私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

日本書紀には続けられます・・・

2020-05-13 10:05:13 | 日記
     “戊寅 亦移居於葉田”

 と書かれています。この「戊寅」というのは応神天皇の「二十二年秋九月十一日」だと解説があります。すると、応神天皇が吉備に帰った愛妃「兄媛」に逢うために、「小豆島に狩りする」と称してに難波の津を旅だったのが秋九月丙戌(六日)です。その年の夏四月に兄媛が吉備に旅立っていますから別れてから半年後に旅立っておることになります。
 このように何を根拠としたのかわかりませんが、詳しい数字が書かれております。船旅の時間2、3日を入れると如何に応神がその旅を急いだかということがよくわかります。

 とにかくも兄媛のいる吉備の国の
                   ”葉田<ハダ>”
                           に到着します。
 そこに兄媛の両親がいたのでしょう。考えられるのは、兄媛の親は吉備の首長だたのでしょう。その屋敷が”葦守宮”と呼ばれていた大変大きな屋敷でした。そこは先にも書いた「吉備の津」近くにあったのではと思われます??????。
 その大きな吉備の首長の屋敷ですから大勢の人たちに囲まれた大変大きな家だったのではと想像がつきます。<ハダ>とは「秦」と関係があり、中国から移り住んだ大層高い文明を持った人達がいる、当時の日本では最も文明の発達していた土地だったのです。
 なお、この応神の吉備への行幸も、名目は、「兄媛に逢いたい。」ということだったのですが、本当は、当時、日本の最高の文明国「吉備の国」を己のというよりも、天皇の勢力下に置きたいというのが主目的ではなかったのではないでしょうか???私は、そのように、この吉備への行幸を読み取っております。