聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き19章8-22節「告白させてくださる神」

2018-03-11 17:19:04 | 使徒の働き

2018/3/11 使徒の働き19章8-22節「告白させてくださる神」

1.手ぬぐいや前掛け

 大都市のエペソで[1]、パウロはいつものようにユダヤ人の会堂で語ることから始めました。そして、そこでまた反対をする人々の頑なな抵抗にあったので、そこから離れ、

「ティラノ」

の講堂で論じました。多くの人が行き交うエペソで二年にわたって語り、教会形成や宣教師の派遣もしたことで、アジアに隈無く主の言葉が届けられました[2]

 しかし、そうしたパウロの宣教戦略とか知的な説得だけではなかったことは、11節以下の出来事でよく分かります。神はパウロの手によって

「驚くべき力あるわざ」

をなさいました。これは「滅多にない特別な」という意味です。ですから「こんな事が自分にもあればいいのに」思いたい所ですが、これは驚くべき特別な事で、パウロの生涯においてさえ特筆すべき出来事だったので、残念ながら同じ事を期待できるような事ではないと言っているのですね。それは、

「パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出て行くほどであった」

という程の、驚くべき力あるわざでした。

 10代の頃聞いた説教で「これは手ぬぐいや前掛け。スーツやネクタイではない」という話が忘れられません。パウロは講堂で論じましたが、エリートやインテリではありませんでした。汗をかき、汚れ仕事をし、手ぬぐいや前掛けを身に着けて働いていたのだ。「牧師は口ばっかりの書斎の教師でなく、タオルを巻き体を使って仕事をしてこそ、パウロの手本に倣うことだ」と言われました。で、そういうパウロの姿を見て、パウロの汗や汚れが染みついた手ぬぐいや前掛けを「汚い」と嫌がらずに持って行った人たちが、身近な人にそれを当てて病気を癒やされる出来事があったのです。とても迷信じみた事です。特にプロテスタント教会にはこうした御利益のようなものへの警戒感があります。それは大事な事です。この時も、そのタオルやエプロンに力があったのではなく、神がなさった類例のない奇跡でした。もし今もこのタオルやエプロンが残っていたとしてもそれ自体に癒やしの力があると期待するのは勘違いでしょう。けれども、そういうリスクもあるのに、神はこの迷信じみた奇跡を許されました[3]。それはこの後に明らかになるように、大都市エペソは魔術やオカルト、迷信の町でもあったからです。今も先進国の日本でも科学や富では飽き足らずに占いや願掛け、厄除けが盛んなのと同じです。その影響や考えが非常に根深いために、神も必要な事として驚くようなことをなさいました。

2.信仰に入った人たちの告白

 13節以下に

「ユダヤ人の巡回祈祷師」

「祭司スケワの子」

と名乗る、怪しげな七人です。そんな彼らがいる事自体エペソの街のオカルト好き、迷信好きを表しています。この人々がパウロの真似をして「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言うと、効力を発揮するどころか、返り討ちに遭います。飛びかかられて押さえ込まれ、逃げる笑い話になりました。この結果、街の人がみな恐れを抱き、イエスの名に一目置くようになりました。

18そして、信仰に入った人たちが大勢やって来て、自分たちのしていた行為を告白し、明らかにした。19また魔術を行っていた者たちが多数、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を合計すると、銀貨五万枚になった。

 この変化に目を向けましょう。最初は、パウロのタオルやエプロンを持って行って病気が治るという驚きの癒やしに人は目を見張りました。迷信や魔術まがいのことが罷り通っていたエペソで、この奇跡は特別な注意を引いたでしょう。ではパウロの服でさえ力があるのだから、あのイエスの名前にはどんな呪文よりも力があるかもと試したら、別の意味でその名前の特別さを思い知ることになった。それを知ったとき、信者たちは来て、自分のしていた行為を告白して、魔術書も持って来て焼き捨てた、というのです。始まりは、パウロの道具を持って帰って力に与ろう、でした。それが、パウロの所にやって来て、自分のしてきたことを告白し、隠し持っていたものを差し出し、手放す。この180度の変化こそ

「驚くべき力あるわざ」

です。

 彼らはキリストを信じてもまだ魔術書を手放せませんでした。告白しなければならないようなことをコソコソ続けていました。恥ずべき行為や迷信と二股掛けていたのです。その彼らが、イエスの力を知った。自分の生き方を告白しなければ、持っていた間違いを惜しまずに捨てなければ、と変わったのです[4]。怖くて仕方なしにではありません。

