聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問118「すべてのことを神に求めよう」ヤコブ1章5-8、17-18節

2018-04-15 20:43:13 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/4/15 ハ信仰問答118「すべてのことを神に求めよう」ヤコブ1章5-8、17-18節

 祈りについて今まで二回見てきました。それは絵にするなら、聖書に基づいて、私たちがともに祈る、こんな姿に出来るかもしれません。

今日はその続きの118です。

問118 神は私たちに、御自身に対して何を求めるようにとお命じになりましたか。

 皆さんなら、神は私たちに何を求めるようお命じになっていると思いますか? どんな祈りを神は喜ばれるでしょう。逆に、「こんな願いは神に祈ってもなぁ」と思って遠慮した方がいいことはあるのでしょうか。ハイデルベルグ信仰問答はこう言います。

答 霊的また肉体的に必要なすべてのことです。主キリストは、わたしたちに自ら教えられた祈りの中に、それをまとめておられます。

 天の神は、必要なことをすべて求めなさいと言われます。ただ信仰や礼拝だけでなく、霊的また肉体的に必要なすべてを祈るのを待っておいでです。今日食べるパンや健康、環境、睡眠など体のことから、信仰や聖さ、聖書の学び、誘惑からの守り、愛を行う勇気…。要するに、霊的また肉体的、というのは、見える必要も見えない必要もすべて、ということです。そうした全てを神に祈り求めるようにと聖書は教えています。

ヤコブ一5あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。

 ここでは知恵も求めるよう言われています。「私は知恵が無くて、もっと知恵が欲しいけどそんなこと祈ったら我が儘だろうなぁ」などと思わず、祈っていいのです。嬉しいことだと思いますね。今日から祈りましょう。でも

「少しも疑わずに、信じて求めなさい」

以下はちょっと厳しすぎると思うかもしれません。私たちは少しも疑うなと言われても、まだ不完全な信仰で、神の偉大さを十分に理解するには到底足りません。ですからここでも、ちょっとでも疑う心があってはダメだというのではなく、堂々と開き直って、疑ってかかる横柄な態度を言っているのでしょう。大事なのは、私たちの側がどれほど神の養いを信じるに足りないとしても、神はすべての良い物を十分に下さって、私たちを養い、喜び、完全な賜物さえ与えてくださっている、という揺るがない真理です。それを人間の浅はかな考えで疑うなんて態度は慎みなさい、と戒めているのです。

17すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

18この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。

 天の父である神は、私たちに全ての良い贈り物を下さり、全ての完全な賜物まで下さって、私たちを生み育てて下さるお方です。そして、神は私たちが霊的にも肉体的にも何を必要としているのか、熟知しておられます。

 最近、こんな図を見つけました。

 ここには人間の持っているニーズ(必要なもの)が九つにまとめられています。ただ食べるものがあれば人間は生きていくのではないのだなぁと気づかされますね。安全も必要です。休息(睡眠、休暇)も大切なのは、十戒で「安息」が命じられている通りですね。目的や意味、生き甲斐もなければ、人間の心は死んでしまいます。コミュニティ、仲間、支えてくれる人、所属できる居場所は本当に必要。共感してもらうこと、心と心が通い合うことがないと生きていけないのは、人間はロボットではないからです。愛、これこそ必要です。喜ばれ、尊重され、大事にされること。失敗や挫折や大きな変化や喪失をしても、変わらず自分の価値を重んじてくれる愛。しかし、愛だけで良いわけでもありません。生命の維持、食事や健康も必要です。そして、自主性。自分の意見を持てる事。自分で選択できる事。自分らしさを受け入れてもらうことも、子どもの頃から必要です。最後に創造性。何かを造り出す事、新しい物を生み出したり、創作したり。神は世界を創造されたお方ですから、神は私たちにも創造性を下さって、何かを生み出す事に喜びを感じたり、それを認めてもらう事に自信を持ったりするように、人間の心を作っておられます。

