市民ブロガーのジョンけけです。
甲府の新米ママたちに捧げるエッセイ書きました。
※エッセイについて詳しくはこちらをご覧ください。
甲府で最近気になる“し”があります。
えーと、尻臼。
って、どんなウスですか。
違います。
シリウス
まるで冬の夜空のダイヤモンド
オオイヌ座のアルファ星。
冬の大三角のひとつ。
青白くきらめくかっこいい王子様
じゃなくて、おほし様です
でも、それは甲府の空だけじゃありません。
だから、やっぱり違います。
正解は・・・下石田二丁目。
~下石田二丁目伝説はここから始まる~
そこには、青くきらめく、かっこいい自動販売機が立ってました
そして、丁寧に教えてくれました。
「ここの住所は甲府市下石田2-1…だぜ」
ありがとうございます。
ですが、二丁目から始まる町なんて、ヘンでしょ
一丁目はどこですか
~ここらでもう下石田は終点間近ってわけなのね~
へぇ。
始めも終りも二丁目とは。
一丁目も三丁目もない。
ちなみに四丁目も五丁目も、そこから先もありません。
だから伝説になる
下石田二丁目、
その北側は、上石田。
東側は、高畑。
南側は、国母。
西側は、中巨摩郡昭和町清水新居。
下石田はありません。
その謎を解くカギは何年か前の区画整理にあり
どうやら、該当地区の整理及びネーミングを進める中で、
なんらかのタイミングのズレが生じたらしい。
結果、一丁目は違うネーミングとなるも、ニ丁目は――、
ひっそりとそのまま残っちゃったってわけです。
こっそり二丁目だけ、って、なんだか、愛らしいです
~他に比べりゃ小さな町だけどちゃんと花も咲いてるんだい!~
自転車で走るとちょうどいい広さ、愛らしい二丁目
垣根の山茶花(さざんか)に陽がさしてました。
~花は悩みがなくていいよな。おいらはちょいと悩んでんだ~
垣根の近くに、ぽっぽっぽっ、と落ちてました。
犬の足跡。
この犬、悩んだに違いない
何を
進路を。
前進後退
足踏みしてますから。
そう言えば、世間もみんなそんな時期ですわ
この犬はいったいどっちへ進んだのでしょう。
きっと、ご主人と共に、
いつもの場所へと進んでいったことでしょう。
いつもの場所へ。あたりまえのように。
~一年て長いようで短いようで、ま、その人次第だけどさ~
寒いようでも、忘れずにしっかり春の準備をしている桜の枝です
やけにくねくねしてました。
くねくねと何を毎年考えてるんだか。
今年、初めて気付きました。
くねくねくねくねくねくね、もうひとつ、くね。
くねくねと、悩んだり迷ったりしたこの一年の道程に、
思いを馳せる季節はもうじきです。
いきなり二丁目
でも、ほかの町とおんなじ顔してるんだ。
一丁目がないからって寂しくなんかないよ。
それが下石田の個性だもん。
ちょっと、一人っ子みたいだなって、自分でも思うけどさ。
――あのね、
いつだって一から始まるなんて油断したらダメだよ。
町名は名前なんだから。
便宜上、一から始めてるってだけ。
“二”は数字じゃないって思ってちょうだい。
二=に。
“に”っていう名前なの。
だから、“しもいしだ にちょうめ”、って呼んでもいいよ。
あら
何も変わってない感じ。
ま、いっか。
思い込みや知識って、
自由な思考力を箱詰めにしちゃうことがあるんだ。
気をつけなくっちゃ。
自由な発想、豊かな想像力
これは、子どもにゃかなわない。たぶん。
だったら、子どもを見習っちゃおうじゃないか。
大丈夫
だれだって、昔は子供だったんだ。
たまには、画用紙の縁なんか取っ払って、
見たこともない色をまき散らそう
空の画用紙に、指の筆で
というわけで、今回の “し”で始まる花は、
命名
『しもいしだにちょうめの山茶花、とそばでくねくねしてる櫻の枝』 でした。
それでは、ここから、新米ママと赤ちゃんのエッセイ、“し”の巻、始まります。
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『“随筆”育母百科・アフリカゾウのさかさまつげ』
~“し”の巻~
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◆しんぱいをかけるぜいたくするかって=心配を掛ける贅沢、する勝手。
親子の間には見えない紐状のつながりが存在する。
“心配”は その紐の芯 になる一本。
