聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/1/10 マタイ伝15章1~11節「手も心も洗おう」

2021-01-09 12:00:15 | マタイの福音書講解
2021/1/10 マタイ伝15章1~11節「手も心も洗おう」

 今日の箇所は、パリサイ人、律法学者たちがエルサレムから来たことから書き出されます。首都エルサレム、神殿のある総本山からもイエスの働きに対するクレームがつく。風向きが徐々に厳しくなる状況を感じさせながら、「手を洗う」ことがテーマにされます。
 今、手洗い、うがいが大事なことは言うまでもありません。ここに「イエスの弟子は手を洗わない」とあるからと言って、私たちも手を洗ったり感染を心配したりしなくていい、という事はありません。ここで言われているのは
「長老たちの言い伝え」
 当時のユダヤ教の伝統に沿った、宗教的な儀式としての手洗いです。「自分たちは世間の汚れに染まらない特別な民だ」、そう表すために食事の前には手を洗い、食事の途中でも手を洗い、手の洗い方も必要以上に丁寧に定めていました[1]。ユダヤ人が「異邦人(ユダヤ人以外の民族)」とは一緒に食事もしなかったことも初代教会で度々問題になりました[2]。手を洗って「みそぎ」をすることは、それにも通じる行為でした。しかしイエスはそんな形式的な儀式を弟子たちにさせなかったのです[3]。その事を、エルサレムの宗教家たちは問題視したのです。これに対してイエスは、逆に問い返されます。
3そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。
4神は『父と母を敬え』。また、『父や母をののしる者は、かならず殺されなければならない』と言われました。
5それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、
6その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。

「父と母を敬え」
は神の戒め「十戒」で第五番目の、大事な神の言葉です。それを強く教えています。けれども、当時のユダヤ教の理解では、
「神へのささげ物」
の方が大事だ。神に捧げると一旦言葉にしたら、それはもう変えられない。うっかりでも意地悪ででも「神へのささげ物[4]」と言ったら、親も口を挟めない。そう規定していました。すると、神ご自身が仰有った、父と母を敬え、父や母を罵ることへの警告が、当時の「言い伝え」によって、神の名を借りて反故にされたわけです[5]。神を口先で敬いつつ、神の戒めを破って、人を罵っている。それならば、どんなに手を洗ったり外面を取り繕ったり、熱心に神へのささげ物をしたところで、その礼拝は、口先で神を敬うだけのむなしい、空っぽな信仰です。[6]
 10~11節でイエスは群衆を呼び寄せて、丁寧に警告されます。
「聞いて悟りなさい。11口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」
と。更に12~20節でも弟子たちにも、この事が確認されて、結びを似た言い方で繰り返されます。
17口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。18しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
 「汚(けが)す」とは「汚(きたな)い」というより「俗っぽい」「普通(コモン)の」「共通している」という意味です。心がどっぷり汚れて汚らわしい、のではなく、人と変わらない、同じだという状態です[7]。当時のユダヤ教のしきたり(手を洗う、異邦人とは食事をしない、等)は「自分たちは普通とは違う。特別な神の民だ。俗世間には染まらない。他の人とは違うのだ」という象徴的な表現でした。しかし、神の戒めが指摘する「父と母を敬え」や、私たちの心から出て来る罵りや悪い考えの内面は、人間の外側をどうやっても「みそぎ」など出来ない、私たちの今の現実です。いくら手を洗ったり、外側を潔癖にしても、心の汚れ(普通さ)はごまかせません。
19悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。
20これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。
 手を洗っているから自分は他の汚れた人とは違う、と思い、そうして人を蔑んだり罵ったりしているなら、それこそが自分を汚す(他の人と変わらないと証明する)のです。このすり替えは、イエスの弟子や群衆だけでなく、昔の預言者から、そして、教会の歴史の中でも繰り返されてきた、人の陥りやすい勘違いです[8]。あれをしたら汚れる、あの人は汚れていて、触りたくもない、そんな○○だとすり替えやすい。人を外見や経歴や仕事、いろんな要素で値踏みします。自分たちは洗礼を受けているから、信徒としての義務を果たしているから、「あの人と自分は違う」と思いたいのが神の民です。そして自分には受け入れがたい人を見下して安心したがる。しかし、そういう冷たい心こそが、自分も他の人と変わらない証明です。

 イエスが明らかにされたように、神が求めているのは、儀式でもないし、自分の心を自浄努力できよめることでもないのです[9]。イエスは私たちの心が人と変わらないことをご存じです。人には立派に見えても、心の底は誰も大差ないことをご存じです。
 「敬いなさい、罵ることは死に値する」というなら、イエスは弟子たちとも私たちとも、一緒に食事をするどころか、手を翻して退けたでしょう。しかし、イエスは私たちの心を、罵るなと言われても変わりがたい深く病んでいる心を、誰よりも知った上で、手を翻さず、「手を洗ってこい」と命じることもなく、パンを食べていた。つまり、イエスは弟子たちと一緒に、パンを食べ、過ごしていました。イエスがその手を伸ばして、一緒にパンを食べてくださる。その交わりに心が洗われるのです[10]。

