■【きょうの人】 0110 ■ 臨済 臨済宗の開祖 ■ 福沢諭吉生誕 ■ 島村抱月 新劇運動の先駆者 ■ 尾崎 紅葉 明治の文豪 泉鏡花ら後進を育成
独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。
そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。
■ 臨済 臨済宗の開祖
臨済義玄(臨濟義玄、りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師
?-867年
1月10日(?~867年:咸通(かんつう)8年)は、臨済宗の開祖である臨済義玄の入滅日です。
臨済は、諡号を「彗照禅師」といい、中国唐に生まれました。処々を廻り、経論を探り、戒律を究めた人です。
臨済宗は、曹洞宗、日本達磨宗、黄檗宗、普化宗とともに日本の禅宗の一つです。
歴史的にみますと、臨済宗は鎌倉幕府や室町幕府との結び付きが強く、室町文化は臨済宗の文化と言っても良いほど大きな影響を与えました。
京都五山も鎌倉五山も、全て臨済宗の寺院で占められていることからも臨済宗が強かったことがわかります。
戦国時代に入りますと衰退気味となりましたが、江戸時代に白隠禅師によって再建されました。
臨済宗の特徴の一つが、法嗣という師匠から弟子へと悟りを伝達することで、今日にまで受け継がれてきています。
【Wikipedia】臨済(りんざい)
当初、経論を学ぶも満ち足りず、禅宗へ転向して黄檗希運に師事し、いわゆる黄檗三打の機縁で大悟した。
その後河北省の有力軍閥である成徳府節度使王紹懿(禅録では王常侍)の帰依を受け、真定府の臨済院に住み、興化存奬を初めとする多くの弟子を育て、北地に一大教線を張り、その門流は後に臨済宗と呼ばれるようになった。
その宗風は馬祖道一に始まる禅風を究極まで推し進め、中国禅宗史の頂点を極めた。その家風は「喝」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、徳山の「棒」とならび称され、その激しさから「臨済将軍」とも喩えられた。
【歴史に学ぶ経営】 ウラを取れ
臨済義玄は、中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖です。
深く仏教を好み、諸方に遊び博く、経論を探り、最も戒律を究めた人です。
彼の言行は、弟子の三聖慧然によって「臨済録」としてまとめられています。
「語録の王」というあだ名がつくほど、いろいろな言葉を残しているようです。
人の上に立つ人や経営コンサルタントなど、変革を定着させ、企業の成長を願う人は、「口癖を持つ」ということが大切だと考えます。
私事で恐縮ですが、「ウラを取れ」というのが私の口癖言葉のひとつです。
物事というのは、多面性を持っています。噂を鵜呑みにして、それを真実だと思い込んでいる人が多いです。
あるビジネスパーソンが、濡れ衣を着せられ、左遷されることになりました。
というような話は、三文小説にもよく出てきますが、そのきっかけが根も葉もない噂であったなどというのもざらにあります。
私達経営コンサルタントは、顧問先の社員さんからヒアリングをし、それを経営アドバイスの材料にすることがあります。
その中には、フェイクもあれば、推量もあり、その人の個人的な見解であることもあります。これらをそのまま判断材料にしては、アドバイスの方向が間違えてしまうことがあります。
そのために「ウラを取る」とか「現場百遍」という、刑事物語に出て来る言葉を、経営現場で私は使います。
■ 福沢諭吉生誕
福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)は、天保5年12月12日(1835年1月10日)に中津でうまれ、明治34年(1901年)2月3日に亡くなりました。
諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が「上諭条例」(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に、彼が生まれたことにあります。
武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者ですが、慶應義塾の創設者であることはよく知られています。慶應義塾だけではなく、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、神戸商業講習所(後の神戸商業高校)、土筆ヶ岡養生園(後の北里研究所)、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力しました。
ジャーナリストとしての一面も持ち、大隈重信、伊藤博文、井上馨という政府高官3人と会見し、公報新聞新聞『時事新報』を創刊することになりました。東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長も務めています。
安政元年(1854年)、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学んだり、大阪適塾で頭角を現し、江戸に出てからは蘭学塾の講師を務めたりしています。この蘭学塾では、佐久間象山の影響も受け、洋式砲術の教授を受けたりしています。
諭吉が横浜に出かけた折、オランダ語が全然通じないことから、英語の習得に力を入れたという有名な逸話があります。
咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、勝海舟らと咸臨丸に乗り、渡米しています。
文久元年(1861年)に中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚し、その年の冬、竹内保徳を正使とする文久遣欧使節が欧州各国へ派遣されるとき、翻訳方としてこれに同行することとなりました。
これらの功績が認められ、昭和59年(1984年)に一万円紙幣表面の肖像に採用されていることも知られています。
明治31年(1898年)に脳溢血で倒れ、明治34年(1901年)脳溢血が再発し、2月3日に東京で、享年67(満66歳没)の生涯を閉じました。7日には衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福沢諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議しています。葬儀では三田の自邸から麻布善福寺まで1万5000人の会葬者が葬列に加わったという記録が残っています。諭吉の功績や人徳が偲ばれます。(【Wikipedia】をもとに作成)
