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■【あたりまえ経営のすすめ】3-01 ハーバードビジネススクールが唱える学ぶ上で最も重要なこと 0512

2021-01-20 07:31:00 | 【経営・専門業】 あたりまえ経営のすすめ<ビジネスパーソン>

■【あたりまえ経営のすすめ】3-01 ハーバードビジネススクールが唱える学ぶ上で最も重要なこと 0512

 多様化の時代になり、ホンモノ智恵が求められる昨今です。

 世の中には、「専門家」とか「プロ」と呼ばれる人が多数いらっしゃいます。

 ところが、残念なことに、その大半というのが、「エセ専門家」「エセプロ」なのです。

 それが露呈したのが、東日本大震災の福島原発事故ではないでしょうか。

 その対応においても、事後対応においても、専門家と言われる人達な何もできず、口を閉ざしてしまっだではないですか。

 ホンモノのプロ、要は「“真”のプロ」とは、どの様な人を指すのでしょうか。

 40年余の経営コンサルタント経験から、最善の策ではないにしても、ベターな策を講じるための智恵をご紹介してまいります。

メモ

■ ハーバードビジネススクールで唱える学ぶ上で最も重要なこと 0512

 

 ハーバードビジネススクールが、学生達に求めることとして、MBA教育の目的として以下のように記述されています。(日経新聞「私の履歴書」2002.11.90

   ハーバードビジネススクールで学ぶ最も重要なことは

   状況がはっきりしていないまま、

   限られた情報と限られた時間の中で、

   いかにに事態を分析し、

   判断を下すことである。

 

 現代の世界は、何が起こるのか、確実性を求めますと、「情報が不十分なので、結論を出すことは不可能です」というような答が返ってくることが多いです。

 われわれ経営士・コンサルタントは、それまでほとんど知らない企業に赴いて、その企業の問題点を明確にして、解決に取り組んだり、将来を見据えて、その企業の更なる発展を望める提案をしたりと、限られた情報による不確実な中で、判断をし、仕事をせざるを得ません。

 

 それでは、どの様に、私達、真のプロフェッショナルな経営士・コンサルタントは仕事に取り組むのでしょうか。

 「不確実で、不十分な情報の中で、今判断をするとしたら、この様な判断の下で、このように提案をします」という姿勢で取り組みます。

 このやり方には、異論が出ると考えますが、上記のハーバードビジネススクールの学生に求められる基本理念からもわかりますように、上述の姿勢がベターな策と考えています。

 一方で、不確実で不十分な情報の環境下で、最善の判断ができるかどうかが、プロなのか、セミプロなのかの分かれ目であり、“真”のプロフェッショナルとしての判断を下せることが求められているのです。

■【プロの心構え】 バックナンバー

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■【きょうの人】 0119 ■ 明恵 日本茶の普及 ■ 勝海舟 幕末の立役者 ■ 道元(禅師) 曹洞宗の開祖 ■ 関山慧玄 朝廷の厚い信任

2021-01-19 08:46:00 | 【話材】 きょうの人01月

■【きょうの人】 0119 ■ 明恵 日本茶の普及 ■ 勝海舟 幕末の立役者 ■ 道元(禅師) 曹洞宗の開祖 ■ 関山慧玄 朝廷の厚い信任

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 勝海舟 幕末の立役者


 かつ かいしゅう
 1823年3月12日〈文政6年1月30日〉- 1899年〈明治32年〉1月19日)


 江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)で政治家、位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵です。

 初代海軍卿となり、山岡鉄舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれています。

 幼少時の文政12年(1829年)、親類・阿茶の局の紹介で、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されました。

 一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、慶昌が天保9年(1838年)に早逝しました。同年、父の隠居で家督を相続することになりました。

 嘉永6年(1853年)に、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されますと、幕府老中首座阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になりました。

 海防に関する意見書を、幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集しました。これに海舟も海防意見書を提出、意見書は阿部の目に留まることとなりました。

 目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから安政2年(1855年)1月18日に、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たしたのです。

 長崎海軍伝習所時代、海舟は頻繁に船酔いに苦しんでいたこともあり、船乗りにとても向かない体質から帰府の話が浮上しましたが、すぐには実現しませんでした。
 外国奉行永井尚志と水野忠徳が遣米使節を建言すると、安政6年1月5日に朝陽丸に乗って1月15日に帰府、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになりました。

 咸臨丸には、軍艦奉行・木村喜毅(艦の中で最上位)、教授方頭取として海舟が任ぜられました。通訳のジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も乗り込みました。

 咸臨丸の航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説があります。

 アメリカ滞在中は政治・経済・文化など何もかも日本と違う文明に衝撃を受けました。

 海舟と木村の対立があったようで、自分達は一国を代表してアメリカへ来たという意識があった海舟と、そういう意識が無かった木村との間が上手くいかなかったことが原因のようです。

