入試の季節である。共通一次試験の受験者数は49万人だったそうだ。私にも高校、大学と受験生の孫が二人いるので他人事とは思えない。昔、私が受験生だった時代にも競争はあったが、そのころの受験の歯車はシンプルで今よりゆっくりと回っていた。
中学生の時にはまだ偏差値という物差しは使われず、学校が行う実力試験の学内順位で受験先を振り分けていた。団塊の世代だから一学年で600人以上の生徒がおり、私は3年16組だった。志望校を決めたのは1月も下旬になってからである。
県立高校に入ると旧制高校の寮歌を元歌にした応援歌を歌わされた。また個々の教員を茶化した数え歌(表立っては歌えないが、先生たちも知っていた)も伝承されていて、少し背伸びをしたような気分になった。「克己・盡力・楽天」という古めかしい校訓も大人への自立を促していた。
当時、校庭の一隅に風変わりな施設があった。平屋建てのプレハブ学舎に、卒業したはずの先輩たちが私服で通って来る。名付けて時習館。頭に校名がつく。大学受験の結果が思わしくなかった卒業生のための学校併設の予備校だった。他校出身の塾生も受け入れていたようだ。講師陣は高校教師の経験者だと聞いたが、母校の現役教員が出入りするのを見たことがある。ある時、新聞部の先輩に進学希望はどこですかと尋ねたら「時習館たい」という答えが返ってきたものだ。
こうした予備校を持つ一方で、在校生の受験指導はのんびりしていた。進路希望調査があったのは3年生の5月になってからである。朝の補講があったようにも思うが、私は私学志望で受験科目が少なく受けた記憶がない。進学先の報告だけは求められた。塾にも通っていなかったので、受験勉強は独学である。志望校に受かるかどうかの瀬踏みは、その大学の入学試験の過去問題をまとめた赤本が頼りだった。
受験戦争などという物騒な言葉が使われだしたのは、大学に入った後だったと思う。その頃、高石友也の「受験生ブルース」が大ヒットした。都会ではよほど競争が激しかったのだろう、社会風潮を煙に巻いたような歌ではあった。
受験生ブルース(高石友也)
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