◆仁勝寺木造聖徳太子立像◆
こんにちは。今年度の市民レポーター、「かずさん」こと武田和巳(69才)です。
私は2022年10月までに、市のホームページに掲載されている『甲府市ウォーキングマップ』31地区のコースを歩きブログにまとめました。
引き続き“健康のために甲府の街を散歩しながら、新しい発見をする”を目標に甲府市の魅力をご紹介していきます。
甲府市31地区コースのブログは以下にまとめて掲載されています。是非ご覧ください。
https://blog.goo.ne.jp/portal/tags/%E3%81%8B%E3%81%9A%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E8%A1%97%E6%95%A3%E6%AD%A9
●甲府市ウォーキングマップ
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/kenkoese/kenko/kenko/kehatsu/walking.html
**** 紹介内容 ****
今回は、甲府市教育委員会主催「信玄公没後450年カウントダウン 甲府三ヶ寺特別公開」による「鳳堂山仁勝寺(ほうどうざん にんしょうじ)」の見学報告です。
仁勝寺に安置されている、重要文化財「木造聖徳太子立像(もくぞうしょうとくたいしりゅうぞう)」が一般公開されたので、2022年11月25日(金)に見学してきました。
「木造聖徳太子立像」は撮影禁止ですが、市民レポーターと言う事で、特別に撮影許可を頂きました。
とても貴重な写真が撮れましたので、本堂と合わせてご紹介いたします。
甲府市のホームページにも下記説明があります。
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/bunkazai/004.html
仁勝寺については「かずさんの街散歩vol.30 山城地区」で紹介しているので、下記ご参照ください。
https://blog.goo.ne.jp/kofu-reporter/e/ed78ff1acd4567513610c9893ceb09e7
●仁勝寺本堂
●瑞泉寺の聖徳太子像
甲府市富士川地区の瑞泉寺にある太子堂に、聖徳太子像が安置されています。
詳しくは「かずさんの街散歩vol.26 富士川地区」で紹介しているので、下記をご参照ください。
https://blog.goo.ne.jp/kofu-reporter/e/d157894cb6b939f72da76e3afa174bd6
**** 仁勝寺と木造聖徳太子立像の詳細説明(当日配布資料の転記) ****
●鳳堂山仁勝寺
臨済宗向嶽寺派聖応寺の末寺です。
『山梨県史』『甲府史』には、文明2年(1470年)、武田信満の二男武田右馬助信長が開基したと記しています。武田信長は上総武田氏の祖となった人物です。
開山は一音喝西堂(いちおんかつさいどう)和尚、本尊は聖徳太子像です。
昭和20年の甲府空襲によってお堂は焼失しましたが、住民の協力に支えられ、他寺から移築、再建されました。
本堂の北には昭和31年に奈良法隆寺の夢殿を模した収蔵庫が造られ、本尊を安置しています。
甲府城下から中道往還を使って右左口(うばぐち)に向かうと、この寺で富士の高峰が見えなくなります。(右左口から城下に向かうと、この寺で峰が現れます。)
本尊は、武田の家臣に守られました。しかも、富士と聖徳太子は深いかかわりがあります。武田家の安寧を願いながら当寺に太子像を安置した家臣の心中を物語っているかのようです。
●木造聖徳太子立像(重要文化財)昭和4年4月6日指定
聖徳太子は、没後すぐに救世(ぐぜ)観音の化身(けしん)とされるなど、早くから神格化されます。10世紀初めの『聖徳太子伝略』によって伝記説話が集大成されると、法隆寺(奈良県)で絵伝や童子の彫像などが造られ、信仰が広まります。太子信仰は、鎌倉時代になるとますます盛んになりました。
寺伝によると、仁勝寺の太子立像は、武田家代々が守り伝え、躑躅が崎館(史跡武田氏館・現在の武田神社)内にまつられていました。
天正10年(1582年)、織田・徳川軍の侵攻により戦線維持が難しくなった勝頼が、韮崎の新府城から小山田氏(武田家親族衆)の岩殿城に退避しようとした際、本像を家臣の中沢氏に託します。中沢氏ゆかりの仁勝寺に納められてからは、本尊として、400年以上大切に守り伝えられています。
本像は、聖徳太子16歳の「孝養像(こうようぞう)」と呼ばれ、父である用明天皇の病気平癒を祈る姿と言われています。
檜の寄木造、像高114.5センチの立像です。孝養像には両手で柄香炉(えこうろ)を持つ姿と、左手は柄香炉を持ち右手には笏(しゃく)を持つ姿がありますが、本像は後者です。
頭部は、髪を左右に振り分けて美豆良(みずら)を結い、玉眼がはめ込まれ、袍(ほう)の上に七条の袈裟をまとっています。右肩を横波が覆います。
像の表面には当初の彩色がわずかに残り、截金(きりかね)で内に鳳凰を描く丸文(鳳凰文)を散らし、往時の高い技術と美しさを伝えています。
鎌倉時代後期の作と考えられています。平成19年から同20年に修理されました。
●本堂
桁行三間、梁間四間、向拝一間の入母屋造り。木部は彩色仕上げで、屋根は桟瓦葺きです。旧三珠町(現・市川三郷町)にある薬王寺の毘沙門堂を昭和30年に本堂として移築再建しました。
柱は粽つき円柱で、柱上に二手先斗栱(ときょう)を組み、頭貫(かしらぬき)は木鼻(きばな)を出して台輪をうけます。中備えに蟇股(かえるまた)をおき、四周に軒支輪(のきしりん)をめぐらした構造になっています。
正面中央入口は、二折両開戸をはめ、両脇間には花頭窓(かとうまど)をつくります。両側面は前二間通りを出入口とし、ガラスの引違い戸を入れ、その奥一間通りに花頭窓を設けて、最後一間通りを白壁とします。
両脇に祭壇を備え、位牌を祀ります。中央は空間で太子像を拝む造りになっています。(現在は、鋳造聖観音菩薩立像を祀っています。)
極彩色の竜虎・鳳凰の透かし彫りも見られます。部材などからもとは江戸時代中期の建造物であると推察されています。
**** 見学の感想 ****
2022年8月8日に山城地区を街散歩して、仁勝寺の「木造聖徳太子立像」を一度拝観したいと思っていたら、幸運にも今回拝観する機会に恵まれ、また市民レポーターとして写真撮影もできた事に大感激でした。
聖徳太子立像の袍や袈裟に金を使った截金(きりかね)であしらわれた、鳳凰文や鳳凰模様の技術の高さや、波紋のように彫られた袈裟の美しさ、凛としたお顔立ち、国の重要文化財にふさわしい素晴らしいものでした。
蛇足ですが、聖徳太子は甲斐の黒駒に乗り、空を飛んで富士山を経て信濃まで行き3日で帰って来たという伝説を初めて知りました。甲斐の馬は名馬だそうです。
また、ご住職さんに伺ったお話で、部屋が空っぽの意味で使う「がらんどう」は、「伽藍堂」と書き、伽藍は僧侶が修行する場所の事で本堂などを差し、広い部屋に何もない事から来ているそうです。