意を新たにやり直そうとするのだけれど、土台にある考えでは、神は小さく、自分の努力や裁量が大きいように誤解していることがあります。その土台の考えが一新されるのです。御言葉を学んで、神の偉大さや力強い恵みに目が開かれる。神に受け入れられ、聖い供え物の自分だと考えるようになる。神の御心を求め、何が良い事で神に受け入れられるかを基準とする考え方へと一新されることです。

3.完全な生き方

 具体的には、それはどのような生き方なのでしょうか。神に受け入れられる聖い生きた供え物としての生活は、あるいは神の御心を知り、良い事、神に受け入れられる

「完全な生き方」

とはどんな生き方なのでしょうか。パウロは3節以下でそれを教えています[3]。拾い読みしてみましょうか。

思うべき限度を越えて思い上がらず、互いに尊重し合い、生かし合うこと[4]

愛には偽りがあってはならず、悪を憎み、善に親しむこと[5]

互いに人を自分よりもまさっていると思うこと[6]

迫害する者を祝福し、その人と喜びも涙もともにすること[7]

互いに一つ心になること[8]

復讐を神に委ねること[9]

 そんな言葉が綴られていきます[10]。それはバラバラの道徳ではありません。私たちの人間関係や社会の回復です。あわれみを戴いた者、神に受け入れられた者として、私たちも何とか共に生きていく。それこそが神の御心で、神が求められる

「心の一新」

した生き方です。ブリュッゲマンは、旧約時代の礼拝についてこう言います。[11]

「その礼拝の本質は、その信仰共同体とその成員である一人ひとりの生を神の御前にあって、定期的に、整然と、公に、規則正しく立て直すことにあるとおおまかには言えるであろう」

 この世と調子を合わせないとは、世間から身を引いておっかなびっくり生きることではありません。完全であることも、完璧主義、潔癖主義になるのとは違います。むしろ完全ではない世界で、自分も完全ではないし人も完全ではなく、互いを必要としていて、復讐したくなるような問題もある事実を認め、なお文句や批判や復讐ではなく、橋を架け、希望を語りながら、ともに生きようとする。それが神の御心の「完全さ」なのです。そういう御心を知らされ、神に受け入れられた者として自分を差し出すという、新しい生き方を与えられたのです。

 礼拝は私たちの心(マインド)を新しくします。その後の

「自分を変えなさい(メタモルフォーゼ)」

は、芋虫が蝶になる変化で使われる言葉です。

 礼拝は、私たちを新しくしてくださる神との出会いです。そして新しくされる「メタモルフォーゼ」の希望をもって出て行くのです。

 礼拝とは、今の世俗の生活を劣った人生として捨てて、牧師や特別な信心深い生き方をすることではありません。今のその人生の小さな努め、小さな自分の生を、神から遣わされた、尊い場として、神にささげつつ生きることです。信仰とは、毎日の生活に、神の特別な奇蹟や、楽や、失敗のない完璧さを期待することではありません。でもその自分の不完全さを恥じたり隠したりせず、その私たちを受け入れ、現場での悩みや格闘にも働いてくださる神を仰ぎます。神は私たちを受け入れ、私たちを通して、神の憐れみを示されます。だから私たちは、自分の分を果たし、不完全な人に敬意を払い、肯定的な言葉を届けます。喜びや涙を一緒にし、仕返しではなく祝福を与えます。そういう日常の小さな積み重ねが神への礼拝です。不完全でも、それを神が喜ばれる、という礼拝観なのです。神との関係だけでなく、私たちのすべての生活を見る目を一新されて、今日もこの礼拝から私たちは、それぞれの生活へと派遣されていくのです。

「主よ。今日もここから私たちはそれぞれの場に派遣されます。あなたの栄光を、あなたの恵みを、よいご計画に励ましてください。あなたの恵みと愛が、私たちの生活の中に生きて働く事を信じて、平安と希望のうちにお遣わしください。私たちの思いを一新し、あなたの憐れみを現してください。私たちのすべての営みを通して、あなたの御名が崇められますように。」