 こうした沢山の面があって、私たち人間は初めて、満たされて生きることが出来ます。そして、この全てに神が関わっておられます。私たちは、こうしたすべての必要を神に祈り求めるよう言われています。勿論、聖書には聖書の表現で、私たちの祈りの模範が沢山ありますが、そこにも私たちは驚くほど豊かな、私たちの生活の必要を網羅した願いを見る事が出来るのです。パウロはピリピの教会にこう勧めました。

ピリピ四6何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 その願いを神が叶えて下さるとは限りません。しかしそれは、神が私たちの必要をご存じない、ということではありません。私たちは自分にこれがどうしても必要だ、適わないと死ぬ、自分はお終いだ、なんて気持ちで色々な事を願うでしょう。でも、その願い通りでなくても、別の方法でもっと素晴らしく神はあなたの必要を満たしてくださるかもしれません。私たちが本当に求めている必要を、神はご存じです。そして、私たちの必要を豊かに答えてくださいます。その事を信頼して、私たちは人知を越えた神の平安をいただくことが出来るのです。次回から主の祈りを見ていきます。主の祈りには、イエスが教えてくださった、私たちの必要な願いのエッセンスがあります。私たちが自分の毎日の必要を、願いを神に祈るとともに、主の祈りや聖書の言葉を通して、イエスは私たちに、本当に必要なことを教えてくれます。そうして、私たちがシンプルでも、豊かに満たされて生きていく事が出来ます。もう一度言います。何も思い煩わないで、どんな時にも、願い事を祈り、献げて、満たして下さる神の平安をいただきましょう。

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使徒の働き二一章17-32節「尊重し合う」

2018-04-15 18:22:17 | 使徒の働き

2018/4/15 使徒の働き二一章17-32節「尊重し合う」

 パウロはエーゲ海周囲での伝道に区切りをつけ船旅を続けて、ようやくエルサレムに到着した。それが今日の21章17節です。前々から予感があった通り、神殿で暴動になり、殺されかけ、あっという間にパウロはローマ兵に囚われて、使徒の働きの最終段階が始まります。

1.誤解の背景

 パウロがエルサレム教会に着いた時、そこにはギリシャやアジアの諸教会から送られた献金を届けるという大事な目的があったはずです。しかしその事には何も触れられていません。むしろ、パウロとの間に深刻な不信感があってそれを解決しなければならなかった状況が鮮明になるのです。喜んで迎える兄弟たちもいましたし、ヤコブや長老たち、主な指導者層はパウロの報告を聞いて

20神をほめたたえ…「兄弟よ。…」

と呼びかけるのです。しかし、それでいて、エルサレムの教会のユダヤ人キリスト者は、パウロが異邦人伝道をしながら、そこにいるユダヤ人たちに

「子どもに割礼を施すな。慣習に従って歩むな」

モーセの律法に背くよう教えていると聞かされて、心穏やかならぬ思いでいた。もし、このままパウロが来た事が彼らに知られたら大変だ、という状況だったのです。そこで、彼らの提案が、ちょうど神殿儀式で誓願を立てている四人がいるので、パウロも参加して費用を払ってほしい。そうすれば、パウロが律法を守って正しく歩んでいることが分かるだろう、という提案です。

 これにパウロは従うのですが、皆さんならどうするでしょうか。なかなか面倒くさいなぁと思うでしょう。そこに初代教会が選び取った状況のヒントがあるのでしょう。

 キリストの十字架において、律法の生贄や儀式はその役割を完了しました。それでもエルサレム教会の信徒たちは神殿儀式や律法の規定も守っていました。それがエルサレムでの生活でしたし、律法本来の福音・約束を受け取る恵みがあったから、また、信仰と両立できたからです。しかし異邦人社会ではエルサレム神殿も律法も割礼も全く馴染みがなく、躓きや高すぎるハードルでしかありません。ですからパウロもエルサレム教会も、25節の最低限の倫理だけで十分としたのです。それは随分違う生活スタイルを認めたことでした。キリスト者の形式はこうだ、と決定版を持たないことを選んで、お互いの状況を尊重し合う、大決断をしたのです。