 明治も半ばを過ぎてから、諭吉が「瘠せ我慢の説」で新政府に仕えた勝を攻撃したことで知られる諭吉と勝の確執も、咸臨丸航海から始まっているといわれています。


 文久3年(1863年)に坂本龍馬の名前が海舟の12月29日付の日記に出てきますが、両者のそれ以前の交流は不明です。

 家茂を補佐するなどはあったものの、保守派から睨まれていた上、頼りにしていた松平春嶽も政局を放り出して離脱、海舟は孤立した時期もあります。

 家茂は朝廷から攘夷を約束されたため、攘夷が不可能であると考える海舟にとってはやりづらい状況となりました。幕府の命令で長崎に滞在、オランダ総領事ポルスブルックと交渉して、上奏したりしましたが、下関戦争が発生したり、期待していた参預会議も一橋慶喜の策動で解体されたりと思う様に進みません。

 佐久間象山が暗殺されたり、禁門の変が発生したり、続く第一次長州征討で幕府は勢いづき公議政体論の見通しは無くなったりして、海舟の立場は危うくなったりもしました。


 慶応4年(明治元年、1868年)、戊辰戦争の開始および鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まると、幕府の要職を罷免された海舟は、最後の陸軍総裁に起用されました。

 幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順を慶喜が罷免、海舟はに海軍奉行並、続いて徳川家の家職である陸軍総裁に昇進しました。

 官軍が駿府城にまで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まり、新政府側を援助していたイギリスを利用し、英国公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせました。

 その様なときに、有名な西郷隆盛との階段が開かれたのです。勝野準備が、西郷を納得させたとも言えるかもしれません。しかし、「パークスの圧力」を利用することはできなかったとも言われています。

 晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い、徳川家のスキャンダルが外に出ないような工作もしました。

 最晩年は、孤独な生活だったといわれています。活躍が報われなかったのが、寂しいですね。

 

■ 明恵 日本茶の普及

 

 みょうえ
 承安3年1月8日(1173年2月21日) - 寛喜4年1月19日(1232年2月11日)
 幼名:薬師丸、号:明恵房(房号) 諱:成弁→高弁 尊称:明恵上人、栂尾(とがのお)上人 宗旨:華厳宗


 鎌倉時代前期の華厳宗の僧

 紀伊国有田郡(現:和歌山県有田川町)に生まれ、幼くして高雄山に登り、華厳、倶舎などを学びました。

 その後、諸寺に遊学し、密禅の諸教に通じるようになりました。

 華厳宗第十七世の法脈を嗣ぎ、後鳥羽上皇の勅により、栂尾山を賜りました。鳥獣戯画で有名な高山寺に晩年を過ごし、そこで歿し、廟は高山寺禅堂院にあります。

 代表的な著作として「摧邪輪」がありますが、その他多数をちょしています。

 栄西請来の茶の種子を栂尾にまき、茶の普及の契機をなしたことは有名です。高山寺には、日本で最初の茶畑があります。


【Wikipedia】 明恵

 承安3年(1173年)1月8日、高倉上皇の武者所に伺候した平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。

 治承4年(1180年)、9歳(数え年。以下同様)にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事(のち、文覚にも師事)、華厳五教章・倶舎頌を読んだ[1]。16歳で出家し、文治4年(1188年)、東大寺で具足戒を受けた。法諱は成弁(のちに高弁に改名)。仁和寺で真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、悉曇を尊印に、禅を栄西に学び、将来を嘱望された。20歳前後の明恵は入門書の類を数多く筆写している。

 

■ 道元(禅師) 曹洞宗の開祖


 どうげん
 正治2年1月2日(1200年1月19日)-建長5年8月28日(1253年9月22日)
 諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄


 鎌倉時代初期の禅僧で、日本における曹洞宗の開祖で、同宗旨では高祖と尊称されます。

 13歳で出家し、比叡山で研学し、その後栄西に臨済宗を学んでいます。24歳で入宋し、曹洞禅の秘奥を究めました。

 29歳で帰朝し、諸事を建立し、その一環として永平寺の建立があります。

 「徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがある」という修証一等、只管打坐の禅を伝えました。

 著書『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた

 

■ 関山慧玄 朝廷の厚い信任


 かんざんえげん
 建治3年(1277年)-正平15年/延文5年12月12日(1361年1月19日)


 鎌倉時代末期から南北朝時代、信濃国に生まれた僧侶で、朝廷から本有円成、仏心、覚照、大定聖応、光徳勝妙、自性天真、放無量光の国師号が与えられました。また、明治天皇からは「無相大師」と追諡されています。