 正直に心を見れば、五十歩百歩、団栗の背比べである私たちと、それでもイエスはともにいてくださいます。教会は「自分たちは他の人とは違う」と自負する場ではなく、「お互いに変わらない私たちの所にイエスが来て下さった。私たちを汚らわしいと退けず、赦しと回復を与えてくださった」と告白する群れです。その証拠としての洗礼と聖餐を私たちのしるしとして戴いているのです。心にある罪や汚れも分かち合い、ともに食事をする交わりです[11]。そうした恵みの中で、私たちの心は洗われるのです。
 うわべへの囚われや人への悪い考えや罵りが洗い流され、人も敬い、本当に神を敬う心を、イエスは私たちに下さるのです[12]。

「天の父よ。問題を自分の外に置き、人のせいだと思いたがる欺きから、救い出してください。愛し敬うことを願うあなたの御心をいつの間にかすり替えて、隣人や家族や他者を非難し、恥ずべき思いを抱く潔癖症を、どうぞあなたの憐れみによって新しくしてください。この礼拝は決して空しい繰り返しではなく、あなたが招き入れて下さった場です。私たちを蔑むことなく愛し、赦して命を与えるあなたが、互いへの尊敬と心からの礼拝を回復させてください」

脚注:

[1] 手を洗うのは、衛生的なことではなく、「長老たちの言い伝え」、宗教的な慣習。信仰を持たない俗人たちとの一線を画する行為。異邦人と一緒に食事をしないことと同様。「手の洗い方についても、きちんとした規定がありました。まず、指先の方から洗います。その指先を洗った水が元に戻ってくるといけないので、だんだん、指先を上に上げていく。そうすると水が手首の方に落ちてきます。その水で手首の方を洗います。それから、もう一度、今度は手首の方から、逆に水を指先の方に流して汚れを落とす。つまり水を往復させるわけです。そういうやかましい規定があったのです。」加藤常昭『マタイによる福音書3』326頁。

[2] 使徒の働き11章、15章、またガラテヤ書2章など、参照。

[3] ルカ11:38では、イエスご自身が、きよめの儀式をしなかったことが書かれています。

[4] ヘブル語で「コルバン」と言いました。マルコ7章11節「それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら――』と言って、12その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。」 この「コルバン」と口走ったために、息子の結婚式に同席できなかった父親がいた、などの記録があるそうです。

[5] それこそは、イザヤ書でも明言されていた神への口先だけの礼拝、神から遠く離れた礼拝だと、7~9節で深く指弾するのです。

[6] 「敬う」が4節(父と母)8節(神)で重なっています。「神を敬う」と言いつつ、両親をも敬わないなら、神への礼拝も的外れです。「他者に対する責任を負おうとしない者にとって、神という言葉は意味をなさない」(

[7] 「汚れる(コイノオー)」と語根が同じなのが、「交わり(コイノニア)」です。「朱に交われば赤くなる」のごとく、混ざっている状態です。

[8] 外面的な行動や、経歴や、成功・安定などは、自分の特別さを保証しません。信仰的な行動も、洗礼、礼拝出席、奉仕、献金も含めて、私たちの「聖さ」を保証しません。お酒やタバコ、映画やダンスを「キリスト者としてあるまじきこと」として禁じ、それが悪魔の決定的な誘惑だと考える時代もありました。もちろん、私たちは自分の心身の健康のために、行動を選び、嗜癖となるものを避けるに越したことはありません。また、洗礼や聖餐、礼拝出席も「しなくていい」ことではありません。しかし、それらをしていればキリスト者であり、自分たちはきよく、汚れた世とは違う、ということではありません。私たちが他の人とは何も変わらないし、それを忘れて他者を裁きかねないからこそ、キリストに縋り、洗礼・礼拝・教会生活によって、守られていくのだ。

[9] 事実、ここでは「きよくなりなさい」というような勧めは、ひとこともありません。

[10] そしてやがて、その手でパンを裂いて弟子たちに渡され、その手に私たちのための釘を打たれ、血を流してくださったのです。今私たちは、その主の裂かれた手と流された血を、この手に戴くのです。自分で手を清めたり、普通の関わりをしたりしない以上に、イエスとの交わりを通して、また、主にあってともにパンを手に取り、ともに食事をし、交わりをすること。それが、イエスが示してくださった道でした。

[11] 勿論、その準備では衛生的な必要から手を洗いますし、今は感染予防をお互いのために配慮するからこそ、会食は慎んでいます。だからこそ、また一緒に聖餐を分かち合い、会食できる日を心待ちにしています。

[12] 哀歌3:40「自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。41自分たちの心を、両手とともに、天におられる神に向けて上げよう。

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2021/1/3 ローマ書8章34節「私たちの弁護人」ニュー・シティ・カテキズム51

2021-01-02 12:21:19 | ニュー・シティ・カテキズム
2021/1/3 ローマ書8章34節「私たちの弁護人」ニュー・シティ・カテキズム51

 ニュー・シティ・カテキズムでのお話しもあと二回。最後から二番目はこれです。
問51 キリストの昇天は私たちにとってどのような利点がありますか?
答 キリストは、私たちのために肉をとって地に降りて来たのと同じように、肉を持って私たちのために昇天されました。そして今、父の御前で私たちのために弁護し、私たちのために場所を用意し、私たちに聖霊を送ってくださいます。
 キリストは十字架の死の三日目に復活し、そして「昇天」、天に昇られました。
因みに教会では人が亡くなった時、天に召された「召天」という表現を使います。イエスの昇天と紛らわしいですが、イエスは復活後の昇天です。

