稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

葬儀

2006年03月11日 | つれづれ
母方の伯父が亡くなった。昭和元年生まれの数えで82歳だった。父より2年下、母より2年上である。祖父と祖母の間には、男、女、男、男、男の5人の子供があって、男だけ下から順番に亡くなっている。一番下の四男叔父は小生の生まれる何年も前、四男叔父が学生の時に亡くなったので会った事は無い。肺結核で今なら死ぬことなどなかったろう。頭が大変良くて将来が楽しみな若者だったらしい。三男叔父は肺癌で亡くなった。大学卒業後に金属商社に入社しかなりのやり手だったと聞く。晩年は次男叔父の事業を手伝っていた。この三男叔父は比較的小生と年が近いため叔父と言うより「頼りになる兄貴」という存在だった。兄弟喧嘩で殴り合って手が付けられないような時は母が三男叔父にSOSを出した。三男叔父は飛んで来て理由も無くボカンと一発かまされたものだ。言い訳や屁理屈には容赦の無い叔父だった。亡くなった年は64歳。運動が嫌いで煙草と酒が好きで若い頃は随分無茶もしたらしい。亡くなる1年前まではよく我が家に来ては食事を共にし色々な話やアドバイスをくれてた。この三男叔父の葬儀は本当に心から泣いた。その上の次男叔父は若い頃から苦労して事業を立ち上げ成功し市会議員を4期も務めあげた。祖父は銀行員あがりの奈良市の市会議員だったがその意思を継いだのだろうか。事業も順調でお金もあったので小さい頃は旅行に何度も連れていってもらった。北陸、山陰、和歌山、琵琶湖・・・、毎年のように泊りがけで泳ぎに行ったものだ。亡くなる前年にも「これが最後かも」という気持ちで我々が企画し次男叔父が金を出し親戚一同で大型バスを借りて川湯温泉に行った。畑作業が好きな次男叔父で自宅の敷地内の畑だけでなく奥さんの実家(植木造園業+農業)の畑も借り本業顔負けのような畑を作っていた。約2年間、この畑作業を手伝い我が家には新鮮な野菜がふんだんに出ることとなった。畑作業のあとで次男叔父と長男叔父とでビールを飲みながら昼飯を食う日曜日が続いた。時々母も入り短いけど楽しい休日の昼食であった。時には小生の仕事上の悩みなど聞いてもらったものだ。次男叔父は若い頃煩った胃潰瘍の際の輸血が原因で肝硬変になり、それが肝臓癌を引き起こして亡くなった。長男叔父は大学卒業後に産経新聞社に勤め滋賀や奈良の支局長を勤め上げた。昨年の夏の次男叔父の三回忌で会った時に全員で支えて歩いたほど弱っていた。もしやすると長くはないかもと思ったがしばらくして自宅で倒れ入院。40年間も糖尿病だったので床擦れがひどかったらしい。顔は祖母似だったが死んだ顔は祖父にそっくりだった。そして、とうとう母だけが残ってしまった。母方の兄弟は全員体格が良く若い頃は全員が揃うと壮観であったのを思い出す。長生きは細くて小さい者のほうが有利なようだ。叔父たちは身体のごとく太く短く生きてきたのだろう。ちなみに父を含めて父方はちっちゃく貧相でみな長生きだ。葬儀での母は随分と小さく見えてしまった。葬儀の帰りには小生の車に乗ってもらって家まで送って行った。亡くなった母の兄弟達の分まで長生きして欲しい・・・そう心に念じながら送っていった。
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