私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「二十一」って、日本書紀の計算間違いでは?????・

2019-10-14 08:48:57 | 日記
 古事記によると「安寧天皇」は

         “肆拾玖歳<ヨソデマリ ココノツ>”
 
 で逝去されております。<ヨソデマリココノツ>とは49歳です。それが書紀には

         “天皇崩。時年五十七”

 とあります。
 ここでも「49」と「57」の差異があり、安寧が皇太子になった時も、書紀によると、綏靖の二十五年に皇太子になり、歳が二十一歳だったと記されております。
 しかし、この「21」と云う数字も間違っており、本当は「十一」が正しいのです。
 其の理由ですが、日本書紀にある

      “磯城津彦玉手看の天皇  安寧天皇”

についてですが、

 「天皇、神渟名川耳の天皇の二十五年に、立ち皇太子と為りたまひき。年二十一にましましき。三十三年の夏五月神渟川耳の天皇崩りましき。・・・三十八年の冬十二月、天皇崩りましき。時に年五十七にましましき。」

 とあります。
 「安寧」は「綏靖」の25年に皇太子となり8年間その地位にあり、38年間天皇の位に付いていました。そうすると、その間は(8+38=)46年です。「綏靖」は57歳で崩御されていますので、皇太子になったのは「御年十一年」と云うのが正しいはずですが、どうしてかは分からないのですが、「二十一」と云う数字が書かれております。
 この辺りにもこの天皇も「欠史八代」の一人に数えられている所以があるのではないでしょうか???