 弟子たちの見ている前で、天に上って行かれた、と使徒の働きに記されています。ここでわざわざ「肉を持って」と書かれていて、「肉をとって地に降りてきたのと同じように」と書いています。キリスト者の中にも、キリストの復活も昇天も、本当にあったはずはない、弟子たちの信仰において、キリストは復活し、天に昇ったと理解したのだ、と考える人たちもいます。もしそうだとしたら、キリストの誕生も、本当に神の子が、肉をとって人になったかどうか、ただの人間ではなかったのか、と怪しくなります。私たちは、神の子キリストが本当に人間となってくださったと信じます。同じように、その死の後も本当によみがえって、弟子たちの前に現れ、その体で、天に昇られたのです。
 ここではイエスの昇天の利点を、イエスが「今、父の御前で私たちのために弁護」しておられ、「私たちのために場所を用意」しておられ、「私たちに聖霊を送って」くださる、と三つあげています。

 第一は「今、父の御前で私たちのために弁護」しておられること、言わば、イエスが私たちの弁護人になってくださる、ということです。
ローマ書8章34節だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
 ここにあるように、私たちは「罪あり」と言われかねないような罪、過ち、悪を行ってしまいます。少しずつ完成されつつも、不完全です。大きな過ちも冒しかねませんし、そうでなくとも罪悪感や後悔に責めさいなむ事は多くあります。しかし、自分や誰かが「罪あり(有罪!)」と言うとしても、キリスト・イエスが、神の右の座に着いておられます。私たちの罪のために死なれた主イエスが神と私たちの間におられます。
 その上、主は私たちのためにとりなしておられます。取りなすとは「よいようにはからう。もめ事などの中に立っておさまりがつくようにする。なだめて機嫌よくさせる。」という意味だと辞書には書かれています。主イエスは、私たちと神との間に立って、良いように計らってくださいます。罪が引き起こす様々な問題の間に立って、収まりがつくようにしてくださいます。「宥めて機嫌良くさせる」は主イエスの場合、違います。何しろ、神ご自身が御子を右の座に置くことを選んだのであって、神が怒っているのを主イエスが「まぁまぁ」と宥めるのではないのです。また、人間の弁護人なら、口がうまく、裁判官を丸め込んで問題をもみ消す、というような悪い弁護士も思い浮かびます。
 でも、イエスはそのようなことはなさいません。そのローマ書の少し前27節には、
…御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださる…
とあります。神の御心に従ってのとりなしです。ですから、私たちは有罪だと罰せられたり、切り捨てられたりすることはありませんが、自分の罪を認め、その責任を負い、回復のために成長するようにしてくださいます。実際の裁判でも、加害者を罰するか、無罪とするか、だけではなく、罪を犯したのは事実だからこそ、罰するより、更正させていくというやり方が今広まってきています。主イエスの取りなしもそうです。罰する、罰しない以上に、私たちを神の子どもとして成長させてくださるのです。


 第二は「場所を備えに行く」です。イエスは十字架に掛けられる前の夜、言いました。
ヨハネ伝14章2節わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。3わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
 イエスが天に昇られたのは、私たちのために場所を用意してくださるためでした。私たちは、主イエスが私たちのために場所を備えてくださっていることに安心して良いのです。それがどんな場所か、私たちには分かりません。でも、今「居場所」という言葉が時代のキーワードになっています。自分が自分のままで受け入れられる場所、心からくつろげてホッと出来る場所。また、自分が貢献できる場所。学校や職場、自宅でも、自分の居場所が見つからなくて苦しい人が多いのです。そういう私たちに、主は場所を備えてくださると約束されています。「自分には居場所なんてない」と思ってしまう人も主イエスが場所を用意してくださっている。私には居場所がある、帰る家がある。そう思えるとはなんと幸せなことでしょう。

 第三は「聖霊を送ってくださる」です。
ヨハネの福音書16章7節…わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
 天に昇ったイエスはそこから助け主なる聖霊を遣わしてくださいます。聖霊が私たちに働いてくださって、主イエスへの信仰を与えてくださいます。みことばの約束を私たちに果たして、私たちを励ましたり、慰めたりしてくださいます。私たちが祈る時、言葉にならない思いも、イエスがともに呻き、とりなしてくださいます。私たちを通して神の栄光を現してくださいます。そして私たちが最後には、用意された場所、私たちの居場所、家に必ず帰り着くことが出来るようにしてくださいます。

 主イエスの昇天は、私たちと天とがシッカリと結ばれていることを教えてくれるのです。だから今、希望と大胆さをもって、ここで生きることが出来る。ここから踏み出して行けるのです。

「私たちのためにとりなしてくださる救い主、主よ。あなたは絶えず私たちをあわれんでくださいます。あなたは人と同じ誘惑を受けたので、今私たちの受ける誘惑を知ってくださり、私たちのためにとりなしてくださいます。地上にあるものすべてを裁かれる父なる神の御前で、どうか主が私たちを弁護し導いてくださいますように。アーメン」
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2021/1/3 マタイ伝14章22~33節「向かい風の中で」 新年礼拝説教