[1] ギリシャ語「ラトゥレイア」。

[2] ここでパウロは、教会での礼拝と、それ以外の場所での生活を切り離さずに考えています。教会の聖日礼拝を整えることだけを考えるのではなく、キリスト者全員が自分を神にささげて生きる事にこそ、聖日礼拝の聖日礼拝たるゆえんがあると考えています。もし、礼拝と普段を切り離してしまうなら、いくら礼拝を立派にし、上手に讃美歌を歌い、沢山献金したとしても、その礼拝は虚しいものです。なぜなら、神が受け入れて下さるのは、私たちの全生活というささげ物だからです。日曜日や教会に来ている時は礼拝者の顔をして、普段はその仮面を外し、世間や周囲の価値観で生きる-そういう使い分けを止めて、全生活を神の光の下に観るのです。

[3] 更に、パウロがその先もずっと書き連ねていき、13章から16章まで続けている事にも具体化を見ます。また、他の手紙や聖書全体で展開していく事も、この「神のみこころ」に生きることを教えています。

[4] 3節「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。4一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、5大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。6私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。7奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。8勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。

[5] 9節「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。」

[6] 10節「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

[7] 14節「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。15喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」ここでのつながりでは、迫害する者とこそ、喜びも涙もともにせよ、というつながりであることに注意しましょう。

[8] 16節「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」

[9] 17節「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。18あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。19愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」20もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。21悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

[10] そして、その続きの13章では「上に立つ権威」との関係について、14章では「信仰の弱い人を受け入れる」ことについて、と展開していきます。

[11] 『古代イスラエルの礼拝』(教文館、2008年)9頁。『ミニストリー』20号(キリスト新聞社)65頁より。

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問34「私たちのご主人」ヘブル2章14-15節

2016-10-09 17:54:04 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/10/09 ハイデルベルグ信仰問答34「私たちのご主人」ヘブル2章14-15節 

 イエス・キリストは私たちの主、という時、どんなイメージがありますか。「主人」「あるじ」などとも言いますから、「世界を作られた神」とあまり違いは意識しないかもしれません。ハイデルベルグ信仰問答ではこの言葉をとても大事にしています。

問34 あなたはなぜこの方を「我らの主」と呼ぶのですか。

答 この方が、金や銀ではなく御自身の尊い血によってわたしたちを罪と悪魔のすべての力から救い、わたしたちを身と魂もろとも贖って御自分のものとしてくださったからです。

 「ご自分のものとしてくださった」。だから、イエスを「我らの主」とお呼びするのは、本当に文字通り、私たちの身も魂もイエスのものだから、なのです。私たちは自分のものではありません。私たちの身も魂も、イエスのもの。それが、このハイデルベルグ信仰問答の問一でした。それが、私たちの信仰の出発点なのです。イエスは、私たちの主、私たちのご主人で、私たちはイエスのしもべ、イエスのものなのです。

 しかし、「ご主人様」とひれ伏して、何かを命じられたら、どんなに嫌なことでも、言われたとおりにしなければならない。そういう関係を考えて、ぞっとする人もいるでしょう。けれども主イエスとの関係はそういう関係ではないのですね。

 …金や銀ではなく御自身の尊い血によってわたしたちを罪と悪魔のすべての力から救い、わたしたちを身と魂もろとも贖って御自分のものとしてくださった…

 イエスが私たちをご自身のものとしてくださったのは、イエスご自身の尊い血によって、つまり十字架にいのちを捧げて下さった犠牲によってでした。力尽くとか、権威を笠に着て、ではなく、ご自分を与えて、辱めや極限の苦しみ、そして死をも厭われないことを通して、イエスは私たちの主となってくださったのです。イエスは、偉そうにして、服従を要求して、しもべをこき使うような人間の主とは真反対の主です。