「銀貨五万枚」[5]

 何百万円にも当たる書物も燃やしても罰は当たりませんでした。そもそも無駄な買い物でした。それを捨てて、隠してきた事を神の前に告白しよう。このイエスこそ本当の神だ。呪文や小道具のように自分に都合に合わせて出したりしまったり出来る力ではなく、自分の全生活にとって力ある生ける神だ。そう知ることは、恐れ多さと深い解放をもたらします。パウロの元にやって来た彼らの表情は、清々して涼しげで、何とも言えない解放の表情だったのではないでしょうか。パウロも吃驚したでしょう。もう弟子となっていた人たちがやって来て、自分のしてきたことを告白して、魔術書を出して焼く。「ああ本当に神は、人の心を解放してくださった。この人々の心の奥深くに触れて、出会いを体験させてくださった」と手を合わせたでしょう。

3.エルサレム、そしてローマへも

 こうしてパウロの働きは、大変な面もありながら力強く広まりましたが、パウロはエペソを離れる決心をします[6]。それは、マケドニアとアカイア、つまり一旦ギリシア地方のテサロニケやピリピ、コリントを訪問して、エルサレム教会への献金を預かってから、エルサレム教会に行く、というルートです。献金集めだけなら他の人を遣わして終わりですが、パウロ自身がわざわざ行く所に、直接会って顔を見て話をし一緒に過ごすことを大事にしていたことが窺えます。そしてローマに行くのも、ローマ書を読みますと、ローマの教会を助けたいし、

「ともに励ましを受けたい」

と思ったからです[7]。ローマの教会も、ただ信者を増やし、伝道するだけでなく、そこにいる一人一人が本当にイエスを知り、裏も表もない恵みに与るためでした。

 神はすべてを知っておられます。そして、本当に憐れみ深いお方です。ただ力尽くで人々に迫って、悔い改めやさばきを語るのでなく、パウロの仕事着を持ち帰る幼稚な信心をも受け入れてくださいました。きっかけはそんな事でも良いのです。そうして始まった信仰が、やがて神が私たちのもっと深い願いを知っておられる方だと知るようになるのです。病気の癒やしや御利益も願ったけれど、そうした心の奥に合った心の不安、疑い、恐れ、誰にも言えない秘密…。そうしたものを全て知っておられるお方、その告白を聞いてくださるお方、人が求めて止まない本当の「心の友」なる神。そのイエスの名によって自分が洗礼を受けていたと気づく。エペソ教会のこの様子に、そんなメッセージがあるようです。神は、信じながらまだ魔術の本や問題行動を隠し持っている人々にも、強いられてでなく自分から告白するようになるタイミングを待っておられました。そしてその今更ながらの告白を受け入れて、赦しと解放を与えてくださるお方です[8]。そういう神との出会いによって、私たちもまた、他者との関係に、待つこと、聴くこと、そして自分自身が腹を割って向き合う正直なあり方をしたいのです。

 今、奇跡もなくて神のわざが見えないとしても、神は私たちの心も、隠れた行いも全て見ておられます。それが怖いことだと思うほど私たちが神をまだ人間と同じように小さく考えているとしても、そんな迷信からもイエスは私たちを救い出してくださいます。私たちの心の重荷を主に告白しましょう。捨てるべきものは惜しまずに捨てましょう。私たちの生き方がもっと軽くされて、裏表のない歩みへと変えられる主の恵みを戴きましょう。どんな大金やどんな恥をかく事とも引き替えに出来ない、本当に得がたい友である主イエスに、毎日告白しましょう。

「力強く、恵み深く、私たちとともにおられる主よ。エペソでの特別な御業に、私たちも自分の生き方や心を顧みて、あなたに招かれている恵みを受け止めます。主よ、どうぞ一人一人の心の重荷を下ろさせてください。この複雑で多くのものに囲まれ、煽られる、息苦しい時代にあって、あなたにある喜びや自由、深く親しく、希望に満ちた歩みを分かち合わせてください」



[1] 今日の箇所のエペソは、今のトルコ共和国にあたる「アジア州」の州都、大都市です。そこでパウロは一番長い期間、三年の伝道をしました。ここからコリントやローマに手紙を書き、後にはローマからここに「エペソ人への手紙」を書きました。テモテやヨハネがここで牧師をし、最後の黙示録にもエペソ教会への手紙がある。聖書では最も詳しく長く知られる教会です。