2021-01-02 10:31:04 | マタイの福音書講解
2021/1/3 マタイ伝14章22~33節「向かい風の中で」

 マタイの福音書を続けて読みます。新年を迎えたタイミングで今日の箇所を味わいます。
22それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
 ここでイエスは弟子たちを舟に乗り込ませて向こう岸に向かわせ、群衆をイエスご自身が解散させます。直前に「五つのパンと二匹の魚」で五千人以上の人を養う奇蹟がありました。その大きな奇蹟に弟子たちも群衆も高揚しそうな余韻を、あえて打ち切るように散会させました[1]。そして、一人で祈るために山に登ったのでした。
 何のための祈ったか、というよりもイエスにとって、父との会話そのものが、楽しみであり、大事なことです。祈りとはそういうものです。
24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
 弟子たちの中には四人の漁師がいましたが、この時は向かい風に悩まされて、なかなか進みません。何時間もかかって、夜明けが近づいても、まだこぎあぐねていた。そこに、イエスが湖の上を歩いて弟子たちの所に来られた、というビックリする出来事が起きます。
26イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
 弟子たちはそれを見て「あれは幽霊だ」と言って怯えます。欄外に「取り乱した」とも訳せるとあります。「恐ろしさのあまり叫んだ」と、弟子たちの大変な取り乱しぶりをシッカリと伝えています。夜の湖に、弟子たちの叫び声が響く。これもまた怖い場面です。この出来事の意味とか、イエスの意図を推し量ることはあれこれできます[2]。しかし、いずれにせよ、その意図は弟子たちには伝わってはおらず、彼らは怯えきって、大声で叫んだのです。
27イエスはすぐに[3]彼らに話しかけ「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」
と言われます。幽霊ではなく、わたしだ、イエスだ、と。
 でも、思います。恐れるなと言ったって、無理です[4]。こんなことを仰有るぐらいなら、弟子たちと最初から一緒に舟に乗るとか、風で悩まされないように湖を凪にするとか、湖の上を歩いたりしないとか、そんな現れ方をなさったら良いのに。
 でも、イエスはこの時、弟子たちを向かい風の湖へ漕ぎ出させ、予想もしないタイミングと方法で現れて、弟子たちの度肝を抜かれました。いいえ、イエスはいつも私たちの予想を裏切ります。「イエスに従えば恐れないで済む人生がもれなく保証される」かと思ったら、折角の盛り上がりに水を差され、真っ暗な中を(嵐とまでは行かなくても)向かい風に悩まされます。イエスが近づき方も私たちには意外すぎて、怯えないわけがない。そんな様々な出来事の中で、
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない[5]」
という声を聞かせてくださる。それがイエスというお方であり、イエスに従う私たちの歩み、水の上の旅路です。
 さて、続いて弟子のペテロまでもが、とんでもないことを言い出します。[6]
28するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。29イエスは「来なさい」と言われた。
 ペテロが水の上を歩かせてくださいと言ったのはどうしてでしょうか。興味本位なのか、自己顕示欲なのか。純粋にイエスに近づきたかったからか、前から波の上を歩いてみたかったからか。他でもよく考えもせずに「何を言えばよいか分からなかった」[7]と口走り、突っ走ってしまうペテロです。ともかくこれはイエスからの招待でもないし、何の必然性もないことでした。その彼の子ども染みた発言を、イエスは受け入れてくださったのです。
29…そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。30ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
 歩けたのです。歩けたのに、強風を見て怖くなり、沈み掛けて叫ぶ[8]。二度目の絶叫ですね。
31イエスはすぐに手を伸ばし,彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
 イエスはこの言葉を、ペテロをつかみながら言われました。沈み掛けて溺れると思ったけれどイエスが彼をつかんでいました。主イエスはご存じです。弟子たちの信仰がどれほど未熟で、イエスを見ても「幽霊だ」と叫び、風を見て「助けてください」とまた叫び、ここで助かって「まことに、あなたは神の子です」[9]と礼拝しても、それからも疑い、突っ走り、恐れるかもご存じです。私たちの信仰より遙かにイエスは大きな方です。私たちの恐怖や疑いよりも、主イエスは強く、私たちをつかんでくださっている方です。
 バーバラ・ブラウン・テイラーという説教者はここからも見事な言葉を紡ぎます。もしもペテロが沈まなかったら、他の弟子たちも海の上を歩いていたなら、素晴らしい話だったかも知れないが、私たちの話とはならなかったでしょう、と[10]。そうです、私たちも弟子たちのように、こぎあぐね、イエスを見ても恐れます。
「歩かせてください」
と無意味な、しかしワクワクするような願いをイエスにぶつけることも許されていて、そこで怯えて疑っても、主イエスがしっかりつかんでくださっている[11]。そういう歩みを繰り返しながらいます。
 私たちが安心できるのは、ここにイエスがいるからです。人の理解を超えた導き方をなさる神の子が、私たちの最大級の信仰にも収まらない恵みによって、私たちを捕まえ、この一年の旅路も、私たちの一生も導いてくださるからです[12]。
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」

「主よ。新しい年、この世界という海の船旅に漕ぎ出しました。向かい風に進まず、無力で孤独に思えもし、近づくあなたを見間違う時もある私たちです。また大それた願いを持ち、あなたの力に与りたいとの願いも受け入れて戴いている私たちです。いつか、私たちは皆、水の上を歩き、空を飛び、神の子としての自由、罪赦され、回復された喜びに踊り歌う時が来ます。その時まで、私たちの旅路を導き、あなたの恵みを表す歩みをこの一年もお導きください」



脚注:

[1] ヨハネの福音書6章では、もっとハッキリと群衆たちの思惑と、それに対するイエスの(つれないとも言えるほどの)鋭い応対が伝えられています。

[2] 五千人の給食で盛り上がった高揚感を窘める意図もあったかもしれません。逆に、五千人の給食に続いて、弟子たちだけに、イエスが自然界を治める主権者としての力を見せようとなさったのかもしれません。