ヘブル二14そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、

15一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。…

 私たちを解放するために、私たちを同じように血と肉を持つ人間になり、最後の死までも引き受けて、私たちを悪魔や死や罪の力から解放してくださったのです。イエスはそういう「主」であられます。勿論、イエスは主であって、私たちは「主」ではありません。イエスには私たちに対する権威があります。私たちは主のしもべで、主に従い、主に仕える者です。しかし、主はご自身を与えてくださった主です。だから私たちも、嫌々ながらでなく、心から主にお従いし、喜んでイエスの御心に従っていけるのです。それだけではありません。イエスが私たちの主であられるのは、私たちに命令を与えて、私たちがそれに従う、というだけの関係ではありません。私たちはもうイエス・キリストのもの。キリストが、私たちを、ご自分のものとして責任を持ってくださる、ということです。私たちを守り、大切にし、最後までご自身にかけて導いてくださるのです。

ローマ十四7私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。

もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

 この「主」にはもう一つの意味があります。私たちが使っている「新改訳聖書」では、旧約聖書に

「主」

という言葉が他の字よりも太く印刷されていることがあります。これは神様のお名前を現していた言葉です。世界で「神々」と呼ばれるものが沢山ある中、他の偶像や宗教の神と混同しないよう、聖書の神は、ご自分の名前を明らかにされて、区別なさったのです。世界を作られ、人間を特別に創造された、生ける真実な神だけのお名前を、特別に名乗って下さったのです。たぶん「ヤハウェ」か「エホバ」と呼んだらしいのですけど、イスラエルの民は、神様の名前だから恐れ多い名前だ。あまりに恐れ多くて、軽々しく口にしたらいけない、と「主」と呼び変えて読み上げていたのです。でも、この言葉の元々の意味には

「わたしはなろうとするものになる」

という意味があるらしいのです。「なろうとするものになる」。神様には制限がないし、本当に自由で、全能のお方だということですね。そして、その神が何に「なろうと」されたのでしょうか。

「私たちの主」

になろうとされたのです。他のどんな主にでもなれたのに、私たちの主になろうとされました。そして、そのためには、ご自身の尊い血を流さなければならないのに、そのことも進んでしてくださったのです。そうまでして、私たちの主になってくださったことへの限りない感謝と信頼を持ちたいと思います。

 大いなる神が私たちの主となってくださいました。そして主は私たちにも言われます。

マルコ十43…あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

44あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

 本当の主が、いのちを与えることで、仕え抜くことで私たちの主であられるように、私たちの人間関係でも、仕える人、自分を差し出す人が本当にリーダーシップを発揮し、人を生かすのです。脅したり、偉そうにしたり、自分のために人を大事に出来ないなら、決してその関係は長続きしません。尊敬されるリーダーになることも出来ませんし、人を生かす関係も作れません。私たちの主がどのような主であるかを思い起こしていましょう。それは、今、私たちの仕事やチーム、家庭、教会で、どのような関係を目指していくのか、どうすることが主のしもべのあり方なのかも教えてくれるのです。

 

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礼拝③「神のみを神とする」ルカ15章1-24節

2016-10-09 17:51:10 | シリーズ礼拝

2016/10/09 礼拝③「神のみを神とする」ルカ15章1-24節

 「神のみを神とする」。当たり前です。しかし聖書はその最初から、人間が神を神として崇めなくなり、自分や神ならぬものを神のように崇め始めた事実を描きます。そして、そこから神のみを神とするあり方に戻していただくことこそ、救いであり、神のご計画だと語るのです。

1.神は唯一

 これは聖書の最も基本となる信条です。神はただおひとりであって、その神が世界をお造りになり、永遠にこれを正しく、治めておられるのです。世界は、この神の作品であって、神の栄光を現しています。私たちは、この神を礼拝し、この神のみを神とする礼拝を捧げるためにここにいるのです。これこそが、聖書が繰り返す基本的な教えの第一のものです。

出エジプト二〇2、3わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(十戒第一戒)

マルコ十二29―30イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

マタイ六9…『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

 こうした第一の出発点があるから、教会の信条も神を神とすることを重んじるのです。

「人の第一の目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。」[1]