■ 徳川綱吉
とくがわ つなよし
正保3年1月8日(1646年2月23日)-宝永6年1月10日(1709年2月19日)
徳川綱吉は、犬公方と呼ばれる江戸幕府の第5代将軍です。
慶安4年(1651年)4月、三兄の長松(のちの徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられました。同月には家光が死去し、8月に長兄の徳川家綱が将軍宣下を受けました。
寛文元年(1661年)8月、上野館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となりました。12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称され、徳川姓を名乗りました。(館林徳川家の創設)。
館林藩主となりましたが、綱吉は、基本的に江戸在住であって家臣の8割も神田の御殿に詰めていました。
延宝8年(1680年)5月、家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け、五代将軍となりました。
綱吉は、堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後高田藩の継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出しました。それまで、「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落した、将軍権威の向上に努めました。
また、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらい、荻原重秀もここから登用されています。外様大名からも一部幕閣への登用がみられるなど、政治手腕は、犬公方とさげすまされるのとは逆の評価も得られています。
この頃から有名な生類憐みの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになりました。
犬公方と呼ばれるようになったのは、当時の江戸では辻斬りや動物虐待の庶民の生活を見て哀れんだ上、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して、生類発布しました。それが、悪評を呼ぶ理由のひとつが、自分の考えをキチンと周囲に伝えないがために誤解されたことによるものです。どうやら綱吉は、心の優しい人だったようです。
一方で、側用人を重用しすぎて、忠臣蔵で語られるようなことも行っています。
綱吉は。宝永6年(1709年)1月10日に成人麻疹により、享年64歳で死去し、上の寛永寺に静かに眠っています。
http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/taitouku-uenokouen03.htm
■ 尾崎 紅葉 明治の文豪 泉鏡花ら後進を育成
おざき こうよう
1868年1月10日(慶応3年12月16日)- 1903年(明治36年)10月30日
江戸時代に生まれた、明治時代の小説家で、本名は徳太郎といいます。「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持っています。
1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊しはじめました。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称されて「紅露時代」を築き、明治期の文壇の重鎮といえます。
1897年(明治30年)から『金色夜叉』の執筆を始めましたが、未完のまま没してしまいた。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた門下生を育ててました。
小説だけではなく、俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称されました。
■ 島村抱月 新劇運動の先駆者
しまむら ほうげつ
1871年2月28日(明治4年1月10日)- 1918年(大正7年)11月5日
日本におけます新劇運動の先駆けの一人として知られています。旧姓は佐々山、幼名は瀧太郎です。
イギリスのオックスフォード大学とドイツのベルリン大学に留学しました。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、「早稲田文学」誌を復刊(第二次)し、主宰しています。
1906年(明治39年)には、坪内逍遥とともに文芸協会を設立、1909年(明治42年)には協会附属の演劇研究所において本格的に新劇運動をはじめ、芸術の拠点である「芸術倶楽部」(東京都新宿区)を創設しました。
芸術倶楽部跡、終焉の地(写真)
http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/shinjukuku-kagurazaka/shinjuku-kagurazaka15.htm
しかし1913年(大正2年)に妻子ある抱月と研究所看板女優の松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となったことで逍遥との関係が悪化、これで抱月は文芸協会を辞めることになり、須磨子は研究所を退所処分となりました。
同年抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成。1915年(大正4年)、須磨子とともにロシア帝国のウラジオストクを訪れ、須磨子とロシアの劇団との合同公演をプーシキン劇場で行い大好評を博しました。
◆ 【きょうの人】 バックナンバー
歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。
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https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281
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https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e
【 注 】
【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。