 それまでのユダヤ人の考えは違いました。世界中どこでもユダヤ教の形式を守っていました。それはそれで分かりやすい利点があります。しかし教会はあえて分かりやすさより、面倒くさい多様性、形式の自由さを選び、またそれを認め合い尊重し合う道を選んだのです。[1]

2.誤解からの暴動

 かつてのパウロはこんなに柔軟ではありませんでした。その姿は27節以下でパウロを手に掛けて殺そうとした人たちの姿そのままでした。この人たちも悪人だったわけではありません。真面目に熱心に純粋に神を大事にしていました。アジアからここに来たのも篤い信仰心からだったのかもしれません。自分たちにとって神聖な律法や宮を大事にしたいと思っていました。だからこそ、パウロが異邦人に対して柔軟であることに腹を立ててもいたのでしょう。それでも彼らはまだ我慢していました。また、29節の言葉を返せば、少し前にパウロがエペソ人トロフィモと一緒にいるのを観ても、それでもそこで騒ぎ立てはしませんでした。ところが、そのパウロが宮の中にいるのを見た時、頭に血が上ってしまいます。宮は異邦人が入れるのは一番外側の「異邦人の庭」だけと厳重に決まっていました。その看板も大書して立てられていました。その神聖な神殿に、あのパウロは異邦人も連れ込んだに違いないと思い込んでしまったのです。そして、パウロへの抑えていた憎しみが燃え上がって、彼を捕らえて、打ちたたいて殺そうとしたのです。32節で

「打つのをやめた」

とありますが、31節には

「パウロを殺そうとしていた」

とありますから、殺すつもりで打ち叩いていたのです。打つのを止めても、パウロはもう殴られ続けて、傷と痣だらけ、血だらけになっていたとしても不思議ではありません。

 異邦人も割礼をすべき、律法は一字一句守るべき。そう思っていたのがパウロを殴った人たちであり、かつてのパウロ自身の生き方でした。そのパウロが、そういう「べき」の押しつけから、異邦人の躓きを配慮する奉仕者となりました。そしてユダヤ人の同胞に対しても、「もう割礼は不要だ。犠牲だって要らない。異邦人と一緒にもっと自由になればいいぢゃないか」と押しつけることもせず、ユダヤ人が大事にしている習慣を尊重しています。両方それぞれの違いを、それぞれに尊重しています。どちらがいい、正しいと言えない違いを、両立できない違いを尊重しています。かつてから神を恐れ、熱心に敬って拘っていましたが、主イエスに出会い、本当の神がどんなお方かを知って、一つの形や自分の経験、文化を押しつけるより、その人その人を見るように変わったのです。ここだけでなくローマ書一三章などで、互いに受け入れ合いなさいと勧める。これがパウロの福音理解でした。いいえ、パウロが身をきよめ、頭を剃る費用を出すに先立って、神の子イエスは、私たちを神と和解させ、互いに受け入れ合わせるために、身を捧げ、御自身の命という代価を出してくださいました。それを誤解され、殴られ、殺されても、イエスは私たちのための神とお互いとの架け橋となってくださったのです。

3.教会の歩み

 お分かりのように、パウロや長老たちと違い、エルサレム教会の何万という信徒はわだかまりに囚われていました[2]。「新約聖書の教会はきっと理想的で麗しい、天国のような教会」ではありません。パウロも交わりを求めて帰って来たら、自分への不信感に直面して、どれほど落胆したでしょうか。でもそんな人間臭い現実をパウロが受け止め、誠意をもって対応し、なお交わりを築こう、和解のために努めた姿、それこそ教会が求める恵みでしょう。初代教会が異なる人たちが認め合おうとする教会だった。そこに生じる衝突を、無理矢理一つの型にはめて統一するのでなく、互いの信仰を認め合い、橋渡ししようとした。それが教会の立たされている道です。どっちが正しいでなく、互いのやり方を理解し合おう、尊重し合おうという態度を持って行くようになる。それこそが、神が私たちの間に働いてなしておられる御業なのです。

