古事記によると「安寧天皇」は
“肆拾玖歳<ヨソデマリ ココノツ>”
で逝去されております。<ヨソデマリココノツ>とは49歳です。それが書紀には
“天皇崩。時年五十七”
とあります。
ここでも「49」と「57」の差異があり、安寧が皇太子になった時も、書紀によると、綏靖の二十五年に皇太子になり、歳が二十一歳だったと記されております。
しかし、この「21」と云う数字も間違っており、本当は「十一」が正しいのです。
其の理由ですが、日本書紀にある
“磯城津彦玉手看の天皇 安寧天皇”
についてですが、
「天皇、神渟名川耳の天皇の二十五年に、立ち皇太子と為りたまひき。年二十一にましましき。三十三年の夏五月神渟川耳の天皇崩りましき。・・・三十八年の冬十二月、天皇崩りましき。時に年五十七にましましき。」
とあります。
「安寧」は「綏靖」の25年に皇太子となり8年間その地位にあり、38年間天皇の位に付いていました。そうすると、その間は(8+38=)46年です。「綏靖」は57歳で崩御されていますので、皇太子になったのは「御年十一年」と云うのが正しいはずですが、どうしてかは分からないのですが、「二十一」と云う数字が書かれております。
この辺りにもこの天皇も「欠史八代」の一人に数えられている所以があるのではないでしょうか???
“肆拾玖歳<ヨソデマリ ココノツ>”
で逝去されております。<ヨソデマリココノツ>とは49歳です。それが書紀には
“天皇崩。時年五十七”
とあります。
ここでも「49」と「57」の差異があり、安寧が皇太子になった時も、書紀によると、綏靖の二十五年に皇太子になり、歳が二十一歳だったと記されております。
しかし、この「21」と云う数字も間違っており、本当は「十一」が正しいのです。
其の理由ですが、日本書紀にある
“磯城津彦玉手看の天皇 安寧天皇”
についてですが、
「天皇、神渟名川耳の天皇の二十五年に、立ち皇太子と為りたまひき。年二十一にましましき。三十三年の夏五月神渟川耳の天皇崩りましき。・・・三十八年の冬十二月、天皇崩りましき。時に年五十七にましましき。」
とあります。
「安寧」は「綏靖」の25年に皇太子となり8年間その地位にあり、38年間天皇の位に付いていました。そうすると、その間は(8+38=)46年です。「綏靖」は57歳で崩御されていますので、皇太子になったのは「御年十一年」と云うのが正しいはずですが、どうしてかは分からないのですが、「二十一」と云う数字が書かれております。
この辺りにもこの天皇も「欠史八代」の一人に数えられている所以があるのではないでしょうか???