太さや長さは必要に応じて自然に変わる
主に実際の親子間の物理的な距離に比例して伸び縮みするのである。
「隣のウチに回覧板を回してきて」と頼んだときより、
歩いて30分かかる広場へ遊びに行かれたときの方が、
心配という名のその紐は、より長く、より太くなるのである。
我が子が成人となりゆく過程でも同様に変化する。
子どもが大人の階段を昇り始め、
青春の門にさしかかる程に成長したある朝
突然、「友達とちょっとディズ○ーランド行ってくるわ」と言われ、
深夜まで帰らなかったりしたら、
この紐は、世界の山々を股にかけて活躍する
ロッククライマーの使うナイロンザイルよりもっとぶっといモノとなる。
ところが、
太くなったらなっただけ、逆にそよ風にも反応して激震する
超デリケートな代物にもなり得るから厄介なのだ。
震える極太ナイロンザイルを
胸のコードリールに巻きつけて、
帰った我が子の顔を見るなり、
「まったく、どれだけ心配したと思ってるのよっ」
などと言った日には、
「心配してくれって頼んだ覚えはない」と、
昔々のドラマで見たワンシーンが
自分ちの茶の間で再現されることとなる。
確かに、頼まれてないし。
子どもはちゃんとその日の予定を伝えてから出かけたのだし。
カ○ブの海賊の一味に捕らわれてないかしら、とか、
ポップコーンをひっくり返して泣いてないかしら、
などと心配していたのは親の勝手だったのだ。
とは言え、
親の仕事はどれもこれも子どもに頼まれてからやるものではない。
生まれた赤ちゃんが「ママさぁ、そろそろミルク作ってくれ」とは言わない。
言われなくてもそうした方が
子どもにとっていいことだとわかっているからそうするのだ。
そう考えれば育児のすべてはある意味、
親の勝手で成り立っていると言ってもいい
ここで言う
“親の勝手”の大前提は、子どものためだということ。
父親が父親であることを忘れた男として、
または、母親が母親を忘れた女として
勝手気ままに振る舞う行為は別物。
親の勝手とは人類最大のミッションなのだ
それは、ある時は子どもの人生の並木道のガードレールとなり、
またある時は即席の橋となり、
またまたある時は赤信号となったりするのだ。
親がこの勝手をやめたら、
あっという間に子どもが曲がる、転ぶ、息切れする。
最終的にはどんどん親と離れていくこととなり迷子になるのだ。
こうなるとさすがの極太ナイロンザイルも伸びきってほとんど役に立たなくなる。
だがそれでも絶対に切れることはない。
勝手だろうが台所だろうが
親は覚悟と信念を持って
親のキッチンを、否、勝手を貫くに限るのだ。
覚悟と信念が曖昧な場合はこの限りではない。
この場合は信頼できる人生の先輩にけん引してもらうことも
親の勝手に盛り込まれていることを忘れてはならない。
さらに自分自身も親となって初めて気付くのが、
自分もまた親に心配をかける贅沢をしてきたという事実。
同時に、
親が死ぬまで子である自分の心配をするのは
親として当たり前の義務だ、くらいに思っていたものが、
心配を掛けることのできる相手がいるということは、
シャ○ルのバッグを持つことよりも
大粒ダイヤのリングをつけることよりも
超贅沢なことなのだと恐れ入ることになる
そしてどういうわけか、
すぐにも親のところに出向いて
何かしら謝りたい衝動にかられたりもする。
実際に突然「母さん、すまなかった」などと謝ると
「ええっあんた、いい年して何しでかしたの」と、
また新たな心配を掛けることになるのでやめておいた方がいい。
心配を掛けることのできる相手がいること、
それこそがプライスレスな贅沢なのだとわかったならばそれでいい
親子間に存在する心配の紐は厳かな光を放つ黄金色にほかならない。
ただし、尊過ぎてそう簡単には見えはしないのだけれど
母親は一日にして成らず。
でも、心配いりません。
ちゃんと育っていけますから。
子どもがちゃんと“お母さん”を育ててくれますから
(つづく)
◆◇◆甲府市内の子育て関連情報◆◇◆
≪イベント≫
2013年3月21日(木)
・子ども☆わくわく映画会
≪ 教 室 ≫
2013年3月16日(土)
・イクメン養成講座「はじめてのベビー・マッサージ」
・まちなか健やかサロン健康教室日程
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