2018/3/11 使徒の働き19章8-22節「告白させてくださる神」
1.手ぬぐいや前掛け
大都市のエペソで[1]、パウロはいつものようにユダヤ人の会堂で語ることから始めました。そして、そこでまた反対をする人々の頑なな抵抗にあったので、そこから離れ、
「ティラノ」
の講堂で論じました。多くの人が行き交うエペソで二年にわたって語り、教会形成や宣教師の派遣もしたことで、アジアに隈無く主の言葉が届けられました[2]。
しかし、そうしたパウロの宣教戦略とか知的な説得だけではなかったことは、11節以下の出来事でよく分かります。神はパウロの手によって
「驚くべき力あるわざ」
をなさいました。これは「滅多にない特別な」という意味です。ですから「こんな事が自分にもあればいいのに」思いたい所ですが、これは驚くべき特別な事で、パウロの生涯においてさえ特筆すべき出来事だったので、残念ながら同じ事を期待できるような事ではないと言っているのですね。それは、
「パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けを、持って行って病人たちに当てると、病気が去り、悪霊も出て行くほどであった」
という程の、驚くべき力あるわざでした。
10代の頃聞いた説教で「これは手ぬぐいや前掛け。スーツやネクタイではない」という話が忘れられません。パウロは講堂で論じましたが、エリートやインテリではありませんでした。汗をかき、汚れ仕事をし、手ぬぐいや前掛けを身に着けて働いていたのだ。「牧師は口ばっかりの書斎の教師でなく、タオルを巻き体を使って仕事をしてこそ、パウロの手本に倣うことだ」と言われました。で、そういうパウロの姿を見て、パウロの汗や汚れが染みついた手ぬぐいや前掛けを「汚い」と嫌がらずに持って行った人たちが、身近な人にそれを当てて病気を癒やされる出来事があったのです。とても迷信じみた事です。特にプロテスタント教会にはこうした御利益のようなものへの警戒感があります。それは大事な事です。この時も、そのタオルやエプロンに力があったのではなく、神がなさった類例のない奇跡でした。もし今もこのタオルやエプロンが残っていたとしてもそれ自体に癒やしの力があると期待するのは勘違いでしょう。けれども、そういうリスクもあるのに、神はこの迷信じみた奇跡を許されました[3]。それはこの後に明らかになるように、大都市エペソは魔術やオカルト、迷信の町でもあったからです。今も先進国の日本でも科学や富では飽き足らずに占いや願掛け、厄除けが盛んなのと同じです。その影響や考えが非常に根深いために、神も必要な事として驚くようなことをなさいました。
2.信仰に入った人たちの告白
13節以下に
「ユダヤ人の巡回祈祷師」
は
「祭司スケワの子」
と名乗る、怪しげな七人です。そんな彼らがいる事自体エペソの街のオカルト好き、迷信好きを表しています。この人々がパウロの真似をして「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言うと、効力を発揮するどころか、返り討ちに遭います。飛びかかられて押さえ込まれ、逃げる笑い話になりました。この結果、街の人がみな恐れを抱き、イエスの名に一目置くようになりました。
18そして、信仰に入った人たちが大勢やって来て、自分たちのしていた行為を告白し、明らかにした。19また魔術を行っていた者たちが多数、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を合計すると、銀貨五万枚になった。
この変化に目を向けましょう。最初は、パウロのタオルやエプロンを持って行って病気が治るという驚きの癒やしに人は目を見張りました。迷信や魔術まがいのことが罷り通っていたエペソで、この奇跡は特別な注意を引いたでしょう。ではパウロの服でさえ力があるのだから、あのイエスの名前にはどんな呪文よりも力があるかもと試したら、別の意味でその名前の特別さを思い知ることになった。それを知ったとき、信者たちは来て、自分のしていた行為を告白して、魔術書も持って来て焼き捨てた、というのです。始まりは、パウロの道具を持って帰って力に与ろう、でした。それが、パウロの所にやって来て、自分のしてきたことを告白し、隠し持っていたものを差し出し、手放す。この180度の変化こそ
「驚くべき力あるわざ」
です。
彼らはキリストを信じてもまだ魔術書を手放せませんでした。告白しなければならないようなことをコソコソ続けていました。恥ずべき行為や迷信と二股掛けていたのです。その彼らが、イエスの力を知った。自分の生き方を告白しなければ、持っていた間違いを惜しまずに捨てなければ、と変わったのです[4]。怖くて仕方なしにではありません。
「銀貨五万枚」[5]
何百万円にも当たる書物も燃やしても罰は当たりませんでした。そもそも無駄な買い物でした。それを捨てて、隠してきた事を神の前に告白しよう。このイエスこそ本当の神だ。呪文や小道具のように自分に都合に合わせて出したりしまったり出来る力ではなく、自分の全生活にとって力ある生ける神だ。そう知ることは、恐れ多さと深い解放をもたらします。パウロの元にやって来た彼らの表情は、清々して涼しげで、何とも言えない解放の表情だったのではないでしょうか。パウロも吃驚したでしょう。もう弟子となっていた人たちがやって来て、自分のしてきたことを告白して、魔術書を出して焼く。「ああ本当に神は、人の心を解放してくださった。この人々の心の奥深くに触れて、出会いを体験させてくださった」と手を合わせたでしょう。