[3] このエピソードには「すぐ」が三度も繰り返されています。22(ユーセオース)、27(ユースース)、31(ユーセオース)。

[4] 「恐れることはない」は30「怖くなり…叫んだ」と共鳴しています。また、マタイの福音書で繰り返される言葉。17:6、7、27:54、28:5。

[5] 「しっかりしなさい」9:2(すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。)、9:22(イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。)聖書協会共同訳では「イエスはすぐに彼らに声をかけ、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。」と訳されています。

[6] マルコ、ヨハネは、この嵐とイエスの水上歩行の出来事は記しているが、ペテロの水上歩行については沈黙している。大きな出来事ではあるが、記すと焦点が曖昧になると思ったか、記すほどではないと思ったか。

[7] マルコの福音書9章5-6節「ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」6ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。」

[8] ここで、「怖くなったので沈みかけた」、とは言われていないことに注意。つまり、イエスを信じていた間は歩けたが、強風(や他のもの)に目を向けてしまったために、イエスを信じるよりも疑って、怖くなった。そのために沈んだ、という教訓は、直接に引き出せるものではないのです。それ以外の読み方も出来ます。

[9] 「神の子です」 4:3(すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」)、6(こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」)、8:29(すると見よ、彼らが叫んだ。「神の子よ、私たちと何の関係があるのですか。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来たのですか。」)、14:33(舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。)、16:16(シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」)、26:63 (しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」)、27:40(「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」)、43(彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」)、54(百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」)

[10] 「もしも、ペトロが沈まなかったならどうなるでしょう。もしも、ペトロが完全に信頼して、舟から飛び降り、両足の裏を水面にパシャッとつけると、波の向こうの主イエスに微笑みかけ、主のもとへまったく躊躇することもなく滑るように行ったとしたなら、どうだったのでしょう。もしも、他の弟子たちもペトロに続いて舟からどやどや降りてきて、嵐が猛威を振るい風邪が帆を叩きのめし、頭上では闇夜に稲妻が炸裂する中を、全員が完全な信仰のうちに水の上で大はしゃぎしたとするなら、どうだったのでしょう。それでは、別の物語になってしまっていたことでしょう。もっとすばらしい話だったかもしれませんが。それはわたしたちの物語ではなかったでしょう。わたしたちの真実の姿はもっと複雑なのです。わたしたちの真実の姿は、従い、そして恐れ、歩き、そして沈み、信じ、そして疑うのです。しかも、そのどちらか一方というのではなく、両方してしまうのです。」バーバラ・ブラウン・テイラー「疑いによって救われる」『天の国の種』(平野克己、古本みさ訳、キリスト新聞社、2014年)109頁。

[11] 映画にもなった『神の小屋』には、湖の上を歩く場面が印象深く登場します。また、トルストイの「三人の隠者」という小篇をご紹介します。『トルストイの民話』福音館書店: 人々に大変尊敬されている一人の高僧が、船旅の途中、魂を救う修行をしているという三人の隠者の住む小さな島に降ろしてもらう。そこには、ボロを纏った老人が三人手をつなぎあって立っていた。「私が聞いた話によると、あなたがたはここで魂を救う修行をし、』人々のために神にお祈りをしているとのことだ。そこで私は、できれば、あなたがたにも教えをたれたいと思ったのだ」隠者たちは、だまったまま、にこにこ笑って、お互いに顔を見合わせている。・・・「ところでどんなふうに神に祈っているのかね?」すると年をとった隠者が言った。「わしらはこうお祈りをしております。そちらも三人、わしらも三人、だからわしらをお恵み下さい。」高僧は苦笑して、言った。「それは、あなたたちが“聖三位一体”について聞いたからだろうが、そんなお祈りの仕方は正しくない。私が、神様のお書きになったものによって、お祈りの仕方を教えてあげよう。」 そして、一日中晩まで、高僧は隠者たちを相手に苦労した。一つの言葉を何べんも、何べんも繰り返し隠者たちもその後について同じことを言った。隠者たちが間違ったり、高僧がそれを直したり、初めから繰り返させたりした。月が海からのぼり始めたころ、隠者たちはようやく全部覚え込むことができた。船に戻った高僧は、船尾に腰を下ろし、遥かに遠ざかった島のあたりを、いつまでも眺めていた。・・・・・・ふと気がつくと、柱のような月の光の中に、何かがきらめいて、白く見えている。そしてその白い光が船に向かってどんどん近づいて来る。 ・・・・・・それは、手をつなぎあって、海の上を走って来る三人の隠者たちだった! 隠者たちは、船べりに近づくと、声を揃えて言い出した。「忘れてしまいました。一時間ほど繰り返すのをやめたら、全部めちゃめちゃになってしまったんです。何ひとつ覚えていません。もう一度教えてください。」高僧は十字を切り、隠者たちのほうに身を屈めて言った。 「あなた達の祈りこそ、神様まで届いているのです。隠者の皆さん。私はあなた達を教えるような者ではありません。われわれ罪深い者のためにお祈りをして下さい!」

[12] 詩篇94:18「「私の足はよろけています」と私が言ったなら 主よ あなたの恵みで 私を支えてください」

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2021/1/1 元旦礼拝 Ⅰコリント13章「信仰と希望と愛」

