私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

取魚<イサナトリ>

2018-07-06 09:01:49 | 日記
 事代主神がミホノサキに行って「鳥遊<トリノアソビ>と

            “取魚<スナトリ>”

 をしており、いまだ帰ってきておりません。とオホクニハ答えます。この「取魚」を<スナドリ>と読よましております。古事記のこの次の段には、

            “為漁”

 と書いて、やはり、これにも、<スナドリ>とルビがふってあります。同じ行為です、海で魚を取っていたのでしょうか???なお。魚を取り事は万葉集の柿本人麻呂の歌に

   “・・・浦はなくとも よしえやし 潟はなくとも いさなとり 海辺を指して にぎたずの・・・・”

 にも見られるのですが、此の言葉は人麻呂は海の枕詞として使っていますが、本来は「いさな」は「鯨」のことで。それは変化して魚のこともいうようになったのです。その「いさな」の「いさ}が「す」になってば古事記では魚を獲ることの意味に使われたらしいのです。

 まあ、宣長風な説明になりましたが、事代主神は「伊那佐之小浜」がら一泊の遊びを兼ねた旅行に行っていたのです。
 どうです。この神様でも、何かストレスがたまっていたのでしょうか、「いさな」「くじら」ですから、一人ではないと思います、仲間の神様と数人で出かけたのでしょう。だから、これも大規模な遊びであったのではないかと考えられるのですがどうでしょうか。なかなか粋な現代風な神様だったのでしょうな「事代主神」は

  この意見どう思われますか???御感想はどうでしょうかね。こんなことが宣長先生は馬鹿らしくて書かれてはいませんが????

その「事代主神」ですが・・・

2018-07-05 11:07:03 | 日記
 丁度、その時、このオホクニの息子「事代主神」は

           “鳥遊取魚<トリノアソビ スナドリ>”

 しに

            “御代之前<ミホノサキ>” 

 に行って、”未還来<イマダ カヘリキタラズ>”で、不在です。
 此処に見える“鳥遊”ですが、「遊」ですが、これは野山海川に出て、鳥を狩りして遊ぶことを云うのだそうです。どこまでも「遊び」です。と云うことは、このオホクニの昔にも神様たちも、随分と、色々な遊びをしていたいたと言うことが分かります。この他、神様のお遊びにはどのような物があったかと云いますと「遊び」としての「猪狩り」もあったように書かれた本もありますし、女性の神様もお遊びしていたと言われております。

      “遊びをせんと生まれけむ”

 は、何も平安時代だけの特権ではなかったのです。神代の昔からあったのだと言う事が分かります。
 なお、「アメノウズメノカミ」の踊りは遊びではありません。アマテラスが岩戸を少し開ける事を願った神頼みの行為です。念のために!!!!。それが元となって「神楽」が生まれたという説もありますが、それは何処までも遊びではなく神事だったのです。

「言」と「事」。なにがどう違う???

2018-07-04 09:20:47 | 日記
  建御雷神がオホクニにアマテラスの言葉を伝えたと時、オホクニは我が子「コトシロヌシ」が返答するでしょうと答えますが、その「コトシロ」ですが、古事記には
               
              “我子八重言代主神<アガコ ヤヘ コトシロヌシノカミ>”

 と書いております。ちょっと変だとは思われません???、そこら辺の経緯については明日詳しくは説明しょうと思っているのですが、タケミカズチの副將アメノトリフネが連れ帰ってきた神の名前は

               “八重事代主神<ヤヘ コトシロヌシノカミ>

 となっております。
 呼び方は同じ<コト>ですが、字が「言」と「事」になっておりますが、これは太安万侶の誤植、過ちなのでしょうかね???これについて、あの宣長先生な何も言及されておりませんが。
 我々が一般的に普通知っていること「コトシロヌシ」の神は「事代主神」ですが。私も、初めて『言』に気付き、今、戸惑っている次第です。????どなたか教えて・・・・・

今日は高松中学校へ

2018-07-03 09:54:15 | 日記
 高松町内の4地区(高松・生石。加茂・吉備津)の夫々の歴史を中学生に教えて、積極的に郷土を愛する人を育てようと言う趣旨で、毎年2回、郷土の歴史の説明に地域の代表者が出向いています。其の順番と云う事で、今回は、私にお鉢が廻ってきました。
 今日私はーマは「高塚遺跡から見える高松の歴史について」と云うテーマでお話します。

 この高松地域には(中学校のある土地)「三手・高塚遺跡」という二〇〇〇年くらい前の弥生時代の人々が生活した場所が遺跡として残されております。もう30年も前に、高速道路(岡山道)建設時に発見され発掘された遺跡です。その時、発見されたものに「貨泉」と云う新の王莽の貨幣があります。その中に刻されている漢字についてあれこれ考えさせたいと出向きます。どうなることかとやや不安な気持ちであります。
  私の持っている春秋戦国時代の貨幣(刀貨や布貨)に書かれた文字などから、当時の此の高松地域の社会構造など説明して、此処に現在を生きる中学生に此の地の歴史の持つ素晴らしさまで考えて、誇りを持って生活してもらいたいと言う思いが伝わればと思っております。

“可白然”・・・さて何と???

2018-07-02 09:32:20 | 日記
 何と読むのでしょうか??

 「モウスベキヲ」

 と読ましております。「当然云うでしょうが」です。「然」は「しかれども」で「然り」(そのとおりである)の已然形に接続助詞{ども」が付いたものですが、モウスベキガシカレドモ」では余りにも漢語的な読み方になるので、それを和語の読み方「モウスベキヲ>としたのだと思います。そらあたりの太安万侶の思いが、この3字の中に一杯に詰まっていて、はっきりと見ることができるのです。

 こ理屈ばかりを並び立ててうれしがっている私をお笑いください