 1307年に、南浦紹明の鎌倉建長寺に入り、慧眼(えげん)の法名を授かり、鎌倉に滞在した後に帰郷しました。

 京都大徳寺に遷って宗峰に師事し、1329年に関山の号が与えられ、慧玄と改名しました。1342年に関山は妙心寺開山となりました。

 その禅風は厳格で、その生活は質素をきわめ、「枯淡な禅風」をもって修禅に専念したといわれています。

 関山には他の高僧のような語録や著書はなく、生前に描かれた肖像(後世に作成された物はある)も遺筆もほとんど残されていません。2006年に、臨済宗妙心寺派の寺の蔵より肖像画が発見されましたが、確認されていません。

 妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院で、山号を正法山といいます。本尊は、釈迦如来です。開基(創立者)は花園天皇で、寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)です。

 日本の臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺が妙心寺派で占めています。三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭があり、一大寺院群を形成し、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれているほどです。

 

■ 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖


 はくいん えかく
 1686年1月19日(貞享2年12月25日)-1769年1月18日(明和5年12月11日)
 諡は神機独妙禅師、正宗国師


 白隠は、臨済宗中興の祖といわれる江戸時代中期の禅僧です。

 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれ、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ねました。

 禅修行のやり過ぎで禅病となりましたが、白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復したといわれています。

 42歳の時に、コオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成しました。この経験から禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救ったそうです。

 他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めています。これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからです。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

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■【きょうの人】 0118 ■ 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖 ■ 覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖、新義真言宗の始祖 ■ 勢観房源智 鎌倉時代前期の浄土宗の僧

2021-01-18 08:46:00 | 【話材】 きょうの人01月

■【きょうの人】 0118 ■ 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖 ■ 覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖、新義真言宗の始祖 ■ 勢観房源智 鎌倉時代前期の浄土宗の僧

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 白隠慧鶴 臨済宗中興の祖


 はくいん えかく
 1686年1月19日(貞享2年12月25日)-1769年1月18日(明和5年12月11日)
 諡は神機独妙禅師、正宗国師


 白隠は、臨済宗中興の祖といわれる江戸時代中期の禅僧です。

 駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)にあった長沢家の三男として生まれ、15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ねました。

 禅修行のやり過ぎで禅病となりましたが、白幽子という仙人より「内観の秘法」を授かって回復したといわれています。

 42歳の時に、コオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成しました。この経験から禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救ったそうです。

 他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めています。これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからです。

 

■ 勢観房源智 鎌倉時代前期の浄土宗の僧


 せいかんぼうげんち
 寿永2年(1183年)- 暦仁元年12月12日(1239年1月18日)


 鎌倉時代前期の浄土宗の僧で、号は勢観房、妙法院法印です。紫野門徒の祖でもあり、賀茂(かもの)上人とも呼ばれています。

 建久6年(1195年)、源智13歳、法然63歳のときに、法然の室に入りました。

 源智は、法然自筆の「一枚起請文」を生涯、首に懸け秘蔵していたと言われています。源智に帰依した河合(ただす)の法眼の所望に応じ、それを授与し、それによって「一枚起請文」として世間に流布することになりました。

 法然から、円頓戒の道具、本尊(南禅寺畔の西福寺)、現知恩院の地である大谷の坊舎、聖教などを譲られました。

 法然没後に生じた、天台宗の延暦寺衆徒が法然教団を弾圧した嘉禄の法難のために、大谷の坊舎は、法然の廟所を含めて荒廃してしまいました。京都における法然教団の維持に努めました。

 文暦元年(1234年)、奏聞を遂げ、四条天皇から仏殿に「大谷寺」、廟額に「知恩教院」、総門に「華頂山」の勅額を賜り、大谷の坊舎を「知恩院」として再興しました。

 建治2年(1276年)、鎮西義の弁長の弟子である良忠(浄土宗三祖)が、鎌倉から京にやってきます。その時の講義で、相違するところが全くなく符合しましたので、以後源智の門流は別流を立てずに、鎮西義に合流しました。

 このような控えめな人ですが、知恩院の再興、後述の玉桂寺阿弥陀如来像造立への結縁活動など、法然没後の法然教団の維持に多大な貢献をしています。

 

■ 覚鑁 (興教大師) 真言宗中興の祖、新義真言宗の始祖

 

 かくばん/こうぎょうだいし
 嘉保2年6月17日(1095年7月21日)- 康治2年12月12日(1144年1月18日)


 平安時代後期の真言宗の僧で、真言宗中興の祖であり、新義真言宗の始祖でもあります。

 諡号を興教大師(こうぎょうだいし)といいます。

 肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分 新義真言宗大本山誕生院)に生まれました。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘で、幼名は、弥千歳といいました。

 平安時代後期の朝野に勃興していた法然らの念仏・浄土思想を、真言教学において、いかに捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成しました。

 即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊(全ての仏徳を備えた仏)から派生した、別徳の尊であるとしています。