 神を大いなる方とする。まず神を崇め、心から喜ぶ。これが私たちの信仰なのですね。

 先月、四国地区の牧師会で、善通寺を見学させて戴きました。立派なお寺や五重塔や広い敷地の参拝客を見ながら、高僧の案内で説明や体験をする機会にあずかりました。とても勉強になりました。印象に残った事の一つは、

「どの宗教も目的は人間の幸せと世界の平和だから、そのためには神を増やしたり、儀式を考案したり、教えを変えたり、縁起物を売っても何の問題もない」

という考え方でした。神についてはよく分からないが、人間の幸せのために、とあれこれやり方を考えて努力するのは当然のことです。そういう努力や工夫には学ぶべき面もあると思いました。でもやはり私たちにとって、神はいるのかいないのかもよく分からないお方ではないのです。神は確かにおられて、世界を存在させ、聖書にあるとおり、イスラエルの民を通して御心を語りかけ、遂にはご自身が人間となってこの世においでになり、惜しみなくご自分を与えてくださった、この上なくリアルなお方です。生々しく十字架に死なれ、三日目に現実に復活なさったお方です。その方への信頼から、私たちの幸せも確信できるのです。

2.二つの間違い

 聖書の前半、特に旧約聖書では、周囲の民族の宗教に影響されることがないよう、偶像や異教の儀式との関わりが警戒されます。私たちはこの点も忘れてはなりません。善通寺や他の宗教に十分尊敬を払い、平和を図りながらも、それ以上に聖書にご自身を啓示されている唯一の神への尊厳を決して譲ってはならない。参拝や占いや呪(まじな)いや加持祈祷などはしないのです。

 しかし、こういう旧約の反省を踏まえた新約時代、イスラエルの民族は厳格な一神教の宗教にはなりました。神だけを礼拝し、頑ななほどに自分たちの礼拝を神である主のみに捧げ、聖い生活を送ろうとしたのです。その代表格が、今日のルカ15章2節に出てくる「パリサイ人、律法学者たち」という人々でした。意外なことに、イエスはその彼らの宗教理解に最も厳しく挑戦なさいます。そして、彼らこそイエスを十字架につける主犯格となったのです[2]

 ルカ15章は「失われた」ものを探す三つのたとえを語ります。特に11節以下は有名な「放蕩息子のたとえ」で[3]、父にとって失われていた二つの生き方が示されます。

 第一は、弟息子がやらかした通り、神の下さる幸せ、祝福を疑って、そこ以外に幸せや満足、生き甲斐を見出そうとする道です。お金で買えるものやお金そのもの、放蕩すること、自由気ままな生活、興奮させてくれるもの、人からちやほやされ、瞬間でも幸福な気分にしてくれるものを慕うのです。それを掴むため、今までの人生を犠牲にし、嘘や裏切りもためらいません。言わば、自由で楽しく、好きなように生きる生き方を「神」として崇める生き方です。

 第二は、兄息子と彼に象徴されたパリサイ人、律法学者、当時の宗教家たち、そして、私たち自身も陥りやすい過ちです。それは、自分が真面目に生き、神の御心にかなう生き方をすることによって神を喜ばせ、他の人よりも神から認められ、価値があると思われようとする生き方です。彼らは神を喜ばせるために、自分を厳しく律し、自由を諦め、我慢をしました。でもそうすることで自分を誉め、人からも神からも誉められることを内心で要求していたのです。だから、イエスが自分たちよりも不道徳で、不謹慎な生き方をしている人々を受け入れられるのを見た時に、つぶやき、憤慨して、苦々しい思いで一杯になってしまったのです。