2021-01-01 09:11:51 | 聖書
2021/1/1 元旦礼拝 Ⅰコリント13章「信仰と希望と愛」

 2020年、色々なものが揺さぶられて変わった一年で、改めて深く思い巡らした御言葉が、

いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

でした。この「愛」、いつまでも残り、最も優れている愛に、色々な事が変わって、過ぎ去っていくことを痛感している今、ともに目を向けたいと思います。

 このⅠコリント13章、「愛の章」「愛の賛歌」として知られる美しい印象とは裏腹に、コリントの教会が問題だらけであった事を背景にしています。神からいただいた能力を自慢したり、妬んだり、比べ合って協力を忘れていた教会でした。そういう教会に対して、1~3節では繰り返して

「愛がなければ、私は無に等しい。何の役にも立ちません」

と強く言い切る言葉から始まって、愛に立ち返るよう歌い上げているのが、この「愛の賛歌」です。

 この「愛」とは、私たち自身の愛情とか思いやりという以上に、神ご自身の愛です。元々の言葉はアガペーです。他にも「愛」を表す言葉、恋愛とか友情を表す言葉も別にあるのです。しかしそれにも勝って、ここで言うのは「神の愛」です。恋とか優しさも勿論素晴らしいものです。私たち人間が精一杯愛するのも大事ですし、尊いこと、素敵なこと、素晴らしい事です。しかし、私たちがここに書かれるような愛があるか、こんな愛で愛せるでしょうか。

 4愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、6不正を喜ばずに、真理を喜びます。

 こんな愛は私のうちからは出て来ません。これは神の愛です。そしてその神が私たちを愛しておられます。神が私たちに寛容で、親切で、妬まず、自慢せず。私たちの悪を心に留めず、不正を喜ばずに真理を喜んでおられる、その愛を注いで生かしてくださっています。そして、

7すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。

私たちがどんなに愛から遠くても、神は耐えてくださり、信じてくださり、望んでくださり、忍んでくださっています。神は、私たちの愛のなさ、今の罪の問題を知りつつ、なお、私たちを尊ばれ、私たちの成長や回復を信じて、希望を捨てないで、忍耐してくださっている。この手紙そのものが、愛を見失ったコリントの信徒たちにも、なおこの愛の賛歌が届くと信じた手紙です。冷たくなったコリント教会も、きっと回復できると希望をもって語られたのです。

 8~12節は、私たちの今の知識はごく部分的な、中途半端なものだと思い起こさせます。私たちに見えているのはごく一面です。しかし神は私たちを完全にご存じです。やがて私たちも完全に知ることになります。知りたかったことを全部、だけでなく、知りたくないようなことも、知られたくないことも全部、完全に知られた上で、なお神が私たちに、寛容で、親切で、すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍んでくださっていたかを知る。その時こそ、私たちは本当に、愛が残る、神の愛は決して絶えることがないと分かるでしょう[1]。

 結びの13節で
「いつまでも残るのは愛だけです」
とは言わず

「信仰と希望と愛、これら三つです」

と言います[2]。この「残る」という動詞は単数形です。愛と信仰と希望は一つのものです[3]。7節でも

「(愛は)すべてを信じ、すべてを望み」

と信仰と希望を生み出すと言っていました。神の愛は信仰を伴い、希望を生み出します。そしてこの「信仰と希望」は神に対する信仰だけでなく、神が働いておられるゆえに、横の関係、周りの他者を、色々な問題をも踏まえた上で、深いところで信じる関係性でもあります[4]。また、目に見える出来事の中でも、最善を信じる。やがての回復を疑わない、希望でもあります。私たちの想像や理解を超えた神の良いご計画を期待して、耐え忍び、待ち望んで良い。それが教会も共同体も育てるのです。[5]

 今私たちは人間の知識や考え、予想の限界を痛感していますが、その中にも愛や信じることや希望の尊さが輝く出来事もたくさん神は見せてくださっています。そして、やがて私たちが完全にすべてを知る時に、神の愛と信仰と希望が輝いて残る。そうここに約束されています。私が愛せない時も神は私を愛し、私が信じられない時も神は信頼を回復し続けておられ、私が希望をひとかけらも持てない時も、祝福に満ちたご計画へと私たちを運んでいてくださる。この言葉に立つのは、ただの優しさよりも遙かに大それた告白です。勇気がいります。そんな大それた確信への招きなのです。

 そこに至るまで、私たちには理解できないことが続くでしょう。自分の愛も、信仰も希望も、吹き飛ぶ出来事もあるでしょう。その私たちに御言葉は、人の知識を遙かに超えた、愛と信仰と希望こそ現実だと語るのです[6]。だから私たちは、どんな時にも、分かったようなことを語るよりも、互いに神の愛を分かち合えます。神を信じ、お互いの信頼を育てることを追い求めます。楽観的な将来を予測することは出来ませんが、希望を語り合えます。その希望と信仰を伴う愛へと立ち返って、一年を踏み出させていただきます。

「私たちを愛したもう主よ。新しい一年もあなたが主です。すべてを導き、私たちをあなたの愛によって成長させ、御栄えを現してください。私たちの知識も視野も限られています。本当に私たちは小さな者です。その与えられた小さな力を、あなたの愛によって用いてください。恵みならぬものを求めるたびに、教え諭してください。今こそ、私たちがあなたの愛に励まされ、あなたの愛の器となることを求めます。信仰と希望を受け取って、一年へと踏み出します」