 「自分の方が正しい、相手が間違っている、変わるべきは相手だ」というゲームは悲惨です。そして、自分が正しいと思い込んでいると、ここでもパウロが異邦人を連れ込んだに違いないと思い込んでしまったように、事実を冷静に見る事が出来なくなります。邪推や誤解や疑心暗鬼をしてしまう危険がぐんと高まります。それで流言飛語やら暴動や民族大虐殺、ここで起きたような混乱が大なり小なり引き起こされています。そう考えても、「使徒の働き」に見る教会の姿は本当に大きな希望、大胆なチャレンジです。

 教会は一つの型、自分たちの習慣を押しつける「正しさ」ではなく、違いを受け入れ合う道を選びました。異邦人とユダヤ人という大きく違う同志がお互いを大事にし合おうと努力を惜しみませんでした。それは一つの教会でも、また夫婦や家族の中でも、あらゆる人間関係の中で最も基本に必要な姿勢です。私たちは尊重されたい人間です。イエスは最も尊いお方でありながら、御自身を与えて私たちを尊んでくださいました。そして私たちがお互いに尊敬を贈り物として贈り合う関係をくださいました。甘やかすとかほめるとかでなく、自分と同じように尊い存在だと受け止め続けるのです。それは最も素晴らしい贈り物です。

 勿論、尊敬だけでは問題は解決できません。この時も具体的な表現が提案されました。共に生きることは忍耐の要る長い長い道のりです。それでも、立ち帰ることができる変わらない土台はキリストが私たち一人一人を尊んでくださった事実です。キリストが尊ばれ、命を捧げられた相手を、裁いたり見下したりせず、尊ぶ思いに立ち帰ることが出来ます。神は私たちの間に、そのような思いを育てて、平和を築き上げておられるお方です。

「主よ。私たちの宣教の働きと、心にある思いをともに祝福し、整え、恵みの力で新しくしてください。一人一人があなたの愛を戴き、それぞれに聖く生きよう、交わりを育てようとするささやかな願いを、お互いに受け止め、尊重していくことが出来ますように。また既にある誤解や憎しみをも癒やしてくださって、本当の和解への長い道を一歩ずつ進ませてください」



[1] またその違いで誤解が生じた時も、パウロはあえて言葉で説明したり自己弁護をしたりしません。そんな言葉で言われても、ユダヤ人の生活に染みついた律法への尊重を、犠牲を払って見せる提案に従いました。それが誰かを排除する、と言う形であったなら、ガラテヤ書二章にあるように彼は断固としてしなかったのですが、譲って構わない所には彼は柔軟でした。

[2] きっと異邦人キリスト者と一緒に食事をするのも抵抗がある人たちだったでしょう。

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使徒の働き二〇章17-38節「与える幸いの御国」

2018-04-08 14:39:19 | 使徒の働き

2018/4/8 使徒の働き二〇章17-38節「与える幸いの御国」

 現在の日曜休みのカレンダーはキリストの復活を祝うことから始まりました。使徒20章7節は教会が

「週の初めの日」

に集まっていた最初の記録です。この章は、エペソ教会の育成や三回の伝道旅行という大きな流れが落ち着き、「使徒」の新しい段階に進んでいく転換点です。

1.長老たちへの決別説教

 読んで戴いた17節から35節は、パウロがエペソ教会の長老たちに語った説教です。港町ミレトで40km離れたエペソまで、わざわざ使いを出し、そこに来てもらって語ったという大事な説教です。三年間、手塩に掛け、また様々な困難がありながら過ごしてきた格別に思い入れのあるエペソ教会への熱い説教です。その説教の要点だけを今日はお話しします。

 パウロはエペソでの戦いの日々を回想して思い起こさせ、今これからエルサレムへ向かう先にも危険が待ち構えていると覚悟していることを話しています。もう二度とあなたがたの顔を見ることはないだろうとさえ言います。27節では