[2] パウロが語っただけでなく、そこで育てた人をコロサイやヒエラポリスなどあちこちに派遣もしたようです。

[3] ルカ六19のイエスのエピソードを思い出します。

[4] 「告白する」はっきり告白(新共同訳)は、「十分に告白する」「洗いざらい告白する」というニュアンスの動詞です。

[5] この銀貨が「ドラクマ」つまり「デナリ」であるなら、五万日分の日当です。「シケル」銀貨なら、その四杯です。

[6] これが「御霊に示されて」なのか、自分の霊のことで「決心した」なのかで、翻訳は分かれています。

[7] ローマ人への手紙一「10祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。11私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。12というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」

[8] この後23節からにはエペソのアルテミス神殿で稼いでいた職人たちが、パウロのお陰で儲けが減った、女神アルテミスのご威光が失われてしまう、と大騒ぎしています。神が冒涜されるとはけしからん、と暴動になりかけます。その危険も何とか静まったようですが、そこに浮かんでくる神理解は崇めなければならない神、威光が地に落ちることもあり得る神、人間によって栄光が左右されるような神でしょう。キリストはそれとは全く違いました。人間が神に心を開けるよう、病気や問題の苦しみからまず初めて下さるお方です。

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問114「わずかでも始まった」ピリピ3章12-16節

2018-03-04 17:52:24 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/3/4 ハ信仰問答114「わずかでも始まった」ピリピ3章12-16節

 先週まで、神である主が神の民に下さった十戒について一つずつお話しをしてきて、最後の第十誡までお話しが出来ました。神以外の神を持たない、父と母を敬う、殺さない、姦淫しない、欲しがらない、そういう戒めを一通りお話しした上で、次の問答は、十戒を守ることが出来る人はいますか?という問いかけをします。

問114 それでは、神へと立ち帰った人たちはこのような戒めを完全に守ることができるのですか。

答 いいえ。それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間はこの服従をわずかばかり始めたにすぎません。しかしながら、その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけにでなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです。

 十戒は神が下さったとても大切な戒めですが、私たちは神の民とされても、これを完全に守ることは出来ません。私たちはこの戒めをもらって、大切な生き方を願い始めただけです。完全に守ることなど出来ませんし、完全どころかほんの一歩を始めたに過ぎません。これを誤解して、十戒や聖書の戒めを完全に守れるのがクリスチャンだと思っている人は沢山います。

「敵を愛しなさい」

「右の頬を打たれたら左も差し出す」

なんてのがクリスチャンで、自分には出来ない、と言う人も結構います。クリスチャンでも、完璧な愛があるように生きる立派な生き方がクリスチャンの証しだ、とどこかで思い込んでいる人がいます。しかし、それは無理ですし、聖書の教えそのものとも違います。自分が愛のある、立派なクリスチャンだと見られたい-そんな思い上がりは思い上がりとして捨てなければなりません。また、そんな誤解をされて、自分には無理だと思っても凹む必要はありません。それは人間が思い込んでいる勝手な誤解です。聖書が教えているのは、私たちの本当の幸せや、自然な本来のあり方、神様の基準であって、それを私たちが、いや

「最も聖なる人々」

でさえ、出来るわけではないのです。

 歴史上の立派なキリスト者も私たちもみな、神の戒めを完全に守るには程遠いのです。その一例として、聖書の使徒パウロもそう告白しています。

ピリピ三12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

13兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、

14キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

 励まされる言葉だと思います。パウロも、既に得たのでも、完全にされているのでもない。ただ捕らえようと追求して、目標を目指して走っている、というのです。キリスト・イエスが下さる生き方は、目標を目指して走る長距離走のようなものです。そして長距離ですから、短距離のようにダッシュして全力で走ってはすぐにバテて息が上がってしまいます。生涯掛けて、神の国のゴールを目指して、淡々と走って行くのです。でもその走り方は、まだ下手かも知れません。へっぴり腰だったり、無駄なエネルギーを使ったり、力みすぎて転んだりするかもしれません。神は十戒を与えて、神の国の生き方を教えてくださいましたが、私たちはまだ下手で、それを身に着けている途中です。でもそうこうしながらも、神は私たちの下手さを笑ったりなじったり非難しません。私たちと一緒に走り、応援して下さいます。休みやケアをしてくださいます。そして、私たちとともにおられて、完走させてくださるのです。完璧なフォームで走ったり、完璧なスウィングやピッチングをしたり出来なくても、スポーツは楽しいものです。神の戒めもそれと同じです。神は私たちに、神を愛し、互いに愛し合うよう命じられました。これが私たちが願うことです。大事なのは、神を愛し、人を愛することです。

