私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

御友別が出した食事には・・

2020-05-19 07:25:33 | 日記
  季節は秋九月です。どのような食事を御友別がオウジンに饗したのかは定かではありませんが、ここ「葉田の葦守」は、吉備の穴海にあった当時の高梁川が流れ込んでいた、現在の岡山市北区高松付近にあった港町「吉備津」付近のはずです。海・川・山から採れる豊富な食料品が並べられたはずです。お酒も当然あったはずです。お酒については「万葉集」にも

     "古(いに)しへの 人の食(め)させる 吉備の酒
                           病(の)めば術無し 貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ”

 という歌に詠まれているほど吉備は昔から、弥生の時代からお酒の有名な産地だったのです。
 そのお酒と一緒に並んだ料理についてですが、当時の料理にはどのようなものかあったか、その内容がわかるのは古事記にある、先に、オウジンが近江の国へ旅した時、矢河枝比売に出合って、その家で饗応してもらうのですが、その時の料理に
     ・蟹
     ・椎や菱の実
 などが食膳にあったことが伺うことができます。また同じく古事記に、オウジンが日向から来た「髪長比売<カミナガヒメ>」を自分の妃にした時に出した料理に見える
     ・野蒜
     ・花橘
     ・栗
     ・蒪(じゅんさい>
 もあります。またそのほかに牛肉なども食したということも書かれております。
 なお、お酒ですが、古事記にも「醸す酒」とあり、縄文から存在したことが書かれておりますが、現在のように米から醸造されたお酒は弥生からか???
そのお酒が現在のような製法で造りだされるようになったのは、オウジンの時の例の新羅の「ススコリ」のお酒からですが、でも、応神の母が少年オウジンに飲ませたお酒は???また、矢河枝比売がオウジンに
                "令取大御酒盞而献<オホミサカズキヲ トラシメテ タテマツリキ>”
したお酒は、人の口で咬み砕いた物から造りだしたお酒だそうですが、そお理解すればいいのでしょうかね???

 でもまあ、人々を何か饗応する場合は必ずお酒がつきものでした。この時代のお酒は人の口の中で噛み砕かれ、唾液に含まれている酵素によってデンプンがお酒に変化するのですから、その時代に今流行りの「コロナ」がなくてよかったねとうらやましくも思れるかなです。