「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです」

と自分の果たした責任を確認します。牧師はここから、神のご計画の全体像を知らせる務めを教えられます。そして、

28あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」

と言われます。

 今も

「凶暴な狼」(29節)

と言われるような様々な圧力や暴力が外から教会に入ってくるかも知れません。いや、

「あなたがた自身の中からも」

と言われるように、自分自身が

「曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者」

になりかねません。そういう危うさがあることをまずリーダーが自戒して謙るよう言われるのです。自分自身に気を配るとはそういう事です。教会は、神のご計画のすべてを知らされて、神の御国、恵みの福音を伝えられ、それを宣べ伝えていく集まりです。しかし御国の福音が頭だけになり、神の国より自分の国を造り上げ、人を引き込もう、コントロールしよう、となり易いものです。だから、私たちは御言葉に聴いて、神の恵みに立ち帰りながら、その恵みに生きるよう自分に気を配る必要があるのです。その鍵となるのが、33節から35節で結ばれているパウロの生き方そのもののメッセージです。主イエスご自身が

「受けるよりも与えるほうが幸いである」

と言われた御言葉です。

2.「受けるよりも与えるほうが幸い」

 実はイエスが

「受けるよりも与えるほうが幸い」

と仰った記録は福音書にはありません[1]。勿論イエスが仰った言葉は福音書にも世界中の書物にも書ききれないぐらい多くあったのですから[2]、書かれていないけれども本当にイエスがこう仰った可能性もあるでしょう。しかしそれよりは、イエスの教えの要約、いいえ、イエスのなさったこと、イエスというお方丸ごとが

「受けるよりも与えるほうが幸い」

というメッセージだった、とパウロは言っていると考えた方が、筋が通ります。神御自身が「与える」方、惜しみない恵みの方でした。労苦して弱い者を助けるお方でした。28節に

「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」

という言葉があります。

「神がご自分の血」

というのは不思議な言い回しです。神には血も体もありませんから、おかしな表現です。この「ご自分の」はとても強い愛着や近さを表す言葉です。

「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神」

も同じ語です[3]。神が愛するご自分の御子ですから、御子の血は神にとって「ご自分の血」なのです。そのご自分の血、愛する御子の命さえ惜しまないで私たちを買い取って教会としてくださった。その驚くべき恵みが福音です。神の御国です。その王である神は、偉そうに力尽くで治めて、私たちの奉仕や献身や犠牲を求めるお方ではなく、礼拝を受けるよりも恵みを与えることを幸いとし、喜びとなさる王です。神のご計画の全体像とは、その恵みが土台であり、恵みによって私たちを建て上げ、恵みの心で生きる者として成長させてくれます。

 その実例がパウロでした。パウロ自身が、受けるよりも与える人、仕える人でした。エペソでの彼の生活そのものが福音の見本でした。そして今も、エルサレムに行くのはアジアやアカイア諸教会の献金を届けるためでした。危険や困難があっても、エルサレムの貧しい教会に献金を届ける事で、異邦人教会とエルサレム教会とを橋渡ししたいと願ってやまないからでした。パウロは言葉だけで「神の恵みの福音を証しする任務」を果たしたとか、教会の伝道のために労苦を惜しまなかったのではなくて、労苦して弱い者を助けること、主イエスご自身をその全生活で証しするものでした。

 それは

「御国の福音」

とは別の話でしょうか。恵みの神の

「ご計画」

とは、必ず私たちに御国を継がせるから幸いな計画なのでしょうか。神の御国が

「受けるよりも与えるほうが幸い」

で満ちた御国なのです。神の国の「憲法」は

「神があなたがたを愛されたようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」。

 言い換えれば

「受けるよりも与えるほうが幸い」

なのです。御国に入るとは、今ここでの私たちの生活、考えが、神がご自分の血をもって買い取ってくださった恵みに根差して、感謝し、与え、分かち合い、その幸いに生かされるようになる事です。