3.神を心から神とする回復

 これを私たちの礼拝や信仰に当てはめてみましょう。私たちが礼拝に出席をして、賛美を歌い、主の聖晩餐に与っているとしても、そこで私たちが心底願っているのが、自分がお金持ちになったり夢を叶えたり、心地よく暮らすことであるとするなら、実は私たちは神を神として礼拝しているのではなく、自分の願う「幸せ」を神として愛し、慕い求めているに過ぎないのではないでしょうか。同時に、私たちが礼拝に来たり奉仕や献金をしたり、真面目で敬虔なクリスチャンに近づくことで神を喜ばせようとするならば、それもまた、神を神とするのではなく、自分の自尊心や優越感を追い求めるために神を利用しようとするに過ぎません。兄息子もまた、自分の願う「幸せ」「成功」「評価」を神以上に愛し、慕い求め、崇めていたのです[4]

 イエスが語ったたとえでは、弟息子も無一文になって惨めに死にかけ、兄息子も怒りや妬み、恨みがましさで醜い本性を晒し、どちらも破綻します。自由であれプライドであれ、神ならぬものに幸せを信じて追いかける人生は必ず裏切られ、行き詰まります。なぜならそれらは神ではないからです。世界を造られた本物の神は、今、私たちを生かし、真実であられます。私たちが失敗や間違いをしてもそれを上回る恵みで導き、育てて下さいます。その代役は、他の何者にも決して勤まりません。そう気づいて、神を神とするなら、その人生は礼拝となるのです。

 礼拝についての説教ですから、個々の項目の意味とか順番の意味、服装や献金の作法もいずれは触れます。けれどもそういう作法の前に、イエスが示されたのは、神を礼拝する目的の回復でした。これを見失ったまま、どんなに「正しい」礼拝をしても、結局、求めているのは自分の願う幸せだとか、きちんとしていない人を裁き、不満を燻らせるような、鼻持ちならないプライドであるならどうでしょう。イエスはそのどちらも違うと言われます。神の家は、私たちの父となってくださった唯一の神がおられる家です。この神だけを神として愛し、慕うよう、神ならぬものを神とする間違いに気づく必要があるのです。でもイエスが語られる物語は、その気づきさえ含んでいます。父は息子たちの気づくのを待ちます。ガミガミ、ネチネチ、お説教をしたり、間違いを恥じ入らせる父ではないのです。放蕩息子のためにも走り寄り、ふて腐れた息子のためにももう一度家を出て来て、静かに語り続けるのです。散財をも許され、惜しみなく大宴会をして喜びを表し、

「私のものは全部おまえのものだ」

と言って憚らないのです。

 これこそイエスの福音です。イエスご自身が、私たちのために走り寄ってこられ、ご自分のいのちさえも惜しまずに、人の歩みが神の家に居る喜びに満ちるよう、じっくりと導かれる。その大きな神の物語の中で、いま私たちはここに戻ってきて、礼拝を捧げているのです。私たちの最大の夢より、大事な人より、イエス・キリストは遙かに素晴らしい神です。

「主なる神、あなたは宇宙よりも大きく、誰よりも私たちに近いお方です。ますますあなた様の偉大さを知り、私たち自身を捧げて御名を崇めさせてください。ますますあなたの憐れみと愛の豊かさを知り、恐れもプライドも砕いてください。更にそれが私たちの生き甲斐や人を見る見方も深く造り変えて、ともにあなたを喜び褒め称える毎日に、少しでも近づけてください」



[1] ウェストミンスター小教理問答1。

[2] 偶像崇拝を禁じるだけでは不十分である。追い出された悪霊が、七つの悪霊を引き連れて帰ってきたように、さらに悪くなりかねない。巧妙に、根深く、より頑なになる。だから、偶像崇拝をしない以上に、真の神を全身全霊で崇め、神の麗しさを知り、献身することが最善である。

[3] 近代以降、ここからは「家を出て放蕩し、落ちぶれ果てて帰ってきた息子を受け入れる愛の父」がクローズアップされ、そこから回心を促す、教会外への招きとして語られるきらいがあります。しかし、これは本来、パリサイ人と律法学者、すなわち、兄息子的な傾向のある宗教人に対して語っているのであり、教会の中にもすでにルカの時代にその傾向が始まっていたことを示すものです。良書として、ティム・ケラー『放蕩する神』、ヘンリ・ナウエン『放蕩息子の帰郷』をお勧めします。