聖書協会共同訳
1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。
2たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。
3また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。
4愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。
6不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。
7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。
9私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。
10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。
11幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になったとき、幼子のような在り方はやめました。
12私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。
13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。

たとえ私(わたし)が人(ひと)の異(い)言(げん)や御(み)使(つか)いの異(い)言(げん)で話(はな)しても、
愛(あい)がなければ、騒(さわ)がしいどらや、うるさいシンバルと同(おな)じです。
たとえ私(わたし)が預(よ)言(げん)の賜物(たまもの)を持(も)ち、
あらゆる奥(おく)義(ぎ)とあらゆる知(ち)識(しき)に通(つう)じていても、
たとえ山(やま)を動(うご)かすほどの完全(かんぜん)な信(しん)仰(こう)を持(も)っていても、
愛(あい)がないなら、私(わたし)は無(む)に等(ひと)しいのです。
たとえ私(わたし)が持(も)っている物(もの)のすべてを分(わ)け与(あた)えても、
たとえ私(わたし)の体(からだ)を引(ひ)き渡(わた)して誇(ほこ)ることになっても、
愛(あい)がなければ、何(なん)の役(やく)にも立(た)ちません。
愛(あい)は寛(かん)容(よう)であり、愛(あい)は親切(しんせつ)です。
また人(ひと)をねたみません。
愛(あい)は自(じ)慢(まん)せず、高慢(こうまん)になりません。
礼(れい)儀(ぎ)に反(はん)することをせず、自(じ)分(ぶん)の利(り)益(えき)を求(もと)めず、
苛(いら)立(だ)たず、人(ひと)がした悪(あく)を心(こころ)に留(と)めず、
不(ふ)正(せい)を喜(よろこ)ばずに、真(しん)理(り)を喜(よろこ)びます。
すべてを耐(た)え、すべてを信(しん)じ、すべてを望(のぞ)み、すべてを忍(しの)びます。
愛(あい)は決(けっ)して絶(た)えることがありません。
預(よ)言(げん)ならばすたれます。異(い)言(げん)ならば止(や)みます。知(ち)識(しき)ならすたれます。
私(わたし)たちが知(し)るのは一(いち)部(ぶ)分(ぶん)、預(よ)言(げん)するのも一(いち)部(ぶ)分(ぶん)であり、
完全(かんぜん)なものが現(あらわ)れたら、部分的(ぶぶんてき)なものはすたれるのです。
私(わたし)は、幼(おさな)子(ご)であったときには、幼(おさな)子(ご)として話(はな)し、
幼(おさな)子(ご)として思(おも)い、幼(おさな)子(ご)として考(かんが)えましたが、
大人(おとな)になったとき、幼(おさな)子(ご)のことはやめました。
今(いま)、私(わたし)たちは鏡(かがみ)にぼんやり映(うつ)るものを見(み)ていますが、
そのときには顔(かお)と顔(かお)を合(あ)わせて見(み)ることになります。
今(いま)、私(わたし)は一(いち)部(ぶ)分(ぶん)しか知(し)りませんが、
そのときには、私(わたし)が完全(かんぜん)に知(し)られているのと同(おな)じように、
私(わたし)も完全(かんぜん)に知(し)ることになります。
こういうわけで、いつまでも残(のこ)るのは信(しん)仰(こう)と希(き)望(ぼう)と愛(あい)、これら三(み)つです。
その中(なか)で一番(いちばん)すぐれているのは愛(あい)です。


 1たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。2たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。3たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私の体を引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
と強く、愛がないことの空々しさ、殺風景な味気なさを思い起こさせるのです。

O Lord,
Length of days does not profit me except the days are passed in Thy presence, in Thy service, to Thy glory.
Give me a grace that precedes, follows, guides, sustains, sanctifies, aids every hour, that I may not be one moment apart from Thee, but may rely on Thy Spirit to supply every thought, speak in every word, direct every step, prosper every work, build up every mote of faith, and give me a desire to show forth Thy praise; testify Thy love, advance Thy kingdom. I launch my bark on the unknown waters of this year, with Thee, O Father as my harbour, Thee, O Son, at my helm, Thee O Holy Spirit, filling my sails. Guide me to heaven with my loins girt, my lamp burning, my ear open to Thy calls, my heart full of love, my soul free.
Give me Thy grace to sanctify me, Thy comforts to cheer, Thy wisdom to teach, Thy right hand to guide, Thy counsel to instruct, Thy law to judge, Thy presence to stabilize.
May Thy fear be my awe, Thy triumphs my joy

神よ、新しい始まりと、不思議な驚きの神よ。新年という贈り物を感謝します。この年が私にとって恵みの時となりますように。信仰と愛において成長する時、あなたの御子イエスに従う忠実さを新たにする時となりますように。私にとっての祝福の時となりますように。私の家族と友人たちを大事にする時、新たに私の仕事に奮起する時、私の信仰を更に育む時となりますように。私とともに歩んでください。この新年の毎日、毎時間、キリストの光が私を通して輝きますように。たとえ、私が弱く、失敗しようとも。何よりも、この年、私があなたへの聖なる旅路を進む巡礼者であることを忘れませんように。
 O God of new beginnings and wonderful surprises,
thank you for the gift of a new year.
May it be a time of grace for me,
a time to grow in faith and love,
a time to renew my commitment to following Your Son, Jesus.
May it be a year of blessing for me,
a time to cherish my family and friends,
a time to renew my efforts at work,
a time to embrace my faith more fully.
Walk with me, please, in every day and every hour of this new year,
that the light of Christ might shine through me,
in spite of my weaknesses and failings.
Above all, may I remember this year that I am a pilgrim on the sacred path to You.