 空思想を表した『月輪観(がちりんかん)』の編者として知られています。また、日本に五輪塔が普及する切っ掛けとなった『五輪九字明秘密釈』の著者でもあります。

 

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■■【経営コンサルタントのお勧め図書】164 日本企業はCSVで飛躍を

2021-01-18 05:46:00 | 【経営】 経営コンサルタントの本棚

■■【経営コンサルタントのお勧め図書】164 日本企業はCSVで飛躍を

 「経営コンサルタントがどのような本を、どのように読んでいるのかを教えてください」「経営コンサルタントのお勧めの本は?」という声をしばしばお聞きします。

 日本経営士協会の経営士・コンサルタントの先生方が読んでいる書籍を、毎月第4火曜日にご紹介します。

今日のおすすめ

 『CSV経営戦略』(名和 高司 著 東洋経済新報社)

日本企業はJ‐CSV経営で飛躍しよう(はじめに)

 私は、2015年12月に著者の名和先生(一橋大大学院教授)の講演を聞き、「CSV」という経営戦略に改めて関心を持ち、紹介本を購入し研究してみました。特に、名和教授の提唱する「J‐CSV」に共感を覚えました。お話を進める前に、「CSV」とは何か、「J‐CSV」とは何かについて簡単に整理をしておきましょう。

〔CSVとCSR〕

 CSVはHBSのポーター教授が「共通価値の戦略(Creating Shared Value)」で提唱した「戦略論」です。その戦略のポイントは、社会的価値(課題解決)と経済的価値(利益)の双方を同時に求めることで、それぞれの共通価値の実現性、スピード、規模の大きさ、継続性を、成果として効果的・効率的に出せるとします。CSR(またはSR)は、ISO2600で代表される、持続可能な社会を実現するための「社会的責任」についての「手引き」と言っていいでしょうか。CSRは、やや極論ですが、儲けが出ている時だけ社会貢献するフィランソロピー的になってしまう可能性を持っているとします。CSVの方が、実効性・継続性、成果実現性の点で優れているとしています。

〔CSVとJ‐CSV〕

 著者は、ポーターのCSVに共感しつつも、日本の文化を生かしたJ‐CSV、がポーターのCSVより優れた実効性を発揮できるとして、提案をしています。

 ポーターのCSVはポジショニング(What)が主で、そこには、「志(Why))」と「人間性(How)」の二つが欠けているとして、特に「志(Why))」をCSVのスタートにすべきとし、著者はJ‐CSVを提唱します。

〔J-CSVによって日本企業は飛躍できる〕

 著者は、かつてアメリカ発のTQC(Total Quality Control )が日本の現場の力と相俟って「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を築いたように、現場力を生かしたJ-CSVに日本企業の飛躍のチャンスがあるとして、J-CSV経営実現のための「J-CSV経営実現の7要件」と「J-CSV経営実現の4つの課題」を提唱しています。ポーターの理論は「7要件」「4課題」にまで具体化した理論になっていないのです。それを次の項で見てみましょう。

日本的経営の強さを改めて認識しよう。J-CSV経営で日本企業は飛躍できる。

【J-CSV経営実現の7要件】

 7要件として、次の7つをあげています。①社会課題をどうとらえるか?②大義はあるか?③「(我社)ならでは」のひねりがあるか?④儲けの仕組みにどう変換するか?⑤誰をどう巻き込むか?⑥いかにスケールするか?⑦いかに持続的成長を実現するか?の7つです。

 この7つは、次の「4つの課題(経営モデル)」を作る前提として、不可欠の要素として上げています。著者が、日本人の感性をもって、いろいろな形で係ってきたCSV企業の成功要因を抽出したものとも言えます。著者が係った企業のケース・スタデイと合わせ、詳細は紹介本をお読みください。

【J-CSV経営実現の4つの課題】

 4つの課題として次の4つをあげています。著者の強調したい点は、ベストプラクティスではなく、独自の、フロンティアの「型」を作るべしと強調します。

 ①ガバナンスモデル(掲げる社会価値と経済価値が経営管理のコアとしての機能を果たせるかを見極める)②ビジネスモデル(持続可能なCSV行っていくための、規模の経済(Scale)、範囲の経済(Scope)、技能の経済(Skill)の「3Sの経済」を獲得できるビジネスモデルを創出する必要がある)③組織モデル(CSVを全社・全員に埋め込み、駆動させうる組織にする)の3つのモデルをまず創り上げ、それらを統合し、 4つ目の課題「J-CSVモデル」を創るべしとします。「J-CSVモデル」は、現場力を生かし、日本人的資質の長所を生かし短所を克服した、「共通価値」ではなく「共創価値」であり、グローバルに発信できるモデルになると著者は強調します。詳細は紹介本をお読みください。