3.「受け身」から「与える」へ

 しかしこの言葉もとても誤解され、手垢がたっぷり付いている文句です。「もらい下手」な方はこの言葉でますます受けることが苦手になるでしょう。自分の優位を保ちたい、借りを作りたくなくて与える人もあります。形の上で与えるのが実は自分をガードする壁なのです。中には「ボロボロになっても与えるのが愛だ、キリスト者の使命だ」という痛々しい誤解もあります。人から求められたら何でも拒まない、本当は嫌なのに与えなきゃ悪い気がして、相手の期待に応えないと苦しくて反射的に与えてしまう…。でもそれは「与える」の逆の「受け身」ですね。

 イエスは「受け身になれ」でなく、主体的で心から与える幸いを示されました。内心で相手を裁きながら何かを与えるより、喜んで出来るまで待っても良いし、時には相手への愛や尊敬を込めて、正直に「ノー」を伝えるのがイエスの示された「与える」かもしれません。

 それにはまず

「自分自身と群れの全体に気を配りなさい」。

 自分の状態を十分にケアすることが必要です。自分を後回しにせず、主が私にすべての善い物を与えて、御自身の血を流すほどの愛で私たちを愛してくださった恵みを、十分に味わい、戴く事です。主は「受けるよりも与えなさい。惜しまずに与えよ」と命令されたのでなく

「受けるよりも与えるほうが幸いです」

と「幸い」を語るのです。いいえ、私たちに御自身の命を惜しまず与えて、私たちを愛し罪を赦し、命を下さる御自身に立ち戻らせてくださいました。私たちを、幸せを求めて物にしがみついたり人と比べたりする生き方から、本当に幸いな生き方、神の恵みの御国へと移してくださいました。だから私たちは、もう失うことを恐れないし、逆に批判されたくなくて与えよう、出しゃばるまいと受け身になるのではなく、自分で考えて出来る事を喜んで与えるのです。幸せを見失ったり、実際に貧しかったり助けが必要だったりする世界だからこそ、その中で自分に出来る事を僅かでもするのです。道徳としてでなく、心から与えるのです。すると、もらうことも、遠慮したり躊躇する必要はなくて、喜んで受け取る「もらい上手」になれるでしょう。

 恵みの神は、ご自分が惜しみなく与える方だからこそ、与え合い、受け取り合う世界を作られたし、その幸いの中に私たちを置かれ、成長させてくださいます。言い換えれば、私たち自身が贈り物なのです。自分の人生や働きや労苦、存在そのものをこの世界への贈り物として受け取らせていただくのです。まず神が私たちに下さった恵み、神のものとされた幸いを十分に受けて、御言葉から感謝の心を養われましょう。与える幸いにも受ける幸いにも成長させていただきましょう。そんな姿こそ、世界に希望の泉を湧き上がらせる御国の証しになるのです。

「恵み溢れる神。あなたが御自身の血をもって私たちを買い取り、幸いな御国の民として下さいました。まだ無い物を数え、受ける事にも苦手な私たちも、あなたの測り知れない恵みに支えられてあることを感謝し、御名を賛美します。どうぞ私たちを受け身の生き方から救い出し、幸いを喜び、ともに祝い、主の恵みを言葉と生き方と働きで証しする教会とならせてください」



[1] 似た言葉として、マタイ十8「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい」が挙げられます。しかし、これは「受けるよりも与える方が幸いである」とは、通底してはいても、飛躍のある言葉です。

[2] ヨハネの福音書二一25「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」

[3] ローマ八32「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」

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ルカの福音書24章13~35節「本当に主はよみがえった」イースター礼拝

2018-04-01 15:58:17 | ルカ

2018/4/1 ルカの福音書24章13~35節「本当に主はよみがえった」イースター礼拝

 主イエス・キリストがよみがえられた。そのお祝いがイースター(復活節)です。これはキリスト教会の信仰の中心であり、キリスト教の福音の核心です。毎週日曜日がイエスの復活のお祝いなのですが、イースターは特にその事を味わい、覚え、召天者記念と重ねる礼拝です。

