〇句読点について
ここで改めて、おさらいしておきましょう。句は文中で、ことばの切れる所。読(トウ)は句の中の切れ目に点をつけて、読むのに便利にした所。句点には「。」読点には「、」をつけますが、わが国の文章には欠くことの出来ないもので、若しこれをつけなかったら大変読みずらく、又あやまった解釈をされることもあります。ここに笑うに笑えぬ昔の有名な話がありますので、次に書いておきます。
一代の浄瑠璃作者、近松門左衛門の所で、心安い珠数屋が訪ねて来た時、門左衛門が、たんねんに、自作の浄瑠璃の文に句読点をつけているのを見て、「漢文でもあるまいに、読めば誰でもわかりそうなものを、さてさて余計な手数をかけることじゃ」と、さもおかしそうに、つぶやいたものです。近松は、これを聞いて別に気にかけるふうもなかったが、数日たって、数珠屋に“ふたえにまげてくびにかけるようなじゅず”をこしらえて貰いたいと手紙で註文しました。数珠屋は承知したと、早速作ったのは、二重に曲げて、首にかけるような、ずいぶん長い数珠で、念を入れて作ったので、見事な出来ばえでした。
使いの者に届けさせると、門左衛門、一見するなり、手にもとらず、「折角だが、これは註文書と違うておる。主人に申して、是非とも註文書通りの品を届けて貰いたい」との挨拶でした。使いの者は帰って、主人にそのまま伝えると、主人は不審に思って、もう一度注文書をよく見ると、やはり間違いないので、主人はかんかんに怒って、証拠の註文書を握って、「あんたが註文書を、じきじきに書かれたくせに、品物にケチをつけて返されるとは、もっての外でございますぞ」と註文書をつきつけました。
ところが門左衛門は落ち着いたもので、『まあ気を落ち着けて読んで見やれ、“二重に曲げ、手首にかけるような珠数”と、ちゃんと註文してある筈じゃ、二重に曲げて、首にかけるような長いものは、巡礼でもござるまいにし、不要じゃ、不要じゃ』と突っぱなしました。主人は、そこではじめて、句読点の大切なことを悟って恐縮したという話です。
次にこの句読点の近代版を申し上げます。昭和63年1月13日(水)の大阪新聞に清風高の校長、平岡英信先生が、“正確に書こう「カタカナ」。”“間違いを正し、クセ直せ。”“句読点忘れは減点の対象。”という題目で、受験生諸君へ、いまから伸びるためにと、大切なことを載せられましたが、大変勉強になりますので、謹んで転載させて頂きます。
“入学試験の答案を見ていて、気づいた点を二、三あげておこう。最近の入試では、記号で答えさせる問題が目立つ。ところが記号としての「カタカナ」が正確に書けていない答案が多いのに驚かされる。例えば「アとマ」。「カとヤ」、「シとツ」、「ヤとア」、「ンとソ」、「アとヌ」、「スとヌ」など、実にまぎらわしい「カタカナ」が多いのだ。
入試の採点者は、これらの文字を善意には判読してくれない。「カタカナ」が正しく書けないというのは入試では、致命傷となるだろうが、これは単に試験だけのことではない。将来、社会に出ても大変に困ることがおこる。だから、このさい「ア・イ・ウ・エ・オ」は正確に書けるようになってほしい。「ア・イ・ウ・エ・オ」の「カタカナ」を一覧表にして、先生やご両親に見てもらい、間違っているところは正しく覚え、悪いクセを直してもらいたいのである。文字の書き方で、悪いクセがしみ込んでしまうと、知らず知らずのうちに、そのクセが出る。
以下続く
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