[4] 言わば、真面目で忠実な自己犠牲の生活は、その自分の「偶像」を得るための手段に過ぎませんでした。

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問33「神の御子と神の子ども」ヨハネ1章9-14節

2016-10-02 16:15:33 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/10/02 ハイデルベルグ信仰問答33「神の御子と神の子ども」ヨハネ1章9-14節 

 教会では「神の子ども」という言い方をします。私たちは神の子どもです。神様は天のお父さんです。でも、よく考えると「神の子ども」ってどういう意味なのでしょうか。私たちも大きくなると神になるってことでしょうか? 違いますね。どういう事でしょうか。それから、イエスも「神の子」と呼ばれますね。でもイエスだけは「神の御子」と言います。礼拝の「使徒信条」では「我はそのひとり子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と言います。イエスが神の子というのと、私たちが神の子ども、と言うのとでは、違いがあるのでしょうか? 同じなのでしょうか?

問33 私たちも神の子であるのに、なぜこの方は神の「独り子」と呼ばれるのですか。

答 なぜなら、キリストだけが永遠の、本来の神の御子だからです。わたしたちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです。

 ここではハッキリと違いを教えてくれますね。キリストだけが永遠の、本来の神の御子。私たちはそうではありません。私たちは、神のひとり子キリストのおかげで、恵みによって神の子とされているのです。キリストは永遠から神の子。だからひとり子。私たちは神の子にしていただいたのです。言い換えれば、神の子キリストがそうしてくれなければ、私たちは神の子どもになるなんて、到底無理な話しだったのです。

 でもね、ガッカリしないでください。ガッカリさせたくてこんな話をしたのではないのです。むしろ、私たちが神の子どもであって、神を父と呼ばせて戴けることがどれほど素晴らしいか。その素晴らしさに気づかせてくれるのが、今日の問33なのです。

 確かに私たちはキリストと違って、神ではありません。被造物の世界の生き物、本当にちっぽけな人間です。そういう私たちが、「自分たちも神の子どもだ。神の子イエスと同じになりた~い。同じにしてくれないなんて訴えてやる~」と抗議したら、どうでしょう。ばかばかしいというか身の程知らずというか、呆れて物も言えませんね。

 けれども、その人間を神の子どもにしようと神が考えて下さったとしたらすごいことではありませんか。しかも、そのために、神の永遠の御子イエス・キリストが、私たちと同じになることにされたとしたら、途轍もないことに違いありません。

ヨハネ一12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 イエスはこの世に来られました。そのイエスを受け入れ、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権を与えてくださったのです。そのイエスを受け入れ、イエスの名を信じる事自体も、血筋や生まれがいいからとか、そうなりたいという願いや意思によってではなく、神によって与えられた信仰です。「神の子どもになりたい」なんて思い上がりもいい所であった人間が、神の子どもとされる光栄に与ったのです。そういうドラマの方が素晴らしいと思うのですね。しかも、他の聖書箇所にはこうもあります。

エペソ一5神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 予め、とはいつでしょうか。その前の4節にはこう書かれています。

エペソ一4すなわちは、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 世界の創造に先立って、神はもう私たちを、イエス・キリストによって神の子にしようと、愛をもって予め定めておられた、というのです。そういう入念で、準備万端のご計画によって、神は私たちを神の子どもとしてくださって、今私たちは、神を親しく「私たちの天のお父様」とお呼びする関係に入れられているのですね。