 私たちが「自分が素晴らしい愛の人になるぞ」とか、「天使のような人になろう・そう思われたい」と考えているとしたら、おかしなことになります。そうではないでしょう? 大事なのは、自分と同じように、神と人を喜ぶようになること。だから、まだ今は、完全には程遠い始まりです。それでも良いのです。そして、完璧ではないから、私たちは神に頼ります。自分の過ちを告白します。愛を願いつつ、そうできない自分に気づかされる度に、正直にそのことを祈ります。自分では恥ずかしいと思うとしても、聖書はそれが今の私たちの姿だとあっけらかんと教えています。

 だから、その自分の思いを告白し、祈ってもらうことが出来ます。大きな失敗をしたとしても、その時こそ、自分を差し出して祈ってもらい、悔い改めと赦しを一緒にしてもらえます。立派な人でないとダメなような考えで、クリスチャンだったら神様から完全な人にしてもらえると考えると、息苦しい関係になります。愛し合うことを求めるはずが、愛がないといって裁き合うのは、大変なちぐはぐです。それよりも、不完全な者同士だから、支え合い、それでも愛し合い、助け合える。立派なふりをしなくても良いし、正直に告白をしたり、その人を受け入れて、愛する方が遥かに美しい姿ではないでしょうか。

 こう考えると、神は私たちに「愛しなさい」という命令だけを下さったのではないことに気づきます。愛する相手との出会いも下さいました。そしてそれは、私たちを愛してくれる仲間でもあります。また、愛したいという

「真剣な決意」

も下さいました。それはまだ、ほんの少しの始まりでしかありません。まだまだ、妬みがあります。自分の方が大事に思えます。けれども、神はその私たちを愛してくださり、私たちがともに愛し合うことを願って、そのために私たちに近づいてくださいました。イエスは、私たちを愛して、十字架の苦しみと孤独、屈辱と忍耐にも耐えて、赦しといのちを下さいました。その愛に、私たちは到底及びません。イエスのような愛なんて、遥かに手の届かない愛です。しかし、そのイエスが私たちに近づいて、御自身を与えてくださいました。私たちが、神を愛したい、人を愛したいと願う心は頼りなくて弱くても、でもそれ自体が、イエスが下さったかけがえのない始まりなのです。私たちが今、主の愛をいただいて、神の戒めに従って生きるよう歩み始めている。謙虚に、希望をもって覚えましょう。

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使徒の働き18章1-11節「特別な夜」

2018-03-04 17:41:56 | 使徒の働き

2018/3/4 使徒の働き18章1-11節「特別な夜」

 使徒の働き十八章は、パウロの第二回伝道旅行で、ギリシャのコリントに行き、そこで伝道した事が書かれています。コリントはその地域第一の都市で、経済的に栄え、風紀は乱れた都でした。そこでパウロは二年近く伝道をします。後に、この教会に書かれた手紙の二通が聖書には残されています。そういう大事な教会の始まりがここに書かれています。

1.初めての幻

 そのコリントでの伝道で、目に付くのは9節以下の幻ではないでしょうか。

ある夜、主は幻によってパウロに言われた。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。10わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」

 実はパウロが主の幻を見たのは、聖書が記している限りだと五~六回です[1]。最初はまだキリストを信じる前、教会を激しく憎んで滅ぼそうとしていた時に、強烈な幻で回心したのです。やがてアンティオキア教会のリーダーになり、二度の伝道旅行をしてきましたが、その間こんなにハッキリと主が語られた幻は書かれていません。「主が禁じられた」とかマケドニア人の幻を見ることはありましたが、主が夜の幻でハッキリとパウロに

「恐れないで語り続けなさい。わたしがあなたとともにいる」

と言うなんて初めてです[2]。またここで主が言われた内容も、特別なパウロへの約束というよりも、聖書に繰り返されている神の契約です。神は民に対して、ともにいること、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となると、聖書を貫いて何度も何度も繰り返されます。パウロだけでなく、全てのキリスト者が、私たちも含めて約束されている、主の恵みです。ですからこの言葉も、教会は自分への約束として聴いてきたのです。