1.近づかれるイエス

 聖書に書かれてある伝道の様子を見ていきますと、使徒パウロやペテロが

「イエスと復活を宣べ伝えた」

という言葉が何度も出て来ます[1]。またコリント人への手紙第一にはハッキリと

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(1コリント十五3-5)

と書かれています。キリスト教は、ただ神の愛とか「十字架を信じれば救われる」以上に、キリストが私たちのために十字架に死に、よみがえられた復活が土台です。キリストの復活なしのキリスト教なんて、何の意味も無いのです。キリストが私たちのために十字架の苦しみまで味わって死なれて、その三日目に本当によみがえられた、これがキリスト教の福音です。

 今日のルカの二四章でも、復活の午後にあったエピソードを語りながら、その復活のエッセンスが綴られています。しかしそれが、高尚な事実とかキリスト教の奥義というものではなく、もっと温かい、生き生きとした出会いだったと、ユーモアさえ込めた語り口で伝えてくれます。キリストがよみがえられたことは、信じがたい奇蹟ですし、恐れ多い神の勝利でもあり、語り尽くせない意味があります。けれども小難しく近寄りがたいことではなく、実に、キリストが私たちに近づいて、私たちとともにおられる、という、身近で頼もしい告白です。私たちの暗く塞いだ思いを、心燃やされて、喜んで駆け出させずにはおれないようにしてくれることです。

 復活は決してセンセーショナルに、派手に知らされたのではありません。むしろ、この二四章は墓が空っぽで、弟子たちが戸惑うところから始まっています。そして、その中から一抜けたとばかりに離れていく二人の所に、イエスがそっと近づいて、一緒に歩いてくださって、話しかけ、丁寧に御言葉を教えて、気づかせてくださるのです。信仰の篤い、疑いや迷いのない者ではなく、この二人にイエスは近づいて、引き戻してくださった。この話そのものが、私たちにとって自分を重ねることが出来る、恵みに満ちたものなのです。

2.聖書全体に苦しみと栄光が

 この二人は最初イエスが分かりませんでした。

「二人の目はさえぎられていて」(16節)

というのはイエスだと分からない、というだけでなく、弟子たちの考えが神の深いお考えとは全然違う方を向いている状態のことです。神から離れた人間の考えは、神がその目からさえぎるものを取り除けてくださらない限り分かりません。ですから19節から24節で弟子たちはイエスがなさったことをかなり正確に伝えているのですが、復活の知らせ以前に、十字架の死も不可解だと言っています。それに対してイエスは25節から

「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。26キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」

と仰います。イエスの言い方は強く感じますが、イエスによれば、預言者、つまり聖書全体が、キリストは必ず苦しみを受けて、それからその栄光に入るというメッセージを語っているのです。神は苦しみや十字架とは無縁の方ではなく、人間のために苦しみ、御自身に痛みを引き受ける事を通して、私たちを救ってくださるお方です。苦しみをすっ飛ばして、栄光を輝かせる、という苦労知らずの栄光ではなく、これ以上無い苦しみや屈辱、裏切りや孤独さえ味わい知ってくださって、そこから命を初めてくださることこそが、神の栄光なのです。イエスは、こんな事を道々教えるよりも、さっさとご自分がイエスだと正体を明かされた方が、手っ取り早い説得になったと思うのですが、最後まで正体を明かさず、丁寧にさえぎられた目を開いてくださるのです。

 しかし、目的の村まで来てもイエスの話は終わりません。まだ先まで行きそうです。イエスは彼らの鈍感さに、どこまでも付き合われるつもりだったのでしょうか。しかし彼らが

「一緒にお泊まりください」

と強く勧めてイエスは宿に入られます。ここには二人の弟子が、暗い顔つきで仲間から去ろうとしていた二人が、何か強い願いを持つようになった。イエスに「あんたは知らないのか」と言った二人が、イエスの話をもっと聴きたいと、強く願って引き止めるように変わったことが窺えます。私たちが神を信じる、というのも、神がなさることに委ねて、ただ従順に、無責任になるのではなくて、強い願いを持つ、時に食い下がってでも行動を起こすようになることです。そういう変化が、この二人の中にも起きています。