 これでもまだ僻(ひが)み、自分の方が格下で損をしているように思う人もいるでしょうか。そういう人には、イエスが神の御子であるとはどういう事か、覚えてほしいのです。

ヨハネ一14…私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 「恵みとまことに満ちておられた」それが神の御子です。偉そうにして、みんなから崇められている、私たちの勝手なイメージとは正反対です。その反対に、御子であるイエスは神の愛を現しておられました。ご自分を惜しまず与えるほど恵み深く、誠実でまっすぐでした。十字架の苦しみの死に自分を与えることも厭われませんでした。今も、私たち一人一人の事を見て、愛し、罪を裁くのではなく、それを執り成していてくださいます。世界にいるすべての人の、悩みや我が儘や醜い思いも全部知って、面倒臭がったり怒ったり切り捨てたりせず、忍耐深く私たちを導いておられるのです。徹底的に恵みに満ち、徹底的に真実であられる。そして、私たちを愛して、十字架の犠牲も惜しまれなかったのです。「神の御子」とはそういう方でした。

 その方のようになるとは、偉くなる事ではありませんし、そうなれないからと僻んだり、ふて腐れたりすることではありません。むしろそれは、低くなること、謙ること、上ではなく下へと成長することです。そして、イエスは、私たちをそのような意味で、確かにご自分に似た者にしてくださるのです。でもそれは、決して私たちがいつか神になるという事ではないのです。

 モルモン教という異端は、人は死んだらキリストのようになる、と教えます。宗教や思想では、人間は誰でも死んだら神と一体化すると教えるものがあります。キリストは神ではなく、特別な人間であって、私たちと変わらない、としたいのが人間です。それは一見平等で正しいように思えて、実は、唯一無二の神の御子キリストが、私たち小さな人間に過ぎないものを、神の子どもにしてくださった、という壮大なドラマを見失ってしまうことでしかありません。そして、私たちが神の子どもである、という意味も曖昧にしてしまう勿体ない事です。神の永遠の御子キリストが、私たちを神の子どもにしてくださった、という胸躍るような知らせを、忘れないで下さい。

ローマ八17もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 

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問32「キリストさんと呼ばれる果報者」

2016-10-02 16:02:06 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/09/11 ハイデルベルグ信仰問答32「キリストさんと呼ばれる果報者」

Ⅰヨハネ2章27-29節

 「キリストさん」。こんな言われ方をした人はいないでしょうか。私が教会の案内を持ってどこかに行くと「なんだ、キリストか」と言われることがよくあるのです。以前工場でアルバイトをしていた時、名前を呼ばれる代わりに、

 「おい、キリスト!」

と呼びつけられることもありました。そのたびに、心の中では「いや、僕はイエス様じゃありませんから」と思ったものでした。イエス様に失礼で、申し訳ないと思ったのです。でも、今日のハイデルベルグ信仰問答ではそうは言いません。前回の問31では、イエスが「キリスト」即ち「油注がれた者」と呼ばれるのはどうしてか、という事を学びましたが、それに続いて、問32ではこう言うのです。

問32 しかし、なぜあなたが「キリスト者」と呼ばれるのですか。

答 なぜなら、わたしは信仰によってキリストの一部となり、その油注ぎにあずかっているからです。それは、わたしもまた、この方の御名を告白し、生きた感謝の献げ物として自らをこの方に献げ、この世においては自由な良心をもって罪や悪魔と戦い、ついにはこの方と共に全被造物を永遠に支配するためです。

 キリスト者。これは英語では「クリスチャン」と言います。クリスチャンの意味を、ちゃんと伝えるなら、「キリストの人・キリスト党員・キリスト派」という日本語にした方がいいはずです。幸か不幸か「クリスチャン」が日本語になって定着してしまいました。ですから、今日は改めて考えて見て欲しいのです。「クリスチャン」(キリストの人)と呼ばれることの重さ、素晴らしさ、特権を噛みしめてみたいと思うのです。

 イエス・キリストは、最高の預言者、唯一の大祭司、永遠の王であられます。神によって聖霊の油注ぎで任職された、特別なメシヤ(キリスト)です。そして、そのキリストは私たちと一つとなってくださいます。メシヤのお働きとして、私たちを御自身に結びつけてくださいます。それが、私が

「キリストの一部となり」

と言われていることです。そうすると、私たちも「その油注ぎにあずかっている」ということにもなるのです。そうして、私たちはキリストに結ばれた者として、キリストに似た者になるのです。そして、キリストが、預言者、大祭司、王の務めを果たして下さっているように、私たちも、