 コリントでパウロは約二年過ごします。これまでの宣教では数ヶ月か数日で、迫害や区切りをつけて次の町に移ったのです。今までになかった長期間です。一年半の間の事は多く書かれていませんが、穏やかに過ごせたばかりではなく、本当にいろんな事があったでしょう。コリントを去ってから書かれた手紙を読んでも、パウロはコリント教会のために悩まされていますし、当時もどれほど苦労したかしれません。しかしルカはそのような大変なことには殆ど触れません。それよりも、その始まりのある晩、主が夢に現れて幻で語ってくださった、この出来事を記すのです。主がパウロに久しぶりに現れてくださったこの夜は、特別な夜でした。決して小さな夢ではありませんでした。今に至るまでこの出来事は慰めとなってきたのです。

2.恐れるパウロ

 なぜ主はこの夜、幻で現れて、パウロにお語りになったのでしょうか。「恐れるな」と言われるからには、パウロが恐れていて、こういう主の言葉を必要としていたのでしょうか。確かにパウロはコリント人への手紙第一二3で

「あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました」

と書いています。前のアテネでの疲れや孤独で弱って恐れていたのかもしれません。でもそこで、後々長いつきあいになるアクラとプリスカ夫妻、ローマから来たユダヤ人夫婦に出会うなんて、思いがけない出会いがありました[3]。それも同業者で一緒に協力できるなんて吃驚です。会堂で説教して、結果的にはそこを出て行く決断をするのですが、それは残念だったはずです。でも決別したつもりが、そこの会堂司が家族全員とともに主を信じて、仲間になりました。多くのコリント人も信じて順調だったはずです。この後十八章の出来事一つ一つが想像もしなかった展開でしょう。ここまでの伝道旅行のどの時よりもパウロが恐れて孤独で、主の幻を必要としていた、とは思えません。あえて申し上げると、私たちが恐れたり孤独だったりして、主の幻や夢の声が聞きたいと強く強く思うとしても、それで主の声が聞こえるとか、慰めが来るとか、祈りが応えられるとか、そういう保証はないのです。暗闇のような毎日が続くこともあるでしょう。涙も枯れて過ごす日もあるでしょう。主がそばにいるとは感じられない。そういう時はあるのです。それでも主はそばにおられるのです。[4]

 この幻の後、パウロは一年半

「腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続け」

ます。それはコリントでの宣教がそれだけじっくりする必要があったからでしょう。でもそれでシッカリした教会になったわけではなく、後からコリントに宛てて書かれた二通の手紙はパウロが後々までこの教会の問題や質問をフォローしなければならなかった証拠です。二つの手紙から浮かんでくるのは、分裂や不品行、礼拝での無秩序、賜物を自慢し、裁き合う教会の姿です。それに心を砕き、骨身を削るパウロです。とても教会とは思いたくない姿です[5]。詳しく書いていませんが、もう「コリントで一年半過ごした」というだけで、読者は十分その大変さを想像できたのではないでしょうか。あそこで何もないはずがない、きっと大変だったと想像できたのでしょう。

「わたしの民がたくさんいる」

と言われたコリント教会は、実に人間的で課題だらけでした。外からの迫害より、内側の争いでパウロは苦労します。主がともにいて守ってくださって、主の民を備えておられるとは、問題や大変さがない保証では全く違うのです。

3.「保証」ではなく「信頼」

 この十八章の展開一つ一つが、予想の出来ない出来事でした。パウロの伝道旅行は、計画通りというよりも、計画にない出来事の連続の珍道中でした。それこそ実に私たちの生きている、予想不可能で思うままにならず、地道な現実生活そのものです。パウロがコリントで腰を据えて伝道したのは、コリントだろうと日本だろうと、伝道や教会形成が本当に実を結ぶには、じっくり腰を据えて取りかかる必要があるからです。短い滞在で、種だけ蒔いて、深入りしないうちに次に行く働きもあるのでしょうが、それでは本当の人間関係は育ちません。そして長く一緒に過ごせば、それだけ人間らしさが出て来ます。長年一緒にいる家族だってそうです。コリント教会の問題はとても極端です。でも、それは特殊でも特別でもなく、実に人間臭い姿です。そしてパウロ自身の人間臭さも、コリント書には浮き出ています。自分の弱さ、恐れ、苦しさを赤裸々に語るのがコリント書です。しかしそれは不本意だとは言いません。苦しみや弱さや恐れの中で、慰めを受ける。弱さの中に、神の力が現される。だから私は自分の弱さこそ誇る、と言いました。それがパウロの飾らない姿勢でした。