 そして、イエスはそこで食卓に着くと、パンを取って神をほめたたえ[2]、裂いて彼らに渡されました。すると、二人の目が開かれて、イエスだと分かったのです。ここでは明らかに、今日も私たちがこの後します「主の聖晩餐」「聖餐式」に通じる言葉が使われています。イエスがパンを取って、祝福し、裂いて、彼らに渡された。それは、イエス御自身が十字架でその体が裂かれる死を経験なさったこと、そして私たちがその死に与って、命を戴くことの証しです。

3.心燃やされる

 弟子や私たちはそれがよく分からないとしても、これをなさるイエスは十分に理解しておられたはずです。イエスがパンを取って裂かれる時、御自身の十字架の苦しみ、痛み、恐ろしい体験を思い出されたでしょう。それは

「祝福」

「神をほめる」

気分とは真逆のようです。しかしイエスはパンを取って裂かれて、弟子たちに与えながら、そこにこそ神の御業を託されたのです。神は苦しみを避けるより、御自身を与えることで私たちに命を下さる。神の栄光は、神が御自身を惜しみなく私たちに与えて、私たちのためにご自分を分けて与えてくださることも厭わない方であることにあります。私たちのために、御自身が痛みを負うてくださって、それによって私たちを救われる。私たちのために御自身を差し出して、私たちが命を得る。ここでイエスは、どんな思いでパンを裂き、弟子たちに与えられたのか。それは決して苛立ちでも押し売りでもなくて、祝福、神への賛美だった、ということに深く思いを巡らされます。

 そして、このパンを受け取った時、弟子たちの目が開かれました。イエスだと分かりました。するとイエスの姿は見えなくなってしまいます。なんとまぁ、です。しかし二人は言います。

32…「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

 イエスに出会う前、暗い顔だった二人はイエスが聖書を説き明かしてくださっている間に、心燃やされるようになっていました。もう日も暮れていたでしょうに、直ちに立ち上がって、夜道をエルサレムに引き返したら、そこにいた弟子たちもイエスの復活を知って喜んでいる姿がありました。イエスが二人に近づいてくださったことで、彼らはこの仲間に引き戻されて、自分たちの体験も分かち合うことが出来たのです。ルカの福音書が最後に示すのは、弟子たちが神をほめ称える姿です。その神は、どこか遠くで全世界を支配することに忙しい神ではありません。私たちのためにこの世界に来られて、命を与えてよみがえったイエスです。イエスの十字架と復活は、神が私たちの中に来られて、私たちに近づいて、命へと導いてくださる、という証しなのです。今からその主を覚える聖餐式をします。主が御自身を裂かれて、そうして私たちに命を下さった事を、どなたもご一緒に覚えて、その愛に心燃やされたいと願います。

「私たちを愛したもう命の主よ。あなたは十字架と復活によって栄光を現されました。惜しまない御愛が、私たちの心を生き返らせることを明らかになさいました。今からの聖餐によって、そしていつもともにおられて、この恵みを教え続けてください。そして苦しみや悲しみに砕かれるこの歩みでも、私たちが心から自分を差しだし、命を活かす御業に携わらせてください」



[1] 使徒四2、十七18、他。

[2] 新改訳2017は「神をほめたたえ」ですが、他の翻訳ではほとんどが「パンを取って祝福し」です。原語の「ユーロゲオー」は「ほめたたえる」「祝福する」のどちらにも訳せます。Blessと同じです。対象が神だと「ほめたたえる」、人間やものだと「祝福する」と訳せます。(もちろん、人間を「ほめたたえる」という意味にもなり得ます)。「新改訳2017」はここを「神をほめたたえ」と理解しています。このような解釈は他の翻訳聖書には見られませんので、その理由を現在問い合わせています。

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