「吉備津神社記」は、主に、日本書紀からの資料を基にして編成されていますが、中には、古事記にある
"大吉備津彦命與若建吉備津日子命。二柱相副而。於針間冰河之前。居忌瓮而。針間為道口以。言和吉備国也”
から、その時代的なことは無視して
「・・・されば、命御兄弟が、この方面に向はせらるるを見奉るに、警戒おさおさ怠りなく、その播磨に到らるるや、ここを吉備の道口と定め、氷河の畔に忌瓫 を居えて軍神を祭り給ひぬ。・・・」
と書かれ、更に続けて
「かくて、大吉備津彦命御兄弟は吉備国に入り、温羅を平げ、尋いで崇神天皇即位の六十年秋七月には曩に将軍として東海に派遣し給へる武渟河別命と共に、進んで出雲を征し、当時の出雲梟帥たる出雲震根命を討ちてこれを誅し給ひぬ。」
とあります。
この辺りに、古事記と日本書紀との年代的にも聊か食い違った内容をまぜくじゃにして書き表した記述に工夫が見られ、苦労しながら編集しただろう筆者に、何時も、感心しているのです。
"大吉備津彦命與若建吉備津日子命。二柱相副而。於針間冰河之前。居忌瓮而。針間為道口以。言和吉備国也”
から、その時代的なことは無視して
「・・・されば、命御兄弟が、この方面に向はせらるるを見奉るに、警戒おさおさ怠りなく、その播磨に到らるるや、ここを吉備の道口と定め、氷河の畔に忌瓫 を居えて軍神を祭り給ひぬ。・・・」
と書かれ、更に続けて
「かくて、大吉備津彦命御兄弟は吉備国に入り、温羅を平げ、尋いで崇神天皇即位の六十年秋七月には曩に将軍として東海に派遣し給へる武渟河別命と共に、進んで出雲を征し、当時の出雲梟帥たる出雲震根命を討ちてこれを誅し給ひぬ。」
とあります。
この辺りに、古事記と日本書紀との年代的にも聊か食い違った内容をまぜくじゃにして書き表した記述に工夫が見られ、苦労しながら編集しただろう筆者に、何時も、感心しているのです。