「この方の御名を告白し」

て預言者的な務めを果たし、

「生きた感謝の献げ物として自らをこの方に献げ」

ることによって祭司のような存在となり、

「この世においては自由な良心をもって罪や悪魔と戦い、ついにはこの方と共に全被造物を永遠に支配する」

王となる。私たちも、預言者、祭司、王として生きる。それが、私たちが「クリスチャン(キリスト者)」と呼ばれ、キリストに結ばれて一つとされた目的なのです。

 勿論、イエスこそが、最高の預言者、唯一の大祭司、永遠の王です。私たちは、そのイエス・キリストに結ばれることによって、そのイエスに似た者へと変えられていくのであって、私たちがイエスに取って代わる預言者になるとか、半分半分にするとか、そういうことではありません。力とか権力とか、特別な地位に上っていく、というようなゆがんだイメージは持たないで下さい。むしろ、私たちが喜んで神の言葉を伝え、自分を感謝の献げ物として捧げるようになる。もっと身軽になり、もっと自分を差し出し、愛にあふれるようになっていくことです。

 キリスト御自身が、偉そうにした方ではありませんでした。私たちのために、人となり、貧しく、弱くなり、十字架の死にさえ惜しまず御自分を差し出してくださったお方です。私たちはそのキリストに似た者とされるのです。また、別の言い方をすれば、私たちの造り主である神は、私たちを本来の私たちに取り戻したいのです。無理な目標を押しつけるのではなくて、私たちを造られた神は私たちのことを、私たち以上に、一番ご存じです。その神が、キリストの贖いによって回復しようとしているのは、私たちにとって一番自然で、私たちらしい生き方です。私たちが勉強をしたり知識を身につけるのは、預言者的な務めを果たすためですし、人間関係で成長するのは、祭司的な務めを果たすためですし、あらゆる関わりが、王としての務めにつながります。

 神は私たちが嘘やごまかしで生きたり、いじめたり張り合うだけだったり、無責任な生き方をするために私たちを造られたのではありません。そういう独り善がりな生き方から、キリストは救い出してくださいます。そして、私たちがキリストに結ばれることによって、私たちの生き方が新しく、シッカリとした、本当の意味で尊い生き方、リーダーシップを発揮できる生き方へと導いてくださるのです。

Ⅰヨハネ二27あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、-その教えは真理であって偽りではありません-また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

 ここにハッキリと

「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちに留まっています」

とありますね。注ぎの油がある、とは私たちもキリストと同じように油注がれた「キリスト者」だということです。そして、私たちがキリストに留まる、と言われています。私はもう聖霊の油を注がれたのだから、自分一人で大丈夫、誰からも何も言われずに一人で預言者、祭司、王になります、なんて言う人はこの御言葉から離れてしまっています。ハイデルベルグ信仰問答でも

「わたしが信仰によってキリストの一部となり」

とありました。キリストの一部、元の言葉では

「キリストのからだの枝となり」

という言葉です。教会の一員となる、と言うことです。自分一人ではなく、教会に結ばれて、一緒に預言者、大祭司、王の務めを果たしていくのです。自分が頑張るのではないのです。教会の中で、励まし合い、支え合い、キリストを見上げることも助けられながら、キリストの体のお働きの一環を喜んで担うのです。

 「クリスチャン」と呼ばれたり、名乗ったりすることを恥じないで欲しいのです。東日本大震災の被災地で、教会も協力しながら支援活動をしました。イエス様の話や教会の名前など出さず、黙々と活動をしているうちに、地域の方々が「キリストさん、ありがとう」と言って来て、そこで新しく教会が始まったそうです。地元の人もまさかホントにイエス・キリストと勘違いしてはいません。分かっているのです。でも、キリストさん、という言い方が一番しっくり来たのです。そんな風に呼んでもらえるなんて、なんて光栄でしょう。幸せでしょう。主は私たちを通して、御自身の業をなさるのです。

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