第六代天皇は古事記では
“大倭帯日子国押人命<オホヤマトタラシヒコクニオシビトノミコ>”
です。此の天皇も「孝安<コウアン>天皇」と呼ばれておりますが、この名前は、後に付けられた中国風(漢様)の諡<オクリナ>です。日本書紀にも「孝安」と言う字はありません。何時頃から使われだしたのか分かりませんが、今では、この後の世に付けられた名前が一般的に成っているのです。
なお、この「天皇」と言う言葉が初めて古事記に表れたのは、「イハレヒコ」が「イスケヨリヒメ」と初めて出会ったときに
“以歌白於天皇曰<ウタモテ スメラミコトニ モヲシケラク>”
と書かれている所です。これ以後、普通に<スメラミコト>として使われます。しかし、漢様の諡が付けられてからは「スメラミコト」が<テンノウ>と言う呼び方に変化しています。
「大倭帯日子国押人命」については、たった90字ほどで簡単にその生涯が記されております。しかし、その年齢はなんと「欠史八代」の天皇としては一番長く123歳で亡くなられております。
少ない説明の中に、天皇の御子
“大吉備諸進命<オオキビノモロススミノミコト>”
がおられますが、この吉備と言う字から、我地方「吉備」と深く係りのある天皇ではないかと思われるのですが、いかなる関係があるは何の説明もなく分かりません。
これについて、宣長は、「孝霊天皇の御子「イサレリヒコ」と混同したのでは」と説明してありますがどうでしょうか??????わたしは「イサセリヒコ」とは全くの別人で、吉備と何かこの天皇も大いに係わりがあったのではないかと思っているのです。その証拠はありませんが・・・・この時代もまだ吉備が光っていた時代ですから、なんとなくそんな気がしてならにですが。
日本書紀には、此の「大吉備諸進命」はありません、蛇足ですが。
“大倭帯日子国押人命<オホヤマトタラシヒコクニオシビトノミコ>”
です。此の天皇も「孝安<コウアン>天皇」と呼ばれておりますが、この名前は、後に付けられた中国風(漢様)の諡<オクリナ>です。日本書紀にも「孝安」と言う字はありません。何時頃から使われだしたのか分かりませんが、今では、この後の世に付けられた名前が一般的に成っているのです。
なお、この「天皇」と言う言葉が初めて古事記に表れたのは、「イハレヒコ」が「イスケヨリヒメ」と初めて出会ったときに
“以歌白於天皇曰<ウタモテ スメラミコトニ モヲシケラク>”
と書かれている所です。これ以後、普通に<スメラミコト>として使われます。しかし、漢様の諡が付けられてからは「スメラミコト」が<テンノウ>と言う呼び方に変化しています。
「大倭帯日子国押人命」については、たった90字ほどで簡単にその生涯が記されております。しかし、その年齢はなんと「欠史八代」の天皇としては一番長く123歳で亡くなられております。
少ない説明の中に、天皇の御子
“大吉備諸進命<オオキビノモロススミノミコト>”
がおられますが、この吉備と言う字から、我地方「吉備」と深く係りのある天皇ではないかと思われるのですが、いかなる関係があるは何の説明もなく分かりません。
これについて、宣長は、「孝霊天皇の御子「イサレリヒコ」と混同したのでは」と説明してありますがどうでしょうか??????わたしは「イサセリヒコ」とは全くの別人で、吉備と何かこの天皇も大いに係わりがあったのではないかと思っているのです。その証拠はありませんが・・・・この時代もまだ吉備が光っていた時代ですから、なんとなくそんな気がしてならにですが。
日本書紀には、此の「大吉備諸進命」はありません、蛇足ですが。