【J-CSVが日本企業を救うグローバル・モデルになるのは何故か】

 著者は日本的経営の強みを四つあげています。その四つの強みは、CSV経営と相性が良いといいます。

 『一つは、日本的経営の根っこにあるのは、武士道と商人道の二つの「道」だ。そして武士道は社会的価値、商人道は経済的価値に当たる。「道」の本質は「極める」ことだ。つまり日本企業には「CSV道」を極めていく素地がある。

 二つ目は、日本企業らしい奥行きの深さ(悪く言うと曖昧さ)である。CSVは社会的価値と経済的価値をトレード・オフの関係でなくトレード・オンの関係でとらえていく必要のあるもの。それを可能にするのは、日本企業の二枚腰的忍耐強さや、持続力、「つなぎ」「ずらし」といった曖昧さ故に生き続ける技術である。

 三つ目は、明治の時代からある和魂洋才。つまり、外から取り入れた知識や技術を日本的文化や価値観をもって解釈し直して磨き上げる。この咀嚼力がアメリカ生まれのCSVを凌駕するJ-CSVを誕生させる。

 四つ目は、知恵を生み出す現場の力。研ぎ澄まされた現場の学習センサーは思いもつかないイノベーションを生み出す。日本的経営の一番の強みである。』と。

 著者は、以上の論拠から、J-CSVが必ず日本を救う経営ツールとなることを確信するのです。

☆☆でいちばん大切にしたい会社」になろう(むすび)

 J-CSVという概念は、日本企業の経営戦略論としては未だほとんど浸透していないのではないでしょうか。著者の言うように、「J-CSV」が、日本企業、特に中小企業の救世主になると思います。是非「J-CSV」理論を吸収し自前のものとし、「☆☆でいちばん大切にしたい会社」になろうではありませんか。

 「☆☆」には、「世界」でも「日本」でも「地域」でも「ミニ・コミュニティー」でも、何が入ってもいいです。素晴らしいですね。やりましょう。 

 

【酒井 闊プロフィール】

 10年以上に亘り企業経営者(メガバンク関係会社社長、一部上場企業CFO)としての経験を積む。その後経営コンサルタントとして独立。

 企業経営者として培った叡智と豊富な人脈ならびに日本経営士協会の豊かな人脈を資産として、『私だけが出来るコンサルティング』をモットーに、企業経営の革新・強化を得意分野として活躍中。

  http://www.jmca.or.jp/meibo/pd/2091.htm

  http://sakai-gm.jp/

 

【 注 】

 著者からの原稿をそのまま掲載しています。読者の皆様のご判断で、自己責任で行動してください。

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■【きょうの人】 0117 百丈懐海 名族「太原」王氏の末裔

2021-01-17 08:46:00 | 【話材】 きょうの人01月

■【きょうの人】 0117 百丈懐海 名族「太原」王氏の末裔

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■ 百丈懐海 名族「太原」王氏の末裔


 ひゃくじょう えかい
 749年(天宝8載) - 814年2月10日(元和9年1月17日)
 諡号:大智禅師 宗派:洪州宗

 中国福州長楽県の生まれ。

 西山慧照の会下で出家し、衡山の法朝律師の許で具足戒を受けました。

 その後、馬祖より嗣法し、師の没後に、洪州百丈山(江西省宜春市奉新県)に住し、はじめて、律院から独立した禅院を設立しました。禅門の規範(清規)「百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)」という禅宗独立の基礎を定め、自給自足の体制を確立しました。

 後世、叢林開闢(そうりんかいびゃく)百丈禅師と称して尊敬を得ました。

 1月17日は、百丈大智禅師懐海の没日です。毎年この日に法会が催しされます。

 元和9年(814年)1月17日に寂し、長慶元年(821年)に大智禅師と諡されました。

 

【Wikipedia】 百丈
 百丈懐海(ひゃくじょう えかい、749年(天宝8載) - 814年(元和9年))は、中国、南宗禅中の洪州宗の祖馬祖道一の法を継ぐ唐時代の禅僧。懐海は法諱。大智禅師と諡される。
 福建省福州長楽県の生まれ。俗姓は王氏であり、名族である太原の王氏の末裔であり、永嘉の乱の混乱を避けて、遠祖が福建に移り住んだものという。

 

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■【きょうの人】 0116 ■ 真宗本派親鸞聖人 浄土真宗の開祖 ■ 尾崎紅葉 代表作「金色夜叉」の名台詞・・・

2021-01-16 08:46:00 | 【話材】 きょうの人01月

■【きょうの人】 0116 ■ 真宗本派親鸞聖人 浄土真宗の開祖 ■ 尾崎紅葉 代表作「金色夜叉」の名台詞・・・

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 尾崎紅葉 代表作「金色夜叉」の名台詞・・・


 尾崎紅葉(1868~1903)の代表作「金色夜叉」の中に、熱海の海岸で、主人公の貫一を裏切った恋人のお宮に「可いか、宮さん、1月の17日だ。来年の今月今夜になつたらば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるから」という名台詞があります。