 Amen
And I would like to add to this prayer...
May it be a time of grace for you,
May it be a year of blessing for you,
May the Lord walk with you in every day and every hour of this new year,
and let you shine His light in this troubled world.
 Oh dear fellow pilgrims, let us enjoy together the sacred path to our Heavenly Father this year!
この年があなたにとっての恵みの時でありますように。
あなたにとっての祝福の年でありますように。
主が、この新年の毎日、毎時間、あなたとともに歩んでくださり、この問題多き世界であなたに主の光を輝かせてくださいますように。
愛する巡礼者仲間の皆さん、この年、私たちの天の父への聖なる旅路をともに楽しみましょう。

一年が家だとしたら
The Year as a House: A Blessing 
(by Jan Richardson)

一年が家だとしたら。
歓迎するように大きく開かれた扉、
きれいに掃かれて用意の整った戸口、
あなたのために差し出されている広々とした心地よい空間、
どの部屋も祝されますように。
どの部屋も隅々まで尊ばれますように。
どの小部屋も避難所となり、
そこにあるものはみな、
聖なることのために用いられますように。
ここに
安全がありますように。
健康がありますように。
平安がありますように。
愛がありますように。
ここに
疲れている人、
傷んでいる人、
迷っている人、
悲しんでいる人が
やって来れますように。
ここに
安らぎと慰めを見つけ、
居場所と喜びを見つけられますように。

そして一年というこの家で、
それぞれの季節が美しく紡がれますように。
日々刻々と、喜びが増し加えられますように。
そしてどの部屋も、
ふつうの恵みで満たされ、
どの窓からも光がこぼれ出ますように。
見知らぬ人を歓迎するために。

[1] 「8愛は決して絶えることがありません。預言ならばすたれます。異言ならば止みます。知識ならすたれます。9私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、10完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」私たちが知るのは、どんなに知ったつもりでも一部分。私たちの知ることは結局中途半端な聞きかじりです。知ることは大事ですが、全部知った気になったら勘違いです 。今、私たちが目にしているのは、ぼんやりした、ごく一面的なことでしかないのです。「12今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」 私たちの知識はごく一部分です。誰かのこと、自分のこと、今年どんなことが起きるか、また、今何が起きているのか、去年何が起きたのかも、僅かな、限られたことしか見えません。神の愛さえ分かってはいません。「神の愛を説明しろ」と言われても出来ない出来事はたくさん起きるのです 。でも、神は私を完全に知っておられます。そして、やがて私たちも完全に知ることになります。その時、自分が知っていたことはなんと一面的だったかをまざまざと思い知るでしょう。なんと知らなかったかと驚くのでしょう。なんて知ったかぶりで分かったようなことを話していたかを恥じ入るでしょう。それ以上に、神が私を完全に知っていてくださったこと、一人一人を神が完全に知って、愛しておられたか。何かが出来る出来ないにかかわらずの愛ですし、神は完璧に私たちを知った上で、愛してくださる。その愛は残るのです。今はそれは完全には分かりませんが、やがて私たちはハッキリ、愛を見る。

[2] 「目に見える望みは望みではない」(ローマ8:24)とも言われるが、やがてすべてが恵みの光の中で見る時、望みも信仰も、廃れるのではなく不動のものとなる。

[3] 新約聖書には、この三つの組み合わせが多く語られています。他でのこの組み合わせ:ローマ5:2-5(このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。3それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。)、エペソ1:15-18(こういうわけで私も、、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛を聞いているので、16祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、)、4:2-5(謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、3平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。4あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。5主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。)、コロサイ1:4-5(キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。5それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。)、Ⅰテサロニケ1:3 (私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。)、5:8(しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。)、ヘブル6:10-12(神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。11私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、12その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。)、10:22-24(心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。23約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。24また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。)、Ⅰペテロ1:3-8(私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。4また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、7試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。)、21-22(あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。22あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。)

[4] 2節の「山を動かすほどの完全な信仰」は、まさに人間が持つ「信仰力」というものだろう。13節での「信仰」は、人間の信仰ではなく、神がもたらしてくださる信頼。愛から生まれる信仰であるはずが、いつのまにか、人間の業としての信仰となり、愛を欠いた信心となりうることが、「その中で一番すぐれているのは愛です」という言葉からも意識されています。

[5] 「すぐれている」 12:31「よりすぐれた」、14:5「まさっている」 教会の建徳を語る。信仰も希望も、愛(神の真実、ヘセド)から生み出されるが、愛抜きの信仰や希望では、人を益することは出来ない。しかし、愛だけで、信仰・信頼・誠実を育てず、希望を与えないということも不徹底である。

[6] 「愛だけではダメだ。信仰と希望もないと」というような言い方は、信仰と愛を切り離してしまいます。ガラテヤ書5章6節「割礼を受ける受けないは大事なことではありません。大事なのは、愛によって働く信仰です。」 愛によって働かない信仰、というのもあるのです。それは、私たちがよくよく注意しなければならないことの一つかもしれません。それ以上に注意しなければならないのは、神の愛抜きにして、自分の愛を誇ることです。愛ではなく、義務感や罪悪感によっては、信仰は育ち得ません。

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