 パウロの信仰は人間らしさや自分の弱さを踏まえた信仰であり、宣教でした。そういうコリント教会の人間らしい宣教に向けて、主は夜の幻でパウロに

「恐れるな」

と仰いました。パウロが恐れていたから慰めるため、というよりも、これから起きる出来事が今までよりも深いつきあいでの教会形成になり、人の抱える問題や闇に向き合って、恐れずにおれない事を見越しての覚悟を与えるためではなかったでしょうか。そこから目を背け、主がともにいるから大丈夫、と明るいことしか言わないのではなく、主がともにいるからこそ、人間の闇にもシッカリと、しかし優しく向き合い、そういう私たちとともにいてくださる主を仰いだのです。

 主がともにいるとは、大変な事は起きないという保証や、人間離れした希望や楽観的な憶測ではありません。もっと人間らしく、もっと人間の心の機微や、自分自身の恐れや弱さにも素直にならせてくれる約束です。どこに行くか分からない、未知の体験の始まりの合図でした[6]。出会う人たちがどんな問題を抱えて、手こずらされるとしても、それでも主はともにおられる、主の民だと信じて向き合う。そういう姿勢へとパウロの背中を押したようです[7]。私たちの教会や家族、コミュニティのあらゆる場面で、主はともにいてくださいます。だから、自分の弱さや恐れを恥じず、そこにこそ神の恵みが働くと信じて、歩むことが出来ます。どんな時も

「わたしがあなたとともにいる」

と仰る主なのだと教えられて、私たちもその主を語り、その主の民として生かされていくのです[8]

「「この町にはわたしの民がたくさんいる」と仰った主よ。その選びと摂理を信じて、私たちもここに希望をもって歩みます。何が起きるかを案じて、保証や答が欲しくなりますが、あなたは、あなたが私たちとともにいるとの約束と信頼を下さいます。明日がどんな日か分からなくても、明日を守られる主がおられる。この恵みに立って、私たちをここに歩ませてください」



[1] 使徒九3-6、十八9-10、二二17-21(時系列では九章の後半)、二三11、二七23-24。また、Ⅱコリント十二1-4、9も可能性としてあげられます。

[2] パウロの観た幻は、この後も二回出て来る。しかし、復活と会わせても四回。いつも幻を見たり、神とおしゃべり出来たのではない。こういう幻は初めて。それだけに、この言葉は、パウロにとって特別だったろう。そして、これはパウロを通しての、私たち全員への語りかけなのだ。主がともにいてくださる。それは私たちにとっての保証や想定内の展開とは違う。しかし、私たちの精一杯の想定よりも遥かに深く、尊く、険しく、力強い計画なのだ。

[3] この2節の「クラウディウス帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じた」のが、紀元49年に発布されたと分かっていますので、「使徒の働き」の出来事が年代測定できる定点になっています。

[4] この事では、特に最近、マザー・テレサが、尊い愛のわざを続け、ノーベル平和賞を受賞するほどの大きな影響を与え続けた傍ら、自身のうちの深い孤独、闇、不信仰を吐露していたという記事が印象深くあります。また、「安心して絶望できる社会」というキーワードも、「必要なら神が慰めてくださる!」という安直な楽観的信仰に釘を刺してくれます。

[5] 社会的にあまり高くない人が集まっていたともあります。また、パウロは、お金目当てに伝道しているのだと言われないために、手弁当で伝道し、謝礼は一切受け取りませんでした。そういう雰囲気がコリント教会だったのです。

[6] これは、モーセやギデオン、エレミヤ、マリアら、他の聖書の人物の召命で語られる言葉でもあります。大変な生涯の幕開けを告げる言葉でもあるのです。

[7] この「民」という言葉はイスラエルの選民を指す言葉です。しかし、ユダヤ人ではなく、まだ回心もしていない人々を指すのは珍しい用法です。

[8] パウロは、分派や競争や不品行などの問題に心を痛めながら、しかしコリント書で繰り返して語るのは、あなたがたはもう主イエスのものだ、神の民だ、キリスト・イエスがあなたがたのうちにおられるのだ、という言葉です。そしてその自分の限界に行き詰まりながら、主はもう一つの言葉を下さっていました。「Ⅱコリント十二9しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

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