  このことから夜の曇り空のことを「貫一曇り」と言います。

  1月17日は、熱海で「尾崎紅葉祭」が行われます。

  尾崎紅葉は「我楽多文庫」の発刊を機に分断で名前が知られるようになります。お恥ずかしいことながら、紅葉の作品は「伽羅枕」などの名前だけしか知りません。

  幸田露伴と並称されて「紅露時代」を築き、明治期文壇の重鎮の一人と言えます。

 

■ 真宗本派親鸞聖人 浄土真宗の開祖


 しんらん
  旧暦     承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日
   ユリウス暦  1173年5月14日 - 1263年1月9日
  グレゴリオ暦 1173年5月21日 - 1263年1月16日


 浄土真宗の開祖「親鸞(しんらん」は、鎌倉時代承安3年4月1日に京都市伏見区日野に生誕しました。

  現在の新暦では、5月21日にあたることから、この日に誕生会(たんじょうえ)の儀式が行われます。

 「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという浄土宗の開祖と仰がれた法然を師と仰いでいました。

  その教えを継承し、さらに高めて行くことに力を注いだといわれています。

  独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとりました。

  親鸞に関する文書がほとんどないことから、その生涯は不明確なことが多く、史実か伝説か判別できないのです。

 

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■【成功企業・元気な会社・頑張っている社長】 034  社員の幸せ追求する寒天業者 8411-A926

2021-01-16 05:46:00 | 【経営】 成功企業・元気な会社・頑張る社長

■【成功企業・元気な会社・頑張っている社長】 034  社員の幸せ追求する寒天業者 8411-A926


 経営コンサルタントを40年余やってきた経験から、すこしでも皆様のご参考になればとお届けしています。

 成功企業・元気な会社・頑張っている社長】は、皆様から寄せられたり、私が支援したり、見聞したりした企業の事例を紹介していますが、お陰様で、毎回拍手をいただいています。

 また、あなたのクライアント・顧問先やお知り合いの会社で、ここで紹介したい企業・団体等がありましたら、是非ご連絡ください。

■ 社員の幸せ追求する寒天業者 8411-A926 


 東京ドーム2個分、3万坪の庭園は四季折々、鮮やかな色彩を放ち、シーズンオフがない。

 それぞれ寒天料理、南信州の地ビール、本格手打ち蕎麦が売り物の三つの食事処や、ミュージアム、健康パビリオン、多目的ホール、土産店…と多彩な施設も並ぶ。年間30万人が訪れる、このテーマパーク&癒しの空間を運営するのが伊那食品工業(長野県伊那市)で、本社周辺の敷地を「かんてんぱぱガーデン」と名付け無料開放している。

 同ガーデンに出向くと、いい会社、大切にしたい会社として知られる同社の“真骨頂”も垣間見られる。


 同社は1958年、寒天メーカーとして発足した。60年後の今、その国内シェア80%を誇り、各種ゲル化剤などでも実績を積み重ねている。

 実質的な創業者で、現在、会長を務める塚越寛氏の経営手腕が48期連続の増収増益を成し遂げた。優良企業としてつとに知られる同社は、一方で、塚越会長が定めた社是「いい会社をつくりましょう~たくましく そして やさしく」を有言実行する“社員が元気な企業”としても、その名が轟いている。


「経営の目的は社員の幸せが第一で、売り上げや利益は手段に過ぎない」。

 塚越会長は、経営の目的と手段をそう説明する。塚越英弘副社長(会長の長男)は手段や結果に拘泥しない同社の一端を「目標数字は掲げない。

 役員会や営業会議でも数字の資料はなく、自分たちが何をどうやるか、“あるべき姿”を話し合う」と明かす。


 同社スポークスマンとして、講演をはじめ各種の対外活動を引き受けている塚越副社長は、最近の働き方改革の趨勢には納得がいかない様子。

 ある講演で「人の一生の中で、一番長い『働いている時間』は、楽しい時間、自己実現や成長につながる時間であった方が幸せだ」と説き「ハッピーリタイアを志向する欧米人のベースには、聖書に出てくる、罰としての労働があるように思える。働き方改革や時短はその流れ」と持論を開陳。

 併せて、仕事を極力、本人任せにして自由度を高めることが自己実現や成長に直結すると解説した。


 同社ブランド「かんてんぱぱ」から名付けた「かんてんぱぱガーデン」はどこも清潔で手入れが行き届いている。

 社員が休日の朝などに自発的に掃除や剪定をしているからで、毎回来る人、全然来ない人、たまに来る人とさまざま。評価には全く結び付けていないということを、なぜやるのか…。