3.エルサレム、そしてローマへも
こうしてパウロの働きは、大変な面もありながら力強く広まりましたが、パウロはエペソを離れる決心をします[6]。それは、マケドニアとアカイア、つまり一旦ギリシア地方のテサロニケやピリピ、コリントを訪問して、エルサレム教会への献金を預かってから、エルサレム教会に行く、というルートです。献金集めだけなら他の人を遣わして終わりですが、パウロ自身がわざわざ行く所に、直接会って顔を見て話をし一緒に過ごすことを大事にしていたことが窺えます。そしてローマに行くのも、ローマ書を読みますと、ローマの教会を助けたいし、
「ともに励ましを受けたい」
と思ったからです[7]。ローマの教会も、ただ信者を増やし、伝道するだけでなく、そこにいる一人一人が本当にイエスを知り、裏も表もない恵みに与るためでした。
神はすべてを知っておられます。そして、本当に憐れみ深いお方です。ただ力尽くで人々に迫って、悔い改めやさばきを語るのでなく、パウロの仕事着を持ち帰る幼稚な信心をも受け入れてくださいました。きっかけはそんな事でも良いのです。そうして始まった信仰が、やがて神が私たちのもっと深い願いを知っておられる方だと知るようになるのです。病気の癒やしや御利益も願ったけれど、そうした心の奥に合った心の不安、疑い、恐れ、誰にも言えない秘密…。そうしたものを全て知っておられるお方、その告白を聞いてくださるお方、人が求めて止まない本当の「心の友」なる神。そのイエスの名によって自分が洗礼を受けていたと気づく。エペソ教会のこの様子に、そんなメッセージがあるようです。神は、信じながらまだ魔術の本や問題行動を隠し持っている人々にも、強いられてでなく自分から告白するようになるタイミングを待っておられました。そしてその今更ながらの告白を受け入れて、赦しと解放を与えてくださるお方です[8]。そういう神との出会いによって、私たちもまた、他者との関係に、待つこと、聴くこと、そして自分自身が腹を割って向き合う正直なあり方をしたいのです。
今、奇跡もなくて神のわざが見えないとしても、神は私たちの心も、隠れた行いも全て見ておられます。それが怖いことだと思うほど私たちが神をまだ人間と同じように小さく考えているとしても、そんな迷信からもイエスは私たちを救い出してくださいます。私たちの心の重荷を主に告白しましょう。捨てるべきものは惜しまずに捨てましょう。私たちの生き方がもっと軽くされて、裏表のない歩みへと変えられる主の恵みを戴きましょう。どんな大金やどんな恥をかく事とも引き替えに出来ない、本当に得がたい友である主イエスに、毎日告白しましょう。
「力強く、恵み深く、私たちとともにおられる主よ。エペソでの特別な御業に、私たちも自分の生き方や心を顧みて、あなたに招かれている恵みを受け止めます。主よ、どうぞ一人一人の心の重荷を下ろさせてください。この複雑で多くのものに囲まれ、煽られる、息苦しい時代にあって、あなたにある喜びや自由、深く親しく、希望に満ちた歩みを分かち合わせてください」
[1] 今日の箇所のエペソは、今のトルコ共和国にあたる「アジア州」の州都、大都市です。そこでパウロは一番長い期間、三年の伝道をしました。ここからコリントやローマに手紙を書き、後にはローマからここに「エペソ人への手紙」を書きました。テモテやヨハネがここで牧師をし、最後の黙示録にもエペソ教会への手紙がある。聖書では最も詳しく長く知られる教会です。
[2] パウロが語っただけでなく、そこで育てた人をコロサイやヒエラポリスなどあちこちに派遣もしたようです。
[3] ルカ六19のイエスのエピソードを思い出します。
[4] 「告白する」はっきり告白(新共同訳)は、「十分に告白する」「洗いざらい告白する」というニュアンスの動詞です。
[5] この銀貨が「ドラクマ」つまり「デナリ」であるなら、五万日分の日当です。「シケル」銀貨なら、その四杯です。
[6] これが「御霊に示されて」なのか、自分の霊のことで「決心した」なのかで、翻訳は分かれています。
[7] ローマ人への手紙一「10祈るときにはいつも、神のみこころによって、今度こそついに道が開かれ、何とかしてあなたがたのところに行けるようにと願っています。11私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。12というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」
[8] この後23節からにはエペソのアルテミス神殿で稼いでいた職人たちが、パウロのお陰で儲けが減った、女神アルテミスのご威光が失われてしまう、と大騒ぎしています。神が冒涜されるとはけしからん、と暴動になりかけます。その危険も何とか静まったようですが、そこに浮かんでくる神理解は崇めなければならない神、威光が地に落ちることもあり得る神、人間によって栄光が左右されるような神でしょう。キリストはそれとは全く違いました。人間が神に心を開けるよう、病気や問題の苦しみからまず初めて下さるお方です。