■【きょうの人】 0101 ■聖徳太子 ■ 鉄眼道光 ■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及
独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。
そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。
■ 聖徳太子
しょうとくたいし
敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))
「聖徳太子」は、後世の諡号で、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)といい、飛鳥時代の皇族・政治家です。用明天皇の第二皇子として生まれ、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女です。
推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を積極的に取り入れました。
冠位十二階や「和をもって貴しとなす」ではじまる十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立に功績があったといえます。また、仏教を取り入れ、神道とともに厚く信仰し興隆につとめました。
大阪の四天王寺を建立し、療病院施薬院、悲田院を設け、社会事業の鏑矢をなしたことは注視すべきことです。
聖徳太子は、天皇にならなかった著名な皇族の一人です。
毎月22日は、処々で大師会とか太子講と称して法会が営まれます。4月15日は「聖徳太子祭」として、わが国の「文化の祖」と言われる聖徳太子を奉賛する祭日です。
聖徳太子は、一度に十人の人の言葉を聞き分けたという伝説があります。その真偽は別として、ビジネスパーソンには「複々線思考・行動」が必要と考えます。
私達の多くは、毎日、複数の業務や作業などを並列的に進めて行かなければなりません。列車が単線上を、並んだ順に走るのではなく、複線や複々線上に異なった列車という業務等に取り組まなければなりません。
優先順位が高い業務は、専用線上を走らせたり、他の業務を停車させたり、それを追い越していくこともあります。
聖徳太子のように一時に多数の業務をすることができなくても、PDCAをキチンと回すことにより複々線思考・行動をすることは可能ですし、それが求められています。
■ 鉄眼道光
正字: 鐵眼道光(てつげん どうこう)
寛永7年1月1日(1630年2月12日) - 天和2年3月22日(20日説あり)(1682年4月27日)
江戸時代前期の黄檗宗の禅僧、諡号は宝蔵国師。
肥後国益城郡守山村(現・熊本県宇城市)に生まれ、13歳で出家しました。明暦元年、隠元や木菴に学びました。
大蔵経の観光のために全国行脚を行い、1678年(延宝6年)に完成しました。宇治黄檗山に法増員を立てて、その木版を貯蔵しました。
その後、金禅寺(大阪府)、海蔵寺(東京都)など7か寺を開くなどの功績もあります。
■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及
いっこう しゅんしょう
暦仁2年1月1日(1239年2月6日)- 弘安10年11月18日(1287年12月24日)
鎌倉時代の僧侶で、伝記に謎が多く、生没日も定かでなく、実在すらが疑問視されていましたが、考古遺物により、存在が証明されました。
伝承によりますと、筑後国西好田(福岡県久留米市か)の鎮西御家人草野氏の草野永泰の第二子に生まれたとあります。
俊聖(一向上人)は、寛元3年(1245年)に、播磨国の書写山にある圓教寺に入寺して天台教学を修めることとなり、建長5年(1253年)に剃髪受戒して名を俊聖としました。
翌年夏には書写山を下り、奈良の興福寺、鎌倉の蓮華寺(光明寺)をはじめ各地を遊行回国し、踊り念仏(踊躍念佛)、天道念仏を修し、道場を設けるまでに至りました。
一遍と並んで浄土系遊行聖となり、各地を回り踊り念仏を広めました。
弘安七年、近江蓮華寺を立てて開基となりました。49歳で同寺で最期を迎えたといわれています。
■ 慈昌 (源誉存応)
じしょう
天文13年1月10日(1544年2月2日)- 元和6年11月2日(1620年11月25日)
安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土宗の僧でえ、号は貞蓮社源誉存応、武蔵国多摩郡由木の出身です。
初め武蔵国新座郡の時宗大平山法台寺の蓮阿に師事して出家、一遍の法流を伝えました。
1561年(永禄4年)岩瀬大長寺の存貞に従って浄土宗に改宗し、その後武蔵国川越蓮馨寺をへて、1574年(天正2年)与野長伝寺を開創し、1584年(天正12年)には江戸増上寺の12世となりました。
1590年(天正18年)徳川家康の関東入部にともない師檀の関係を持ち、増上寺は徳川家の菩提寺となりました。
1598年(慶長3年)増上寺の寺地を現在の芝(東京都港区)に移して、家康の手厚い保護のもと京都知恩院とともに浄土宗の名刹となりました。
浄土宗法度や浄土宗関東十八檀林制度の議に参加し、また紫衣の綸旨を賜っています。また、「普光観智国師」の号を贈られました。
現在、増上寺山内塔頭に「観智院」があります。
■ 高田屋 嘉兵衛 江戸時代後期の廻船問屋でロシアに抑留
たかたや かへえ
明和6年1月1日(1769年2月7日)- 文政10年4月5日(1827年4月30日)
江戸時代後期の廻船業者、海商で、ロシアに抑留されるも、ゴローニン事件を日ロ交渉の仲立ちをして解決に導く功績があります。
淡路島で生まれ、幼名は菊弥です。兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出します。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献しました。
ゴローニン事件とは、当時、日本の対ロシア感情は極めて悪化していたことに起因しています。
文化8年(1811年)、ロシアの軍艦ディアナ号が千島列島の測量を行っていました。その首領がヴァーシリー・ゴローニンです。国後島の泊に入港した際、厳戒態勢下にありました国後陣屋の役人が捕えらえ、松前で幽閉した事件です。
函館山の麓、高田屋屋敷跡を通る高田屋通(護国神社坂)のグリーンベルトに嘉平の銅像が建っています。
◆ 【きょうの人】 バックナンバー
歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。
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【 注 】
【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。