 その答えは「やる人にとっては当たり前になっているから。なぜ、当たり前になったかは、結局、自分のためになると感じ取ったからなのでは」(塚越副社長)。

 掃除にも仕事にも自発的、主体的に取り組む同社社員が、元気でないはずはない。


  出典: e-中小企業ネットマガジン掲載承認規定に基づき作成



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■【きょうの人】 0115 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

2021-01-15 08:46:00 | 【話材】 きょうの人01月

■【きょうの人】 0115 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革


 まつだいら さだのぶ
 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日)


 江戸時代中期の大名、陸奥国白河藩3代藩主で、老中を務めました。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たります。

 1787年から1793年まで、1759宝暦8年12月27日、新暦では1月15日に寛政の改革を行いました。定信は、田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばし言われます。

 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となりました。田沼意次が失脚した後の、天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となります。

 田沼意次の政治により、武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していました。

 天明の打ちこわしを期に、幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指しました。

 幕府財政の再建の為に、大胆な財政緊縮政策を行いました。田沼時代の運上金、冥加金の上納を引き換えとして特権を与えるなどといった商業資本重視の政策は、下層への搾取を生み、富商・富農の誕生を促進させたと判断した対応でした。

 一方で、農村で大量離村が発生したりして苦慮しました。対策として倹約や風紀粛清に尽力しました。福祉政策として、飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄するよう命じたりもしています。

 教育政策では、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとしました。

 ヨーロッパの情勢が変化する中、定信は消極的開国政策を示し、ロシアなどの対外政策を実施しました。

 松平定信の改革は、一定の成果をあげましたが、その厳粛な厳しい政治に対する反発から失脚しました。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

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◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

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■【心 de 経営】 経営四字熟語015 起死回生  手遅れになる前に企業の健康診断

2021-01-15 05:46:00 | 【心 de 経営】 経営四字熟語

■【心 de 経営】 経営四字熟語015 起死回生  手遅れになる前に企業の健康診断■ 

本

■ 示唆の多い経営四字熟語

 四字熟語には、いろいろな示唆がありますので、経営やコンサルティングを学ぶという視点で連載をします。

 四字熟語というのは、漢字4文字で構成された熟語で、中国の故事などに基づくだけではなく、幅広い内容を持っています。
 読み方を変えますと、別なものが見えてきます。それを経営コンサルタント歴40年余の目で見ますと、経営やコンサルティングに直結する示唆の多いことに気がつきました。 単に、四字熟語の意味を知るだけではなく、経営士・コンサルタントの視点から感じ取ったことをご紹介します。

 

■  起死回生 (きしかいせい)   手遅れになる前に企業の健康診断


 起死回生は、回生起死とも起死再生ともいい、いまにも死にそうな人を生き返らせることです。

  私たち、経営士・コンサルタントは、平素はあまり見向きもされないことが多いのですが、いざ、手形が落ちない、とか、大手企業からの契約を打ち切られそうだ、といった、切迫した事態に陥ったときに、駆け込み寺として利用されることがしばしばあります。

  しかし、手遅れのことが多いのです。

  病人でも企業でも、重大な局面に陥ってしまうと手の打ちようがないことがあります。人間ですと、早期診断、早期発見、早期治療ということの重要性が認識されて来ていますが、企業が健康診断を受けたり、コンサルティング依頼をしたりすることはほとんどありません。

  経営が安定しているときに、企業が健康診断を受けることをお薦めします。企業がうまくいっているからといって安心していますと、人間ドックにはいったときにガンが発見されるように、企業が病にかかっていることがしばしばあります。

  「手形が落ちない。絶体絶命!!」という状況になる前に手を打っていますと、大過なくその状況を回避することができることがしばしばあります。そのために、手前味噌になりますが、企業も「かかりつけ医」すなわち経営士・コンサルタントを顧問として持つべきなのです。

  また、われわれが人間ドックに入るように、年に1~2回は最低でも健康診断を受けましょう。企業の健康診断の方法はいろいろありますが、その代表的なのが「ビジネスドック」です。ビジネスドックは、プロの経営士・コンサルタントから受けるのが普通ですが、その手法を習得すると自分達だけでも実施することができます。

  企業の健康診断だけではなく、経営戦略を見直したり、問題解決をしたり、経営理念を再構築したりと、用途は広く、効果が大きいのが特徴です。幹部研修や管理職研修を受講すれば、その手法を社内で利用できるようになり、目的に応じてビジネスドックを実施できます。

  企業経営者・管理職とお話しているとしばしば「うちは顧問税理士がいるから経営士・コンサルタントのお世話にならなくても大丈夫です」ということを聞きます。税理士の先生の中には有能な先生もいますので、そのような顧問の先生がいる企業では経営士・コンサルタントは不要かも知れません。

  しかし、一口に経営士・コンサルタントといっても、専門分野がいろいろとあります。脳の病気の時に、内科の先生に手術をしてもらうよりは、脳外科の先生の手術を選ぶでしょう。士業も同じで、「餅は餅屋」なのです。

  「経営士・コンサルタントの顧問料は高い」と思い込んでいる人が多いですが、「投資対効果」を考えますと決して顧問料は高くはありません。「家庭医」「かかりつけ医」を持つように気軽に経営士・コンサルタントをビジネスブレインの一人として受け入れましょう。

 「起死回生」
 倒産しかけている、絶望的な絶体絶命の状態から立ち直ることは、奇跡に近いことを知っておくべきではないでしょうか。
 

 

 

■ バックナンバー

 これまでの経営四字熟語のバックナンバーをブログで見られるようにしました。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi-kyokai/c/519a7840abf5dcf643227ecff6b01cef

 

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■【心 de 経営】 経営四字熟語015 起死回生  手遅れになる前に企業の健康診断

2021-01-15 05:46:00 | 【心 de 経営】 経営四字熟語

■【心 de 経営】 経営四字熟語015 起死回生  手遅れになる前に企業の健康診断■ 

本

■ 示唆の多い経営四字熟語

 四字熟語には、いろいろな示唆がありますので、経営やコンサルティングを学ぶという視点で連載をします。

 四字熟語というのは、漢字4文字で構成された熟語で、中国の故事などに基づくだけではなく、幅広い内容を持っています。
 読み方を変えますと、別なものが見えてきます。それを経営コンサルタント歴40年余の目で見ますと、経営やコンサルティングに直結する示唆の多いことに気がつきました。 単に、四字熟語の意味を知るだけではなく、経営士・コンサルタントの視点から感じ取ったことをご紹介します。

 

■  起死回生 (きしかいせい)   手遅れになる前に企業の健康診断


 起死回生は、回生起死とも起死再生ともいい、いまにも死にそうな人を生き返らせることです。

  私たち、経営士・コンサルタントは、平素はあまり見向きもされないことが多いのですが、いざ、手形が落ちない、とか、大手企業からの契約を打ち切られそうだ、といった、切迫した事態に陥ったときに、駆け込み寺として利用されることがしばしばあります。

  しかし、手遅れのことが多いのです。

  病人でも企業でも、重大な局面に陥ってしまうと手の打ちようがないことがあります。人間ですと、早期診断、早期発見、早期治療ということの重要性が認識されて来ていますが、企業が健康診断を受けたり、コンサルティング依頼をしたりすることはほとんどありません。

  経営が安定しているときに、企業が健康診断を受けることをお薦めします。企業がうまくいっているからといって安心していますと、人間ドックにはいったときにガンが発見されるように、企業が病にかかっていることがしばしばあります。

  「手形が落ちない。絶体絶命!!」という状況になる前に手を打っていますと、大過なくその状況を回避することができることがしばしばあります。そのために、手前味噌になりますが、企業も「かかりつけ医」すなわち経営士・コンサルタントを顧問として持つべきなのです。

  また、われわれが人間ドックに入るように、年に1~2回は最低でも健康診断を受けましょう。企業の健康診断の方法はいろいろありますが、その代表的なのが「ビジネスドック」です。ビジネスドックは、プロの経営士・コンサルタントから受けるのが普通ですが、その手法を習得すると自分達だけでも実施することができます。

  企業の健康診断だけではなく、経営戦略を見直したり、問題解決をしたり、経営理念を再構築したりと、用途は広く、効果が大きいのが特徴です。幹部研修や管理職研修を受講すれば、その手法を社内で利用できるようになり、目的に応じてビジネスドックを実施できます。

  企業経営者・管理職とお話しているとしばしば「うちは顧問税理士がいるから経営士・コンサルタントのお世話にならなくても大丈夫です」ということを聞きます。税理士の先生の中には有能な先生もいますので、そのような顧問の先生がいる企業では経営士・コンサルタントは不要かも知れません。

  しかし、一口に経営士・コンサルタントといっても、専門分野がいろいろとあります。脳の病気の時に、内科の先生に手術をしてもらうよりは、脳外科の先生の手術を選ぶでしょう。士業も同じで、「餅は餅屋」なのです。

  「経営士・コンサルタントの顧問料は高い」と思い込んでいる人が多いですが、「投資対効果」を考えますと決して顧問料は高くはありません。「家庭医」「かかりつけ医」を持つように気軽に経営士・コンサルタントをビジネスブレインの一人として受け入れましょう。

 「起死回生」
 倒産しかけている、絶望的な絶体絶命の状態から立ち直ることは、奇跡に近いことを知っておくべきではないでしょうか。
 

 

 

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